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凪川 彩絵
#独占欲
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とりあえず救出できたけど、後が大変そう!?
木島が晴永の方を振り返って何か言おうとしたが、晴永はそれを待てなかった。
足音もほとんど立てずに大股で歩くと、日下の背後へ回り込む。
そうして、声を低めて男の名を呼んだ。
「日下」
意図したわけではないが、声に隠し切れない怒気をはらんでしまっていたのかもしれない。
名を呼ばれただけで、日下の肩が跳ねた。
振り返り、口を開こうとした日下の動きを、晴永の声が止める。
「お前……小笹と同期なら、彼女が目立つのを嫌うって、知らないわけじゃないだろう?」
それだけだった。
怒鳴りもしない。
責め立てもない。
ただ、事実だけを淡々と突きつける。——その声音は、冷たくも熱くもないのに、妙に鋭い。
日下は、言い返そうとして口を開きかけ、だが……そのまま何も言えずに唇を閉じた。
指摘されて今気が付いた、というように日下の視線が泳ぐ。
うつむいたままよく見えない瑠璃香の顔。
周囲からの好奇の視線とひそひそ声。
自分が、どれだけ瑠璃香を追い詰めていたか、晴永に指摘されて初めて気が付いた。
そのことが、日下にはたまらなくショックだったらしい。
胸の奥が、遅れてじくりと痛んだみたいに表情がゆがむ。
晴永は泣きそうな顔で眉根を寄せる日下を一瞥すると、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、瑠璃香へと視線を落とす。
「……小笹」
社内では、徹底して名字で呼ぶ。
それだけで距離を置いているように見えるのに、声音は妙に瑠璃香への気遣いにあふれていて、周囲を思わず黙らせるだけの強さがあった。
瑠璃香は俯いたまま、ほんの少しだけ肩を揺らせる。
返事はない。
けれど晴永は、それで十分だと言うように瑠璃香のそばへ近付くと机上へと手を伸ばした。
テーブルの上、瑠璃香の前に置かれた弁当箱。
瑠璃香の小さな手指にぎゅっと握られたままの箸。
力を入れすぎて血の気を失ったように白くなった指先。
晴永はその箸を取り上げたりはしなかった。
ただ、瑠璃香の手首に一瞬だけ触れ——逃げ道を塞がない程度の力で、そっと引く。
「行くぞ」
短い言葉だった。
どこか有無を言わせぬ口調なのに、不思議と乱暴には聞こえない。
だがそれは、これ以上瑠璃香を好奇の目に晒させない、という宣言だった。
瑠璃香は一瞬、迷うように指を震わせたが、やがて観念したように立ち上がった。
椅子が床を擦る小さな音が、やけに大きく響く。
晴永は日下を見ない。
木島にも、周囲にも、何ひとつ説明しない。
ただ瑠璃香を伴って、そのままコミュニティルームを出ていった。
ふたりが姿を消すのを見守るように、やや遅れてゆっくりと扉が閉まる。
——カチャッ、と扉が渇いた音を立てたと同時、張り詰めていた空気が、遅れてざわりと揺れ戻った。
「……今の、見た?」
「連れてった……よね」
「否定、しなかった……」
「え、ていうか、いつも通り小笹さんのこと名字で呼んでたはずなのになんか……」
囁き声は止まらない。
むしろ、さっきよりはっきりと熱を帯びていく。
説明がない。
否定もない。
けれど、瑠璃香は新沼課長に連れていかれた。
それだけで——答えは出た、と言わんばかりに。
残された日下は、座ったまま動けなかった。
自分が何をしてしまったのか、ようやく理解した顔で、ただ唇を噛みしめる。
テーブルの上には、食べかけの弁当が残っていた。
卵焼きが、やけに眩しく見えた。