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619号室

29 - 第29話 死ぬべき命と守るべき命

2024年08月04日

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************


「ちょっと!!」


嫁の声が聞こえる。


「ちょっとってば!!」


時刻は6時。

こんな朝っぱらからよくそんな通った声が出るなと感心してしまう。

隆太は片目を開けた。


目の前には大きな腹を揺らした詩乃が、こちらを睨んでいた。

手に空き缶が握られている。


「―――あんだよ……?」

眉間に深い皺を寄せながら睨む隆太に詩乃がその缶を翳してくる。


「どうしてちょぴっとだけ残すの!?こうやって一口だけ残ってる缶ビールが3本もテーブルの上に転がってんだけど!?」


「……………」


隆太はしょうがなく上半身を起こした。

欠伸をしながら、タンクトップの裾から手を入れ、脇腹を掻く。


「最後の一口ってまじいんだもん」


唇を尖らせながら言うと、詩乃は隆太より数倍深い皺を眉間に寄せながらこちらを睨んだ。


「それならそれで、自分で捨てて!妊娠してからお酒の匂いダメになったって何回も言ってるよね!?」


「あーはいはい」


隆太は缶を受け取りながら薄く笑った。



―――また、”妊娠”ね。


どうやらこの世の女の大半は、妊娠したら偉くなると勘違いしているらしい。

稼いできてくれる夫には、ろくな飯も出さずに、自分は家でゴロゴロゴロゴロ。


『寝ても寝ても眠いんだからしょうがないでしょ!』


眠いだけ寝てるから眠いんだろ。


一度そう言ったら思い切り頭を叩かれた。


男が殴ったらやれDVだの離婚だの騒ぎ出すくせに、女の暴力はノーカンですか?

そんなの誰が決めたんだ。


隆太は黙ってふらつく足で台所まで行くと、缶の中身を捨て、そのままごみ箱に投げ捨てた。


「濯いでって!!ごみ箱が臭くなるでしょ!?」


そのヒステリックな声に思わず拳を握る。


なんで俺が。

今まで女にマウントとられることは愚か、に苦労することさえなかった俺が――――。


自分には低すぎるシンクで缶を濯いでいると、その丸めた背中に、自分が止めるはずだった目覚まし時計が響く。


………あーあ。今まで眠れたはずだったのに。


時間にして数十秒かもしれない。

でもその数十秒は間違いなく至福の時間だったろうに。


―――なんで俺が……俺ともあろう男が。


隆太はテーブルを拭いている詩乃を、気づかれないように睨んだ。



―――こんな女の言いなりにならにゃいかんのだ……。



出会いは、文字通り“間違い“だった。


あるゲームサイトで、自分の少し昔の画像をアイコンに使っていた隆太に、DMを送ってきたのが「しい姉」こと、詩乃だった。


『もしかして、ショウタですか?』


「―――ショウタ?誰だよ。そんなハンドルネーム使ったことなんてあったかな」


自分の名前とのニアミスに他人とも言い切れず、隆太はDMを返した。


『惜しい!リュウタだよ!』


『本当に?長南翔太じゃないの?』


これには笑った。全くの他人だ。


『不器用で損ばかりの長男だけど、隆太だよ(笑)』


『人違いだった。顔似てたもんで。すみません(笑)でも……私も長女だから気持ちわかる…!』


そんなくだらない人違いからDMのやり取りが始まった。



『ゲレンデの整備ってどうやるんですか?』


『夜中に圧雪車でゲレンデを走り回るんだよ』


『へえ、すごい!』


当時、夏場はとび職として働き、冬は除雪作業員兼スキー場の整備員としてとして東北に泊まり込みで出稼ぎに行っていた隆太に、詩乃は興味を持ってくれたみたいだった。


だから、


『いろいろ話聞いてみたい。一度会いませんか?』


誘ってきたのは詩乃だった。



その時はすでに彼女は大手ゼネコンで働いていると知っていた。


鳶職と言えば聞こえはいいが、精々下請けの日雇いがいいところで、自分に直接の仕事が舞い込むわけでもなく、建て方や大きな建築などに短期で声を掛けられる程度の自分は、彼女とは到底釣り合わないと思った。


