新しい職場、どきどきするな。
エレベーターの中の鏡でもう一度、身だしなみをチェックしよう。
新しい会社に派遣されたばかりの派遣秘書、城沢月花はそう思いながら、ロビーでエレベーターが開くのを待っていた。
ようやく着いたエレベーターには若いのに貫禄がある男がひとりだけ乗っていた。
鼻筋の通った整った顔をしているが、ちょっと厳しめの顔つきで、この人が上司だと嫌だな、と瞬時に思ってしまう顔だった。
まあなんか偉そうだけど、若いから、この人が上司ってこともないか、と思いながら、頭を下げて乗ろうとしたが、男はエレベーターから何故か降りない。
月花を上から下までまじまじと見つめている。
「見つけた……」
こちらに向かって一歩踏み出しながら、彼は言った。
「俺の花嫁――」
えっ?
「――衣装にピッタリそうな女」
いや、なんなんですか、それは……。
「すまない。
真実がすべて口から出てしまった」
まあ、座りたまえ、というその男に月花は専務室の応接室へと通された。
……専務だったのか。
もらった会社のパンフレット、古かったんだな。
私が見た会社案内では、なんかおじさんが専務だったのに。
月花はソファに座らされ、あろうことか、専務自ら珈琲を淹れてくれてくれた。
いや、部屋の隅にある機械にカプセルをセットして、ガーッと淹れてくれただけなのだが。
一応、秘書業務をやってきた人間なので落ち着かず、何度も立ち上がろうとして、手で抑えられる。
そういえば、秘書の人たちはどこに行ったんだろう?
専務が人払いしたのかな、とキョロキョロしていると、座らず、月花の前に立ったまま彼は言う。
「俺は専務の藤樫錆人。
見たらわかるだろうが。
一族の七光でここにいる」
……私が今、腹の中で推測していたことを自分で言いましたね。
ていうか、身長的に側に立たられると、かなり威圧的なので、座ってください、と思う月花に錆人は言った。
「そうか、君は、常務の秘書としてこの会社に来たのか。
では、クビにしてもらおう」
……なんか今、流れるようにとんでもないこと言いました?
「あの――」
「クビにしてもらおう。
いや、派遣会社の人間だったな。
では、お前をお断りして。
別の人間を派遣してもらおう」
「いやあのっ」
「その代わり、お前は俺が雇おうじゃないか」
「えっ?」
「実は今、花嫁を募集しているんだ」
なに真顔で、事務員を募集してるんだ、みたいな感じで言ってるんですか。
「ハローワークにでも求人を出してください」
と思わず言ったが、
「今すぐいるんだ、花嫁が」
と言われてしまう。
「大至急と書いてもらってください」
「二時間後にいるんだ。
ホンモノの花嫁を取り戻したくはないが、取り戻せたら、そこでお役御免でいいから」
「そんなことを言う花婿のところには戻りたくないと思いますが……」
そこで、ふう、と錆人は溜息をついて言った。
「そうだな。
協力してもらうからには真実を話す必要があるだろう。
実は――
偽装結婚の花嫁に逃げられたんだ……」
偽装なのにっ!?
「『あなたも真実の愛を探してください』という書き置きがあった。
見つけられたのだろうかな、あいつには……」
と錆人は遠い目をして窓の外を見る。
「今日仮縫いがあるのを知っていたはずなのに。
3日で俺に真実の愛が見つけられるとでも思っていたのだろうか。
大体、あいつは昔からやることが雑なんだよ」
「古いお知り合いだったんですか?」
「俺の従姉だ。
結婚する予定のないあいつに偽装で花嫁になってもらう予定が。
この短期間に真実の愛を見つけたらしく逃げ出してしまったんだ」
「でも、偽装結婚の花嫁に逃げられて、また偽装とか。
よほど結婚しないといけない理由があるんですか」
そう、彼にはあった。
今すぐ結婚しなければならない理由が――。
「そもそもは、じいさんが危篤になって。
お前たちは結婚する気配もない。
将来が心配だ、といまどきどうなんだ、それは、ということを言い出したんだ。
まあ、最後に安心させてやるかと別々の相手を見つけるのも面倒くさいので、二人で結婚すると言ったら、じいさんは安心して――
元気になった」
「……それはよかったですね」
「引っ込みがつかなくなったので。
まあ、社会的にもその方がいいかと偽装結婚して別居しようという話になっていたのに。
あいつは真実の愛を見つけたらしく、どこかへ旅立ってしまった。
そこで困ったのが、一人残された俺だ」
いや、俺とあいつのサイズぴったりに作られようとしているウエディングドレスだ、と錆人は言う。
「実は、よそのアパレル企業が潰れ、下請け会社も困っているのを見兼ねて、助けるプロジェクトを起こしたら。
感謝したみんなが一致団結して、俺の花嫁に素晴らしいウエディングドレスを作ってくれると言うんだ。
動画のメッセージで幸せになってください、とキラキラした目を向けられ、あいつは耐えられなかったのかもしれないな。
相手を失望させないために、ずっと嘘を貫き通すことも必要だと思うんだが」
お前、どう思う? と言われたが、いや、そんな特殊な状況下に置かれたことがないのでわかりません、と月花は思っていた。
「真実を言って謝ったらどうですか?」
「そんなことできるかっ。
お前もあの人たちに、ものすごい感謝の目で見つめられてみろっ」
……この人、実はいい人なのだろうか。
いや、いい人が派遣秘書をクビにするとか言わない気もするが。
「そうですか。
協力して差し上げたいのはやまやまなんですが。
実は私、今、三人の男性からプロポーズされてまして」
「その言い訳、苦し紛れにも程があるぞ」
「いや、ほんとうなんです。
スープ屋さんと雑炊屋さんと焼肉屋さんにプロポーズされてるんです」
「ちょっと待て
相手の男が全部食べ物屋なのは、なんでだ」
「……なんででしょうね」
こっちが訊きたい、と月花は思っていた。
「嘘だと思うなら、お昼休み、お店に行ってみられますか?」
「……では、焼肉屋に」
それ、焼肉が食べたかっただけでは……と思ったが。
ランチはやっていない店なので、とりあえず、雑炊屋に行くことになった。
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