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小高い丘の頂を目指して狩り装束の少女が下草の少ない荒れた丘肌を登る。濃い靄の奥深く、少女は膝を軋ませ、荒い息を吐く。時季に反して空気は涼やかだが、薄い陽光に輝く額には玉の如く汗が零れる。
そんな少女の火照った顔を慰撫するように幼子の秘密の囁きに似た風が吹きつけた。
「少しくらい良いんじゃない?」少女の耳のそばで、風が誘いかける。「汗で溺れちゃうよ、ユカリ。こんな丘ひとっ飛びで上れるじゃない」
ユカリは何度目かの同じ問いに答えるようにため息をつく。
「良いからグリュエーは静かにしてて。というか鎮まってて」
ユカリは砂っぽい地面をしっかりと踏み締めて上を目指す。上る前に想像していたものよりも急だった斜面を、前の見えない靄を掻き分けて、足を滑らさないように、そして踏み外さないように慎重に登っていく。
とうとう頂まで登って来た。しかし期待していたものは何も見えず、ユカリは吸い込んでしまった靄を吐き出すようにため息をつく。あいかわらずの靄。頂に至れば、自身の足元もおぼつかないこの靄から抜け出せるのではないか、とユカリは想像していたのだが。
「何にも見えない」とユカリは呟く。
「だから言ったんだよ」とグリュエーは得意げに言った。「霧というか雲だし、ここら辺の風は休んでるからしばらくこのままだよ。吹き飛ばす?」
「吹き飛ばさない。あっちからも見えちゃうかもしれないでしょ」
ユカリは諦めきれず、目を凝らし、千里眼の力を持たない紫の瞳を四方に光らせるが、遠くに見えるものは頭上に座する雲に覆われた霞む太陽と、他の峰であろういくつかのぼんやりした大きな影。
ふと視界の端で何かが動いたことに気づき、そちらに目を向けると何か大きな影がどこかへ立ち去るように消えた。
ユカリは飛び上がるのを堪えてグリュエーに尋ねる。「今の見た?」
風であるグリュエーにとって見るということがどういうことなのか、ユカリにはいまだに分からないが今は気にしていられない。
「どの雲?」
「雲じゃなくて峰だよ。峰の影が動いて消えた」
「たまたま雲が濃くなったんでしょ? その後薄まった」
「違うよ! 影の方が動いたの!」
「影の方が動いた、かのように見えたんだね」とグリュエーは揶揄う。
グリュエーの言うように雲の濃度の加減で峰が動いたように見えたのだろうか、と思ったその時、視界の上方で何かが閃いたことに気づく。
「今、何かが光らなかった?」
「今も光ってるよ。あれは太陽っていうんだよ」
太陽なはずがない。少し緑がかっていたように感じた。ユカリは雲の向こうに姿を隠す何かを追い求めて視界を巡らせるが、その後何も見出すことはできなかった。
しばらくしてユカリは観念した様子で頭を下げ、慎重に白靄に煙る足元を探る。あまり皆を待たせては心配させてしまう。
すぐ近くに登ることのできない急斜面があるはずだった。しかし降りることはできる。正確には飛び降りることが、だ。
それらしいところまでやってくると、ユカリは頭の片隅で小さな火花の閃くように念じる。すると、その細くてたくましい手の中に派手な装飾の杖が現れる。先端に鎮座する紫水晶は誇示するように光り輝く。
「その杖は良いの? それだって目立つよ」とグリュエーが不公平を訴える。
「靄の向こうに届くほどではないよ」そう言ってユカリは前方に杖を投げ捨てる。
杖は地面に落ち、しかしそのまま転がり落ちていく。ほとんど自由落下に近い。紫水晶の光は靄の中で徐々に薄まるが消え失せる前に止まった。
「光って見えてるけど?」
グリュエーの言葉に耳を貸さず、ユカリは「よし」と呟いて数歩下がる。
「グリュエーが受け止めるね」
「ここら辺の雲を吹き飛ばさないようにできる?」
「ユカリが怪我しても良いの!?」
「良いわけないでしょ! グリュエーは黙って見てて」
