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残業が終わらない夜は、いつもよりオフィスが広く感じる。時計の針はすでに22時を回っていた。デスクの明かりだけがポツンと灯る中、私は今日三度目のミスを修正していた。課長に渡すはずだった企画資料の数字が、根本的に間違っている。提出前に確認した時は問題なかった。でも、資料が全てを物語っている。
「またやった……」
とため息が漏れる。指先は疲れで震え、キーボードを叩く音だけが虚しく響く。
「佐々森さん、まだ残ってるんですか?」
背後から、柔らかい声がした。振り返ると、真言寺くんがコンビニのビニール袋を提げて立っていた。制服のネクタイを少し緩め、黒縁メガネの奥の瞳が心配そうに細められている。
「あ……真言寺くん。もう帰ったと思ってた」
「僕も残業だったんですけど、電気がついてて。佐々森さんがまだいるみたいだから……」
彼は少し照れたように笑って、袋からホットコーヒーと一緒に、温かい紅茶のペットボトルを取り出した。
「イチゴのキャンディーだけじゃ物足りないかなと思って。紅茶、好きですか? ミルクティー味です」
受け取ったペットボトルの表面がほんのり温かい。先日の化粧室での指先の感触を思い出し、胸が少しざわついた。
「……ありがとう。いつも、こんなに優しくしてくれて」
真言寺くんは私の隣の空いた椅子を引き、そっと腰を下ろした。距離はデスク1つ分。でも、深夜の静かなオフィスでは、なんだかずいぶん近く感じる。
「僕、手伝いますよ。どの部分が間違ってるんですか?」
「え……いいの? アルバイトなのに……時間外だよ」
「いいんです。佐々森さんが一人で抱え込んでるの見てるの、嫌なんです」
彼は私の画面を覗き込み、すぐに問題の箇所を見つけた。長い指がマウスを滑らかに動かし、数字を素早く修正していく。意外と手際がいい。年下なのに、まるで慣れたように。
「こことここ、連動してるんです。僕が計算直しますから、佐々森さんは文章の方を整えてください」
一緒に作業を始めて30分ほど。最初はぎこちなかった会話が、少しずつ自然になっていく。
「真言寺くん、大学は何学部?」
「経済学部です。でも、実は……会社のこととか、結構興味あって」
「へえ。将来はこっちの業界に来るの?」
彼は一瞬、手を止めて微笑んだ。メガネの奥の瞳が、柔らかく光る。
「さあ……どうかな。でも、今はここにいたいんです。佐々森さんの近くに」
その言葉に、キーボードを打つ指が止まった。顔が熱くなるのを感じて、慌てて紅茶を一口飲む。甘くて、ほんのりイチゴの香りがする。作業が一段落した頃、真言寺くんが小さく息を吐いた。
「佐々森さん、最近……彼氏さんとのこと、大丈夫ですか?」
突然の名前を出されて、胸がチクッと痛む。私は目を伏せて、曖昧に頷いた。
「……まあ、忙しいみたいで。最近、ほとんど話せてないかな」
「そうですか」
真言寺くんの声が、少し低くなる。
彼はホットコーヒーを飲み干してから、静かに続けた。
レモン
ふわねこカラメル
30
695
「僕、佐々森さんのこと……もっと知りたいんです。いつも頑張ってるのに、誰も褒めてくれないみたいで。僕だったら、毎日『お疲れ様』って……作ってくれたご飯も一緒に食べたいです」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。年下の彼が、私に向ける視線は真っ直ぐで、熱を帯びている。
「……真言寺くん、なんでそんなに優しいの?」
「優しいんじゃなくて、ただ……佐々森さんが笑ってる顔が見たいだけです」
「笑っている顔……」
「はい」
彼は椅子を少し近づけ、私の手にそっと自分の手を重ねてきた。温かくて、少し汗ばんだ掌。指が絡まるように、軽く握られる。心臓がドキドキと落ち着かない。私は握られた手から目を逸らした。頬が紅潮するのが分かった。真言寺くんは平気な顔で、私の顔を覗き込む。ずるい。鼓動が早くなる。
「今日はもう、帰りましょう。僕、駅まで一緒に歩きます。危ないから」
「あ……うん」
その瞬間、距離が縮まった。物理的な距離も、心の距離も。オフィスの明かりを落とすとき、真言寺くんが小さく呟いた。
「佐々森さん……これからも、僕に頼ってくださいね。どんなことでも」
「ありがとう」
外に出た夜風は冷たかったけど、彼の隣は不思議と温かかった。イチゴの甘い余韻と、初めて感じる「守られている」ような安心感が、胸の中で静かに広がっていく。この夜から、私の中で何かが変わり始めた。