テラーノベル
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空港を出た瞬間、乾いた風が頬へ当たる。住居、保険、銀行口座、病院で必要な手続き。英語が通じても、生活の仕組みは日本と違った。
初日のオリエンテーションで、各部門の責任者が紹介される。
「胎児超音波・画像解析部門の榊原慧博士です」
「どうしてここに?」
扉から入ってきた慧を見て、立ち上がりかけた。
日本語で漏らすと、慧も一瞬だけ目を見開いた。
「それは、こちらの台詞です」
周囲の職員が不思議そうに私たちを見る。
慧は英語へ切り替え、以前同じ病院で働いていたとだけ説明した。業務上の挨拶が終わるまで、私たちは個人的な話をしなかった。
施設案内の途中、二人になったところで確認する。
「私が採用されたこと、いつ知りましたか」
「最終決定後です。人事へ利益相反を申告し、選考へ関与していないことも記録してもらいました」
「私も確認しました」
「そこまで疑いましたか」
「自分で選ばれたと分からなければ、来られなかった」
「高瀬先生らしい」
「なぜ、この施設を?」
「胎児心臓超音波と母体胎児医療の共同研究が、三施設の中で最も充実していたからです」
「僕がいたからではなく?」
「知るわけないですよね」
「安心しました。僕を追って人生を決める先生は、僕が好きになった先生とは違うので」
胸が跳ねた。
そんな言い方をされたら、期待してしまう。
まだ、あの告白が有効なのか、彼の気持ちがまだ残っているのか。
今の私にはよくわからないから。
それでも慧は、以前の告白を繰り返さない。
私が同じ施設へ来たことを、返事の代わりにはしないつもりなのだろう。
その日の帰り、住居まで送ろうとはしなかった。
「空港からの移動は、人事が手配した車ですね」
「はい。鍵の受け取りも済んでいます」
「緊急連絡先は、研修担当の番号を使ってください。僕個人の番号を最初に使う必要はありません」
「徹底していますね」
「受入側の責任者と、以前告白した相手が同じなので」
自分から利益相反を口にしてしまう。
「では、私も困った時に何でもあなたへ聞かないようにします」
「生活上の質問を禁止しているわけではありません。ただ、僕だけが頼れる人になる形は避けたい」
私は頷き、同僚たちと用意された車へ乗った。
再会した初日から、何もかも慧へ頼らずに済んだ。
頼らせてもらえないことが寂しいのではなく、自分で暮らせる人間として扱われることが嬉しかった。
赴任後の数週間は、想像以上に厳しかった。
症例検討は英語で行われる。検査手順も、患者への説明文化も日本とは異なる。分からない言葉を聞き返すことを恥じれば、患者へ不利益が出る。
最初のカンファレンスで、胎児心臓の所見をうまく説明できず、質問へ詰まった。
助け舟は出なかった。
白波 灯
196
#王子
すっこ
376
終了後、検査室で資料を渡される。
「次回までに、ここを整理してください」
「少しくらい助けてくれても」
「答えを代わりに言えば、先生の評価になりません」
「海外でも厳しい」
「日本から来たからと甘く扱う方が失礼です」
腹は立ったけれど、翌週の発表では同じ質問へ答えられた。
会議の最後に、慧が全員の前で言う。
「高瀬医師の説明で、判断根拠が明確になりました」
自分が教えたからできたのだとは言わない。
私が評価されると、遼介はいつも理由を外へ探した。大学名、症例数、上司の贔屓。
慧は、私が準備して答えた結果として認めてくれる。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
意見がぶつかる時も同じだった。
「この断面だけで否定するのは早いです」
「追加画像では明らかな所見はありません」
「解析値が境界です」
「臨床的意義を過大評価していませんか」
「では、共同で再評価しましょう」
議論の後、私の判断が正しければ、迷わず認めた。
「先生の所見で正しかったです」
「負けた気分にならない?」
「患者にとって正しければ、僕の勝ち負けではありません」
患者にとって正しいなら、自分の負けではない。
遼介が最後まで理解できなかった考え方だった。
慧と仕事をするたび、対等に並ぶとはこういうことなのかもしれないと思う。
一か月ほど経った夜、長い処置を終えて宿舎へ戻ると、ドアノブへ紙袋が掛かっていた。
緑茶、即席の味噌汁、父の万年筆にも使える日本製のインク。
短いカードが添えられている。
『お疲れさまでした。食事を取って、眠ってください。返事は不要です』
署名はない。
それなのに、誰が置いたのかは分かる。
翌朝、検査室で紙袋の礼を言う。
「受入責任者の仕事ですか」
「緑茶とインクは個人的に」
「境界線を越えましたね」
「嫌でしたか」
「いいえ。嬉しかったです」
「そうですか」
慧の手が一瞬止まる。
それだけで、また画面へ視線を戻した。
返事を期待する言葉も、好意を確認する質問もない。
その夜、母と電話をした。
『慧さんには会えた?』
「どうして名前を知ってるの」
『日本を発つ前、挨拶に来てくれたの。千紘をよろしくなんて頼んでないから安心して』
「何を話したの?」
『あなたを待つために行くわけではない。でも、また会えたら嬉しいとは言ってた』
机の上のインク瓶を見た。
慧は、私を待つためにここへ来たのではない。
自分の仕事を選び、自分の生活を築いていた。
同じ場所へ来た私へも、返事を迫らない。
その距離が心地よくて、少しもどかしい。
変えたいと思うなら、今度は私が動く番だった。そう気づくと、胸の奥が落ち着かなくなった。
コメント
1件
お疲れー!読了したわ! 正直、この二人の距離感の取り方、めちゃくちゃ良いよね。慧が「利益相反」って自分から申告してるの、プロとしての自覚と誠実さが全面に出てるし、それでいて緑茶とインクをドアにかけてるギャップにやられたわ。 議論で勝ち負けじゃなくて患者にとって正しい方を取るって名言すぎる。遼介が理解できなかった考え方って対比も効いてるね。今度は主人公が動く番って終わり方、続き気になるわね🔥