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白波 灯
219
鬼霧宗作
303
海外研修の募集案内を、一週間机へ置いたままにした。
行きたい気持ちはある。
それでも、母と莉央を残していいのか。病院を離れれば同僚へ負担を掛けないか。慧のいる施設を第一希望にすれば、彼を追ったと思われないか。
やっと自由に決められるようになった。
なのに、自由は思っていたより怖い。
誰かに決められた道なら、うまくいかなかった時にその人のせいにできる。今度は、選んだ結果まで全部私のものになる。
実家へ案内を持っていくと、母は募集要項を最後まで読んだ。
「行きたいの?」
「行きたい」
「なら応募しなさい」
「莉央のことがあるでしょう」
「莉央のことは、私が母親として考える」
「お母さん一人へ背負わせるみたいで」
「私も、自分で選んでいるの」
湯呑みを置いた。
「家族のためと言われて、久世家に人生を決められそうになったでしょう。今度は、自分で自分を縛るの?」
「でも、莉央はまだ」
「流産後の生活を立て直すのは、莉央自身の仕事よ。姉だから一生面倒を見る必要はない」
廊下の向こうで物音がして、莉央が部屋から出てくる。
「お姉ちゃん、海外行くの?」
「まだ応募してない」
「行けばいいじゃん」
「あなたに言われて決めることじゃない」
「分かってる。私のせいで残られる方が嫌。そんなことされたら、また一生お姉ちゃんに負けたと思うから」
「勝ち負けで考えるのをやめなさい」
「すぐには無理。でも、自分のことは自分でやる」
莉央は仕事へ復帰し、遼介との連絡を弁護士経由へ変えた。沙耶の調査にも協力している。
以前のように開き直り、全部を私のせいにすることはない。
だからといって、姉妹関係が元へ戻ったわけではない。
顔を見れば、寝室の扉や超音波写真を思い出す。謝られたから消えるほど、傷は浅くなかった。
「謝れば許してもらえるとは思ってない」
「うん」
「お姉ちゃんの人生が欲しかった。医者になる努力もしないで、夫と家だけ取れば同じになれると思った」
「同じにはならない」
「分かってる。私、お義兄さんが欲しかったんじゃなくて、お姉ちゃんより選ばれたかったのかもしれない」
「それで失ったものは戻らないよ」
「うん」
莉央を抱きしめなかった。
許したとも言わない。今は、まだ言えない。
それでも、謝罪を聞きたくないと席を立つこともしなかった。
元へ戻るのではなく、ここから別の姉妹関係を作れるのかもしれない。そう思えるところまでは来ていた。
「お姉ちゃんがいない間に、自分の生活を立て直す」
「私が行くかどうかに関係なく、そうして」
「分かってる」
会話が、初めて逃げずに終わった。
帰宅後、応募する前に自分へ三つ質問を書いた。
慧が別の国にいても、その施設を選ぶか。
採用されても、慧と交際できないとして行きたいか。
帰国後、今の病院へ戻れなくても、この専門を学びたいか。
三つの問いを何度読み返しても、答えは全部『はい』だった。
慧と付き合えなくても行きたい。別の施設へ移っていても学びたい。
そこまで確認して、ようやく応募画面を開けた。
胎児医療と出生前診断を、より体系的に学びたい。
父が病気で亡くなった時、私は早く異常を見つけられる医師になりたいと思った。産婦人科へ進み、胎児医療へ触れる中で、検査で得た情報を家族へどう伝え、どの選択を支えるかに関心を持つようになった。
今回の出来事では、私自身が感情と診療の境界を見失いかけた。
技術だけでなく、遺伝カウンセリング、胎児治療、多職種連携を学び直したい。
志望理由へ、夫の不倫は書かなかった。
個人情報を伏せ、利益相反のある患者から担当を外れ、チームで安全を守った経験と、そこから得た課題だけを記した。
指導医へ推薦状を依頼する。
「久世記念病院へ移ると思っていたが、海外か」
「はい。帰国後の勤務先も、その時に自分で決めます」
「逃げたと言う人もいるかもしれない」
「誰から逃げたと?」
「元夫や、その家族から」
「その人たちの評価で進路を決めることは、もうしません」
指導医は少し笑い、推薦を引き受けた。
母が、父の古い万年筆を持ってきた。
「お父さんが、千紘の入学願書に使うつもりで買ったの」
「亡くなった時、私はまだ中学生だったよ」
「医者になりたいと言ったのを聞いて、気が早く買ったのよ。合格した時に渡すつもりが、出せなくなって」
黒い軸には、小さな傷がある。
「今度は、自分で選んだ場所へ行く書類に使って」
「応募はオンラインだけど」
「署名する紙もあるでしょう」
母らしい答えに笑った。
応募後、面接はオンラインで行われた。英語での症例検討には緊張したが、専門について話す間は迷わなかった。
一か月後、採用通知が届いた。
受入先は、第一希望にしたアメリカの胎児医療センター。
数年ぶりの採用通知に、胸が高鳴る。
まだ、こんな感情が自分にあることにおどろかされた。
自分の経歴で選ばれ、自分の意思で受けた場所。
そう思うと、あの人に次に合えた時、胸を張れる気がした。
コメント
1件
うわあ、このエピソードは心に沁みました。千紘が「自由は怖い」と認めた上で、それでも自分で問いを立てて答える場面が本当に印象的でしたね。特に「慧と付き合えなくても行きたい」という三つ目の問い、あれで彼女の意志の強さがはっきり伝わってきました。母から父の万年筆を受け取るシーン、伏線の効かせ方が巧いです。莉央との関係も「謝られたから消えるほど傷は浅くない」という現実感がリアルで、それでも別の関係を模索するところに希望がある。とても好きな回でした。