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それから夜明けまでの間、病院の医師、看護師は総出で避難に同行できそうな患者を選ぶため、容態の再検査を行った。
三つ葉厚生病院から避難して来た患者は幸い三十人全員が同行可能と診断された。百人を超える南宗田中央病院の入院患者のうち、緑にトリアージされた軽傷患者は既に近くの避難所に移っていて、そこから直接避難用のバスに乗ってもらう事にした。
津波肺による肺炎患者六十人のうち、比較的若い二十人は抗生物質の投与で回復しつつあり、避難可能と判断された。その中には夜中に児玉が最後の抗生物質を注射した高校生の女の子も含まれていた。だが彼女の傍らの祖母は、あの後三時間後に呼吸不全で死亡していた。
極度の低体温症患者のうち、意識を取り戻した患者は避難可能だったが、まだ意識が回復していない十人は病院に留めるしかなかった。点滴や酸素マスクを付けたままバスに乗って長時間移動させる事は不可能だった。
詩織は手術後の経過は危険な状態ではなかったが、寒さと栄養不足のためか、意識が安定せず、避難させるのは危険だった。美穂は未だに意識が回復せず、栄養剤、血圧を保つ昇圧剤などの投与が一時的にでも止まると命に関わる状態で、病院のベッドから離す事は不可能だった。
亮介が最初に肺炎の感染に気づいた五歳の女の子は、吐血は収まったものの酸素吸入を一時たりとも停止出来ない危険な状況が続いていて、避難は不可能だった。その子の母親はベッドの上に起き上れる程には回復していたが、娘を置いて自分だけ避難させる事は無理だった。
時間とともに増えた黒にトリアージされた患者の半分は既に死亡していた。彼らの遺体は一階待合室ロビーの隅の一角にまとめて安置されていた。カーテンで仕切りが設けてあるとは言え、息のある患者のすぐ側に、遺体が並んでいるという状況だった。遺体を避難バスで運ぶ事など、この場合は論外だった。
夜が明けきった頃、患者の選定は終了した。結局美穂を含めて五十三人の患者は病院に残し、それ以外の患者はバスに乗せて避難させる事になった。
だがより深刻な問題はその後に起こった。南宗田中央病院の医師、看護師の半分強が、自分たちも避難したいと院長に申し出たのだ。この頃には院長も含めて、病院のスタッフ全員が、医師、看護師もまた被災者であるという事実を認識していた。院長は避難を希望する医師、看護師のリストを書き、とりあえず市長に相談すると言って院長室にこもった。
二階のナースステーションで看護師長の宮田とたまたま顔を合わせた亮介は、一瞬ためらったが思い切って訊いてみた。
「宮田さんは、避難は、どうなさるんです?」
宮田はいつもの女傑という感じの微笑を浮かべて事もなげに答えた。
「あたしは残りますよ。この先の方が多分大変でしょうからね。看護師長がいなくなっちゃ、先生も困るでしょ?」
「ご家族は無事だったんですか?」
「うちの息子と嫁、それに孫は秋田に住んでるんですよ。日本海側の方は大丈夫だったみたいだからね。それに、うちの亭主も県立高校の体育館で見つけたから、あたしはそっちの心配はないですよ」
「それは良かったですね!」
宮田は微笑を浮かべたまま急に口をつぐみ、軽く一礼してその場から足早に去った。横で話を聞いていた女性看護師が亮介の肩をつかんで揺さぶった。
「牧村先生、違います!」
「え? 宮田さんのご主人、避難所で見つかったって、今……」
看護師は泣きそうな表情で小声で亮介に言った。
「そこは避難所じゃありません。その場所は……遺体安置所なんです」
亮介は青ざめた顔で、去って行く宮田の背中に向かって深々と頭を下げた。
一時間後、やっと衛星電話が市長につながり、院長が医師、看護師全員を院長室に呼んだ。市長の返事は? と聞かれた院長は苦虫を噛み潰したような表情で答えた。
「結論から言うと、こっちの判断に任せるという事だ。市長は怒り狂っていたがね。この非常時に、市立病院の職員が市民を見捨てるのか、と言われて、理屈としてはその通りだから、返す言葉もなかったが……最後には好きにしろと言ってくれた」
避難を希望する医師、看護師は裁判の判決を待つ被告人のような顔つきで院長の次の言葉を待っていた。亮介はこの時気づいていた。避難したいか、病院に残るか、その判断を分けたのは彼らの家族の安否だった。
家族の無事あるいは死亡が確認されていた医師、看護師は病院に残る決断をした。一方、家族の生死、行方が分からない者は避難を希望した。もともとこの土地の人間ではない亮介は迷わず病院に残る事を決めていた。美穂を置いたまま避難するという選択肢は最初から亮介にはなかった。
「避難を希望する先生方、看護師のみなさんは、すぐに自分の準備にかかって下さい。ただし、乗るのは午後六時の最後のバスにしていただきます」