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3 氷
「先生は、人が恋に落ちる音を聞いたことが、ありますか……?」
自分の営業担当兼患者のいつもとは違う様子に、神宮寺寂雷は興味深げに目を見開いた。
「……音、かい?」
もごもごと口の中だけで喋る患者に、次の言葉を求める。
「……はい。……からんって……氷、みたいな」
照れとも戸惑いともとれる彼の表情の中から、本心を手繰り寄せるのは容易ではない。
慎重に、だが的確に。
「……詩人だね。独歩君。……恋をしているのかい?」
前髪の間から、隠された瞳を覗き見ると、答えの代わりに、困ったように一筋の涙が見えた気がした。
「ど……」
「先生。そろそろ次の患者様のお時間です」
ノックと同時に看護師が入室してくる。
「ああ、すまない。準備をするので、席を外していてくれたまえ」
独歩の姿を隠すように立ち上がると、看護師の方へ微笑みで返した。
「……独歩君。困ったら、またいつでも気軽に連絡しておいで」
ハンカチを手渡し、普段以上に丸まった背中を見送ると次の診察の準備に取り掛かるのであった。
それにしても。恋に落ちる音、か。
「独歩君が恋、をね。……本人は気付いていないようだが、興味深い……」
寂雷は、窓の外をいささか駆け足で過ぎてゆく青年を見て、目を細めた。
「先生に、なんてことを言ってしまったんだ俺は……」
後悔先に立たずとはよく言ったもので、独歩は自分の言動に早くも後悔をして頭を抱えていた。
感情に、音なんてあるはずがないだろう。自分に言い聞かせる。
感情……?
誰の?
何の感情?
俺の……
「いや、ダメだ」
自分の感情を否定するように、頭を振る。俺が、そうだとしても、一二三はどうなる?
一二三には俺が、俺には一二三が。
……互いにまだ必要な筈だ。
陽葵は確かに可愛いが……
「いや、なんでここであいつが出てくるんだよ……」
すでに空になっていた水のペットボトルを潰すと、半ば八つ当たり気味にカバンに押し込んで、職場へ向かった。
「よお」
自分の営業エリア外を代理で回っていた陽葵は、テレビで見知った人物に声を掛けられた。
「あ。サマトキサマ」
突然のことに驚き、思わず素っ頓狂な声をあげる。
「あ?んだそれ……」
その風貌に似合わず、屈託無く笑う【その道の人】に少し安堵した。
「こんなところ、うろついて何してんだ?」
あぶねーから、駅まで送ってやんよ。という有難い申し出を受けつつ、いつの間に買ったのか冷えたコーヒーを受け取る。もしかしたら、飲もうとしていたところだったのかもしれない。
「お前さ……。いや、なんでもねぇ」
物言いいたげに口をつぐみ、出し掛けた煙草をポケットに押し込む姿が、妙に様になる。
「……私喫煙者なんで、大丈夫ですよ?火、要りますか?」
陽葵は、ジャケットのポケットからジッポーライターを差し出した。
「……ん。悪りぃな」
「ふふ。人様の煙草に火をつけるの、初めてです」
まるで、ホストさんみたい。
そう言って陽葵が笑うと、左馬刻がバカヤロ、と額を人差し指の関節で小突いてきた。
まるで歳上の幼馴染か、兄妹の様だ。
(幼馴染……か)
「左馬刻さん、送っていただきありがとうございました」
シノギを回収し建物を出てコーヒーと煙草でもと思ったところで、偶然先生の仲間の職場の女を見付けたから声を掛けた…それだけのことだったが、あの気の弱いサラリーマン同様、礼儀正しい姿に思わず笑みが漏れた。
所謂、シャカイジンってぇのは、皆そうなのかねぇ。
「寄り道しねぇで真っ直ぐ帰れよ。ヨコハマはあぶねーからよ」
子どもじゃないんですから、と笑いながら踵を返すその姿に、自身の妹が重なる。
「……ちっ」
左馬刻は、パンツのポケットから自分のジッポーライターを出して煙草に火を点ける。
陽葵が握り締めていた、少し黒味がかったシルバーのそれは、確かに何処ぞのホストの持っていそうなものだった。
十字架のデザインなんて、よくあるモンだ。
だが、女が持つには些か厳つい様な気がした。
自身の妹が、何処ぞの輩に入れ込んだかの様に感じ、煙草の吸口を噛み潰す。
——胸糞悪ぃ。
「……あー。あいつら、シンジュクの会社だったな……」
半ば無理矢理自分を納得させ、携帯灰皿に火を点けたばかりの煙草を押し付けた。指先に熱が伝わる。それを揉み消すと、元来た道を戻るのであった。