小さく鋭く息を吐き、旅の少女は無謀にも駆けだすと雲と霧の向こうへ跳躍した。紫の光を目掛けて、重力の誘うままに落ちていく。そして靄を掻き分け、半分も落ちた頃、寸前まで地面に転がっていた紫水晶の杖がユカリの足元に瞬時に転移し、主を受け止めるとその重みを相殺するように風を吹き出し、段差を一つ降りるよりも軽やかに地面に着地した。
靄は局所的に渦巻いたが全体を揺るがすほどではない。
「グリュエーならこうはいかないでしょ?」とユカリがしたりげに言うと、風のグリュエーは鼻を鳴らすように吹いた。「さて、みんなはあっちかな?」
ユカリは勘で北の方を向いて靄の向こうへと確かな足取りで歩き去る。
シグニカ統一国の西方、南北に延びて東西を分かつ、祝福厚き古き御名は忘れられ、今では恐れを持って呼ばれる防壁高地に、吹き寄せた風の涼やかさがわずかに鳴りを潜める。救済機構の聖地にして総本山を擁するシグニカ統一国を脱し、西隣に存在する土地クヴラフワ諸侯国の領域を目指すユカリたちにかすかな夏の気配が寄り添っていた。
太陽は真南にあって昼を二つに分かち、真夏にも劣らぬ強い日差しで輝いている。ただしそれは雲の上でのことだ。隠れる理由なき旅人に与えられていたのは雲を通した乳白色のぼやけた明かりだけであり、日の光の下に生きる者たちが活力を得るには不十分だった。
四人と一頭、そして一陣の風は平らな高地に敷設された長大な舗装路を行く。東から西へ、雲の向こうから雲の向こうへと伸びる道だ。かつてに比べれば今では知る者の少ない、山間の雲の向こうに隠れ去った秘道だが、黄金時代の記憶は今もそこここに残っている。何千、何万と並ぶ甃は時を重ねて行き交った数多の人々、資材、使命の重みに耐えかね、轍を深く刻み、罅を縦横に走らせていた。最早撫でる者もいない古傷だが、その隙間に息づく苔が佇まいに古めかしい威厳を供えさせている。
「それにしても随分立派な道だね」と一行の先頭で雲掻き分けるユカリが思ったことをそのまま口に出した。「ミーチオンにもアルダニにもサンヴィアにもシグニカにも、これほどのものはなかった気がする」
そうは言ったが、これまでに見た立派な道を頭の中で比較したわけでもない他愛のない感想だ。
少し後ろを歩く赤髪の少女が、石畳に彫りこまれた既に力の大半を失った呪文を眺めながら補足する。「兵士たちが歩いた道だよ。シグニカだから僧兵か。沢山の馬と馬車、武器や食料、いわゆる兵站を運んだんだね。というかその為に敷かれた道だと思う」
概ね平らな高地とはいえ丘のような膨らみはいくつかあり、古戦場へと伸びる道は後に残してきた平和を惜しむように曲がりくねっている。たとえ雲が晴れていたところで見通しは悪かっただろう。
先の見えない道の先、雲の奥を見据えてユカリは躊躇いを見せつつ呟く。「本当に今では使われていないのかな」
「見た感じは」と呟いてからベルニージュは辺りを見渡す。
高地の野に咲く金鳳花や百合は控えめに黄や白で道を飾り立てており、中には甃の隙間から顔を見せている楚々として豪胆な者もいるが、もはや踏まれない道であることを示している。
「ここから南の、もっと下の方に隧道が穿たれているんだよ」ベルニージュは再びかつて石畳を護っていた呪文の一端に目を走らせながら話す。「今では、どうしても西に行きたい人はそこを使ってるらしいよ。地元民なんて者がいるとすれば巡り合う可能性もないではないけど。例え再び戦争が起きても、ここを使う理由はないだろうね」
「クヴラフワ衝突」とユカリは口触りを確かめるように呟く。「話には聞いてるけど知ってるとは言えないな。それほど大昔のことではないよね?」
ユカリが知っているのは戦があったということだけだった。どのような英雄が活躍し、どのような武勇が伝えられているのかは何も知らない。
ユカリの隣にやって来たくすんだ金髪のたくましい男が黒ずくめの鉄仮面の女へと変身する。最も近くにいる者の最も嫌いな生物に変身する呪いに見舞われた、ライゼン大王国の王女レモニカだ。王女殿下は下女のように長毛に覆われた巨大な馬ユビスを端綱で引いている。