『もっちろん。俺だって、しい姉に会いたい!!』


しかし迷いはなかった。


一度くらい極上の女を、極上のレストランに連れて行ってみたい。


そしてあわよくば極上の部屋で、極上の一夜を共にしたい。


そんな下心を隠すこともなく、駅で待ち合わせをした。



「―――隆太さん?」


振り返ると、雑誌の中でしか見たことのないような高そうなワンピースを着て、彼女は立っていた。


「―――うわ」


隆太はそれ以上言葉が出てこなかった。


こんな綺麗な人が、すでに時代遅れだとどんどんユーザーが減っている古めのネットゲームに、夜な夜なパソコンを立ち上げてログインする姿がどうしても想像できなかった。


―――もしかして、これ、あれじゃねえの?バックにヤクザとかがついてて、なんて言うんだっけ。あれ。あ、そうだ。美人局……?


「やっぱり似てる……!」


それとなくあたりを見回す隆太に彼女は微笑みながら、通行人の邪魔にならないように距離を詰めた。


「これが長南翔太君。私の同級生」


言いながら翳してきた携帯画面には、自分とまあ似てなくもない男が、学生服姿で写っていた。


「ナニコレ。高校生?」

聞いた隆太に詩乃は、


「そう、高校の時に付き合ってたの。大好きだったんだぁ」


と悪びれずに言った。


「――――」


ーーーこの人、大丈夫かな。

本当に美人局とかじゃないなら、大好きだった元カレに似てるってさ。

俺に対してそう言うのってさ。

俺のこと好きだって言ってるも同然じゃね……?


一気に頭が沸いた。


「でも隆太君はショウタよりかっこいい」


彼女はそう言いながら隆太の腕に巻き付いた。


優秀な弟だけ可愛がって自分をないがしろにしてきた両親にーーー。


顔だけはイケメンに生んでくれた親父とお袋に、初めて感謝した。


自分が食べるどころか見たこともないようなフランス料理のコースの味がわからないほど、隆太は詩乃に夢中になった。


飾らない話し方。

鼻につかない程度の仕事の話。

美味しそうに頬張る唇。

赤ワインを飲むたび、ほんのり色がついていく頬。

その頬を仰ぐ白く小さい手。


全てが絵に描いたように可憐で尊くて、隆太はこの夜がずっと続けばいいなんて馬鹿な事まで考えた。


詩乃は、自分の下で、または上で、アンアン言いながら喘ぎ声を上げてきた女とは全く異質だった。


なんならそんな醜い感情やいやらしい欲望が浮かびもしないほど、隆太には神々しく見えた。



「すっごく美味しかった!ありがとう!」


彼女はコース料理を堪能して朗らかに笑った。


隆太の1ヶ月分の給料がそのコースとワインで消えていったが、そんなのどうでもいいと思わせてくれるほどの笑顔だった。


とても上の階に部屋をとっているとは言えなかった。


それでも名残惜しくて、彼女の言葉を待っていると、詩乃は少し恥ずかしそうに言った。


「でも、こんなに無理しなくて良かったのに」


「え」


無理してるとバレていたのが恥ずかしかった。



―――そりゃあ鳶だって言ってるし?


ゼネコンと違って若手の鳶なんて、儲かってるイメージはないかもしれないけど。

それでも一張羅のスーツを着て、気張ってきたのにな……。



「だって、初回でこういうのやっちゃうと、次、誘いにくくならない?」


「――――?」


隆太ははじめ彼女が何を言っているかわからなかった。



初回?


次?


え。なに?


俺たちって次があるの?



「次は隆太君行きつけの居酒屋がいいなっ!」



目を丸く見開いていた隆太に詩乃は微笑んだ。


ーーーあの頃はものすごく可愛かったのに。


結婚して妊娠して、彼女は変わった。

ものすごく怒りやすくなった。


そして子供が生まれてからは―――。


「……はは。思い出したくもねぇ」


隆太は仰向けに寝転びながら常夜灯に照らされた薄暗い天井を見上げた。


しかしーーーー。


どんなにムカつく女だとしても。


ーーー子供を亡くして泣く姿は見たくねえ。



脳裏に尾山の神経質そうな顔が浮かぶ。


ーーーあいつを生き返らせるわけにはいかない。


バグなんかじゃねえ。

あいつは、死ぬべきだ。


眼を瞑る。


今度は2歳になる娘の顔が浮かんだ。



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