テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
(嘘……)
その結果に、先ほどの自分はどこへやら、蒼ざめ言葉を失った。
デイビットさんと出会って三週間と幾日が過ぎた頃だ。時期もおかしくないのかもしれない。
駅で、その検査をして結果を見てからどうやって家に着いたのか覚えていない。
思い出すのは、あの夜ばかり。
あの腕枕で眠ったあと、先に消えていたのだ。言葉なんて何も貰っていない。
愛し合ったあの夜ならば、いっぱい言葉は貰ったけど、それは盛り上げるための優しい嘘だったのかもしれない。
本当に籠の中。餌だけ貰い生きてきた。
あれは、ほんの一瞬の夢。白昼夢にも似た幻想。もっと言えば泡沫の夢だと思っている。だけど。
心臓が、バクバク鳴っている。
全身が心臓になったような、太鼓の音が身体中に響くような、不安を響き渡せる、音。
外泊したあの日から母親とは会話らしい会話はしていなかった。
一向に反省の色を見せず、平行線のまま、家に帰っては用意されたご飯を食べる日々。
青ざめて震える肩を両腕で押さえるが震えは止まらなかった。
恐る恐る触れたお腹を押さえながら、途方に暮れていた。
少しだけ、少しだけ、外の世界が見たかった。
少しだけ、少しだけ、悪いことをしてみたかった。
あの夜だけは、一夜だけは、私は確かに恋をしていた。
古い言い回しをさせてもらえば、恋に酔っていたのかもしれない。
恋に恋して、周りなんて見ていなかった。それが原因だ。
素敵な夢の代償なのかもしれない。
結末、なのか。
幹太さんに下ろしてもらい、試してみたかったのは、逃げていた現実と向き合うこと。
駅のドラッグストアで買い、駅のトイレで試したのは、妊娠検査薬。
結果は陽性だった。
微熱が続いて、生理が一週間遅れていたのだが、直感でもしや、と思ったけども、まさかと気づいていないふりをした。
信じたくなかったのかもしれない。
そんなはずないと、自分で自分を言い聞かせていた。
その勘は当たっていたのだ。
だが、問題は『いつ』、だろうか、いつの間にだろうか。
デイビットさんは紳士だ。しっかり避妊してくれていた。
ゴムのパッケージを口で噛み、歯で破いていたのを思い出し、それがいつもの優雅な物腰ではなく『男』の人の仕草で、思わず見とれてしまっただから。
だから、こんな事を言われても、信じないだろうし、認めないか、嫌な顔をするかもしれない。
一夜だけの関係だったのだから。
私を助けるための、人助けの行為だもの。
会いに来ないのが、何よりその証拠だ。
だけど、デイビットさん以外となんて
関係を持っていないのだから、相手はデイビットさんしかいない。
産んだら、宝石のように輝く金髪碧眼が生まれてくるんだ、きっと言い訳なんて出来ない。
怒り狂う母に此処を放りだされれば、餌の取り方も、飛び方も知らない鳥は死ぬだけ。
まだ、籠の外に世界があると知ったばかりの、弱々しい姿で。
(私が、馬鹿だったんだ)
お腹を押さえて、しくしくと涙が止まらなかった。
後から後から、熱い涙が頬を伝っていく。
あの人の、子ども……。私のお腹の中に宿っている。
呆然と畳を見つめることしかできなかった。
――失礼します、と襖の向こうから控え目な声が聞こえて来る。
「美麗さん、お客様に挨拶をと、奥様が」
襖越しに、またお手伝いさんが声をかけてきたが首を振ることしかできない。
「体調が優れないの。すみません」
そう言うと、それ以上お手伝いさんは言及してこなかった。
美麗は立ち上がると、飾られた真新しいワンピースを見つめる。
控え目な色合いの服しかもっていないのは母親の趣味だ。ほぼ毎日着物だったせいか、服も言いなりでも文句の一つも出てこなかった。
今はただ、この陽性結果が出た証拠を、どこか家の外に捨てに行かなければいけない。そして、そのまま病院に――。きっと早く堕ろさなければ、もっと後悔する。
堕ろす――?
その恐ろしい言葉に、身体が硬直した。
「うぅ……。できな…い」
美麗は既に、お腹の子に愛着を持っていたのだから。
その時、今度はバタバタと廊下を走る音が縁側から響いてくる。
急いで涙を拭き、その音に耳を澄ませると私の部屋の方へ走ってきていた。
「お嬢様、春月屋の小百合さまからお電話です! 桔梗さんがご出産されたそうですよ!」
それは、桔梗さんと別れてからまだ半日も経っていない時間での、突然の出来事だった。
自分の事を決して後回しにしたり、現実逃避したわけではなかったが、着いた途端、自分の抱えていた悩むを吹き飛ばすほど感動してしまった。
「あはは、実は昨日ずっとお腹痛くてさ。その痛みが陣痛だったんだねぇ」
そう笑い飛ばしてくれたのは、桔梗さん。
次の日に幹太さん達がお見舞いに行くと聞いて、身体の負担にならないように少しだけ顔を見にお邪魔した。
差しいれも悩んだけれど、気の効いた事もできず赤ちゃん用のガーゼと桔梗さんには母乳が出やすくなる栄養が入っているという謳い文句が書いてあるゼリーにした。
桔梗さんは、死にかけただ、痛かっただ、お花畑が見えただの笑いながら話してくれたけど、穏やかで優しい目で赤ちゃんを見ていた。
「美麗ちゃん、手、握ってあげて」
疲れているはずなのに、そんな素振りも見せず桔梗さんの横で大人しく眠っている赤ちゃんの手に指を乗せた。
反射だと分かっていても、手を握ってくれる赤ちゃんは可愛い。
しわくちゃで、お猿さんみたいに真っ赤な赤ちゃんが堪らなく可愛かった。
10か月も自分のお腹の中で大切に育てるんだ。
「名前、いいのか?」
篠原愛紀
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!