ユビスは満足げに足取り軽やかに歩を進めていた。背中には一行の荷物が載せられている。毛長馬には四人の女たちを乗せて走る力がある。加えて少し多めの旅の荷物を乗せても怯むことはない。しかし力強い躍動で山道を駆けるユビスの背負う沢山の荷物の心配をしながら受け止められる者はいなかった。故に今は荷馬の役割を任せている。気高い長毛馬は初めの方こそ嫌がっていたが、今は満更でもないようだ。
「大昔のことではないと言っても、おおよそ四十年前のこと、この場にいる誰も生まれていない昔の出来事ですわ」とレモニカはユカリの横顔を覗き込んで説明する。「グリュエーはどうか知りませんが」と付け加える。
構いたがりの子供のようにユカリの周りをグリュエーが逆巻く。
「風は月の巡りを数えたりしないからね」とユカリの耳にだけ聞こえる。
「とは言え」と言ってレモニカは後ろを振り返る。
一行の殿を勤めているのはソラマリアだ。ほとんどの同世代の乙女と比べて背の高いユカリよりもさらに背が高い。初めて会った時にはきつくまとめていた髪は下ろされて、銀河の如き煌めきを優雅にたなびかせているが、張り詰めた表情で、如何にも臨戦態勢という眼差しを方々に向け、警戒を怠らないでいた。
このような境界の土地は即ち双方の法から最も遠い場所であり、賊の類を警戒して当然だ。しかしユカリたち一行にとっては、浮世に迷える哀れな衆生の逃げ処である救済機構との遭遇の方がよほど警戒しなくてはならない。故に立ち込めた靄だか雲だか霧だかの中を隠れ進むこと自体は歓迎すべきことだ。
「わたくしの歴史の先生はクヴラフワ衝突について、あまり詳しくは教えていただけませんでしたが」とレモニカがあてこすると、自分が言われているのだと気づいたソラマリアが特別に青い瞳を前方に向け、白くくすんだ先行者たちを見据える。
「その授業の頃、私の生徒はずっとうわの空でしたね」とレモニカに仕える戦士は躊躇わずやり返した。
「な!? 嘘ですわ!」レモニカは少し頬を赤らめてユカリに弁解する。「ユカリさま、冗談を言っているのですソラマリアは。わたくしの教わったことと言えばライゼン大王国もシグニカ統一国も双方敗北と言える損耗の末に逃げ帰り、哀れ戦場となったクヴラフワ諸侯国は――」
「雲が晴れるよ!」とユカリがレモニカの弁明を遮って、少し歩調を速め、雲を抜け出す。
眼前が太陽のもとにさらされ、女王を前にした家臣のように高地の丘も左右へ引き下がる。
その視線と指さす道の先は開かれ、そこに現れるのは青い空と地平線、のはずだった。四十年より前ならば。
シグニカ北西に広がるガミルトン行政区を深い海底に沈めた大海嘯は、しかし東西南の三方にそびえる高地を乗り越えることはできなかった。それだけの高さがあれば、それだけの高さにいれば、ユカリたちの目にすべき地平線は下方に存在するはずだ。しかし今、ユカリたちの眼前で、地平線は上方から一行を見下ろしていた。
世界の果てで宇宙の外の神秘を覆い隠すように何者をも拒む巨大で重厚な壁が高地の向こうに聳えている。南北へと伸びる高き壁のどちらの端も目にすることはできない。積み上げられた石材の一つ一つさえも家屋の如き大きさのはずだが、ユカリたちの眼には目地が判別できず、滑らかな一枚岩で出来ているかのようだった。
ユカリはそこでようやく高地と壁の距離に気づいた。突然眼前に壁が現れ、まるで高地に寄り添っているかのような近さであると感じていたが、下を見やるとそれが錯覚だと分かる。高地を下って低地に至って、そこから壁にたどり着くのはさらに四半日以上かかりそうだ。
ユカリは再び、旅の仲間たちと共にその偉大な壁を見上げ、この先の旅の困難に想いを馳せる。
「これが……」と言ってユカリは唾を呑み込んだ。
ようやく石畳より興味を惹かれる物に巡り合って顔をあげたベルニージュがユカリの言葉を継ぐ。
「救済機構の建築した大規模魔術。封呪の長城。あの向こうに亡国クヴラフワがあり、クヴラフワ衝突を終わらせたとされる魔導書がある」