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『人として好き』は凪にとって都合のいい言葉だった。
好きだと言ってしまえば恋愛対象と勘違いされてしまうし、嫌いだというのは倫理的に気が引ける。全く興味がなくても、本当のことを言えば冷たく映るし、善人や気遣いのできる人間は『人として好き』の分類に入った。
職場仲間や友人にはそういう類の人間は多かった。セラピストになってから、他のセラピストと関わることはほとんどなくて、ひたすら1人で働いていた。
誰かと関わらなくていいことはとても気が楽だった。ただでさえ初めて会う客には慎重になるのだ。
スタッフ間でのやり取りにまで気を使っていられないのが正直なところだった。
1人の時間は大切で、1人でいるのは好きだ。けれど、他人と話すのは嫌いじゃなくて、時々は人の声が恋しくなることもある。
今がまさにそうだった。この2週間誰とも口を利いていなかったから、風夏の声になんとなく安心する。
適度に他人とは関わった方がいいのだと実感した。そして、風夏が言うように人として好きの分類に入る人間であれば、今後積極的に関わっていくのも悪くないと思えたのだ。
「最近はあんまり人と会ってなかったから、そういうのもなかった気がする」
「まあ、凪は友達多いイメージないしね」
「おい……」
「狭く深くって感じ。でも凪からはあまり誘わない。私と付き合ってた時も、私ばっかりデートに誘ってた」
「でも断らなかっただろ」
「断らなかったけど、凪からも誘ってほしかったよ」
そう言われれば、そりゃそうだよな……なんて思ったりもする。今の凪にとって、女性を喜ばせることなど朝飯前だ。
どんな言葉を貰ったら嬉しいか、どうされたら喜ぶか、仕事を通して本能的に悟った。
しかし、当時の凪は恋愛に対しても不器用で、ある意味本当の凪だった。
「それは……ごめん。でも、いやだったら誘われても行かなかった」
「それはそうね。でも、もうちょっと相手に歩み寄ってあげることも大事だと思う」
「まあ……今後の参考にする」
凪が困ったように笑えば、風夏も同じように笑った。風夏は満足したのか、「じゃあ、そろそろ行くね」なんて話を切り上げた。
元カノと会ったら気まずいんじゃないかと考えたこともあったが、そうでもなかった。
むしろ、セラピストになる前の自分を思い出すきっかけになったような気がした。
凪はコンビニの袋を手に提げたまま家まで歩いた。袋からおにぎりと菓子パンを取り出した。
この数日ちゃんと食べていなかったから、一気に食べ物を放り込んだら胃もたれしそうでガッツリとした弁当は避けた。
酒も暫く飲んでないなぁ、なんて考えながらミネラルウォーターのペットボトルを手に取る。
喉に流し込めばまだ冷たくて、体が潤うのを感じた。
おにぎり1つ食べたところで久しぶりに白米の味を感じて食欲を抱いた。まともな飯が食いたいかも……そう思った時にふと千紘が作った食事を思い出した。
朝からテーブルの上には朝食らしい朝食が揃っていた。普段忙しくて料理はしないと言っていたくせに、凪のためになら毎日してもいいよなんて言った。
そんな彼はきっと、自分のために料理などしないだろうと思った。だからこうして自分と同じような生活を送っているはず。
カットの練習に精を出している千紘は、片手間に食べられる簡単なものを好むはず。
自分は食べられればなんでもいい。そう思っていたはずなのに、千紘に置き換えてみたらとても不健康に思えた。
そこまで考えて、ようやく凪は千紘がどうしているか少しだけ気になった。
凪はずっと電源を切っていたスマートフォンの電源を入れた。放電されていたのか、充電は3%しか残っていなかった。
特に焦るわけでもなく充電を繋ぐ。不在着信を伝えるショートメールや迷惑メール、公式アカウントからのラインや客からのDMが溜まっていた。
店からも何度も電話がかかってきていたようだ。未読のラインが数件きていて、気付いたら連絡くらいしろと書かれている。
多分怒ってるんだろうな、とは思うもののすぐに連絡する気にはなれなかった。
ラインの履歴を全て追ったが、千紘からの連絡はなかった。着信もなかったようであんなにも泣きながらもう会えないなんて嫌だと言っていたわりに、連絡するのは止めたんだと思うと、意外だった。
それと同時にスマートフォンの画面とにらめっこしている千紘の姿を想像する。凪から連絡すると言ったから、忠実にそれを待っているんじゃないか。そんなふうに待て状態の犬の様な千紘が頭に浮かんで凪は少しだけ笑った。
アイツ、犬っぽいから……。
凪はぼんやりそう心の中で呟くと、連なった着信履歴の中から千紘の名前を探した。
千紘がしたことは今も許せない。客として素性を偽って近付いたことも、体の自由を奪って無理やり抱いたことも、写真を使って脅したことも。
ただ、本気で自分のことを好きなんだということだけはちゃんと伝わってくる。ちゃんと謝罪できることも、感謝できることも、思い遣りがあることも知っている。
凪はそう考えながら、風夏の言葉を思い出す。
「ちゃんと中身を見てくれる」
その言葉だ。凪が初めて内面を見て彼女に選んだ女性。何度となく容姿で選んで性格の不一致で別れたことも多かった。それでも可愛ければ最初は許せると思っていた凪。長くは続かなくてもどうせ本気で好きになれるわけじゃないから、それなら好みの容姿の方がいい。
そう思っていた。
風夏との交際は新鮮だった。考え方や性格が似ていたから喧嘩をすることもなかったし、いつだって穏やかでいられた。
不器用な凪をありのまま受け入れてくれた。モテる凪が他の女性と会話をしていても、癇癪を起こすこともなかった。
一緒にいて楽で、楽しかった。色んな女性を見てきたからこそ、風夏のような女性は特殊なのだと感じた。
今になって思えば、もっと大事にしてやればよかったと思うが、セラピストをしなければ風夏の魅力に改めて気付くことはなかった。
凪は千紘の名前をじっと見つめる。千紘の存在は風夏と似た感覚を思わせた。千紘に対しては最初から素で接した。
客と思っていた時はちゃんと接客したが、男だとわかってからは取り繕うことはなかった。そんな凪を知っても千紘は凪を好きだと言ったのだ。
完璧じゃない凪を受け入れることを幸せだと言う千紘。きっと今の凪を見ても幻滅するどころか本気で心配するんだろうと思えた。
「人として好き」かどうかはわからないが、少なくとも嫌いではない。
千紘が反省して凪に尽くそうと努力しているのだから、それくらいは認めてやってもいいような気がした。
発信ボタンを押す。呼出音が鳴り響いた。日曜日の夕方だ。千紘は仕事中で電話に出るはずがない。そう思いながらかけた凪は、スピーカーに設定し、暫く呼出音を聞いていた。