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「いつまでそうして逃げ回ってるつもりよ」と、姉さんが呆れ顔で言った。
「人を意気地なしみたいに言うなよ」と、俺はコーヒーを手渡しながら言った。
姉さんはカップを受け取り、一口すする。
「だったら、ちゃんとお父さんとお母さんに釈明してきなさい」
「最初から信じる気なんかないだろ。時間の無駄だ」
姉さんは大きく息を吸い、一気に吐いた。
「DNA検査すればいいじゃない」
「……入院中の妊婦にそれは酷だろ」
「そういう中途半端な情けをかけるから、事態が悪化するんじゃない。いい加減、あっちにもこっちにもいい顔するの、やめなさい」
返す言葉がない。
副社長に停職を言い渡された時、春日野との会話の録音が頭をよぎった。あれを公表すれば、停職は免れた。けれど、出来なかった。
保身の為だけに、身重の春日野一人を矢面に立たせたくはなかった。
それが甘いんだろうけど……。
俺は春日野ではなく、黛を糾弾する証拠が欲しかった。
写真がばら撒かれた日から、両親からの着信を拒否している。
どうせ、俺が春日野の腹の子の父親じゃないと言っても、信じないだろう。
もしかしたら、父親でなくても結婚しろと言われるかもしれない。
そうすれば、父さんは春日野の父親に恩を売れる。
春日野の両親にしても、一人娘が未婚の母になるくらいなら、金で俺を買いたいところだろう。
俺の言葉を信じて欲しいなんて思わない。
ただ、放っておいてほしい――。
俺と馨の生活を、乱されたくないだけだ。
それなのに、母さんは俺にメールを送ってきた。春日野が切迫流産で入院したこと。会社には俺の子供ではないと言ったこと。恐らく退職するであろうこと。
馨の耳には入れていない。
馨はきっと、気に病むから。
ただでさえ、俺が停職になってから、馨が何か考え込んでいる。恐らく、俺の停職を解く方法を。
馨が心配でたまらなかった。
何か、無謀なことを仕出かしそうで。
いっそのこと、この部屋に閉じ込めてしまいたい――。
「馨ちゃんは知ってるの?」
「何を」
「あんたが親を着拒してることや、あの女が入院してること」
「……言ってない」
「……だろうと思った」
姉さんが特大のため息をつく。
「過保護すぎ! 心配させたくないのはわかるけど、馨ちゃんにだって知る権利があるでしょう!? 自分一人が蚊帳の外だなんて知った方が、よっぽど傷つくじゃない」
「そうなる前に……対処する」
「それにしたって――」
「言うなよ」
俺は姉さんの言葉を遮って、言った。正面から顔を見据えて。
「馨には、言うな」
姉さんが目を伏せ、呟いた。
「わかったわよ……」
テーブルの上のスマホがメッセージを受信した。馨からだった。
「今から帰るってさ」
「そ。じゃ、帰るわ」と言って、姉さんがコーヒーを飲み干す。
「会って行かないのか?」
「うっかり余計なことを喋っちゃいそうだから。馨ちゃんによろしく言っておいて」
「悪いな」
姉さんが俺や馨のことを心配してくれているのは、よくわかっている。俺と両親との関係がこれ以上悪化しないように、取り成してくれていることも。
「ちゃんと終わらせるから」
「あんまり一人で無茶するんじゃないわよ」
「……姉さんに頼みがある」
俺は俺と馨の未来を、姉さんに託した。
*****
停職になって二週間。
俺は副社長に呼び出されて、久々にスーツに袖を通した。
「いよいよ解雇通告か?」
「そんなわけないじゃない」
馨はやけに上機嫌で、それは俺の停職が取り消されるという期待からなのはわかっていた。
春日野の腹の子の父親が俺ではないと証明出来たわけでもないのに、停職が解けるか?
訳知り顔な馨に聞いても良かったが、とにかく行ってみればわかると思った。
副社長室には、副社長と専務、それに林営業部長がいた。
「休暇は満喫できたか?」
副社長が眉間に皺を寄せて聞いた。
間違っても『はい』なんて答えられる雰囲気じゃない。
「ご迷惑おかけしています」と、答えた。
すぐに本題に入るのかと思いきや、コーヒーを一杯飲むほどの時間が与えられた。
どうやら、まだ誰か来るらしい。
社長か……?
それならば、常務がいなくて営業部長がいる理由がわからない。
まさか、馨じゃないよな。
ようやくドアがノックされて、入って来たのは黛だった。
俺を見て、驚きを隠せない黛の表情が硬くなる。それは、営業部長も同じだった。
「では、始めようか」
専務が立ち上がり、副社長のデスクからタブレットを持って、戻った。それを操作し、テーブルに置く。
動画が再生され、俺は目を疑った。
馨――――!
場所は会議室。
背中と横顔で、そこに映っているのが馨だとわかる。
彼女の奥には、黛がいた。
『春日野さんに何をしたの』
『別に? 槇田に相手にされなくて寂しがってたから、慰めてやっただけだ』
悪びれるどころか、得意気に話す黛。
『あんたの子供じゃないの?』
『さあな。他にもつまんでたらしいから、誰だかわかんねぇんじゃねぇ? それに、俺の子だとしても、どうでもいい。……けど、お前の優しい婚約者殿は放っておけないよな。自分が捨てたせいで、その女の人生が狂ったんだ。自責の念? ってやつに苛まれるだろうな』
場所が違えば、間違いなく奴を殴っていた。
当の黛は、信じられないという顔で、タブレットを見ようともしない。
『だから、写真をバラまいたあんたに感謝しろって?』
『……何のことだか?』
動画を見ながら、俺は考えていた。
馨はいつ、こんなことを――。
休日出勤だと出かけて行った土曜日のことだと、すぐに分かった。
どうしてこんな、危険なことを!!
『写真をバラまいたくらいでたいしたお咎めはないさ』
黛の自白が、副社長室に響く。
そこで、専務が動画を停止した。
黛以上に顔面蒼白で冷や汗をかいているのは、営業部長。
「どういうことだ! 黛!!」
営業部長は温厚な人物だ。昔はともかく、部長になってからはこんな風に声を荒げるところを見たことがなかった。
営業部長とは違い、副社長と専務は冷静だった。
「理由など、問題ではない。社内を騒がせた事実が重要だ」
黛は歯を食いしばり、俺を睨みつけていた。
俺が、馨に指示したと思っているのか……。
「黛。お前の言う通り、社内メールで悪戯をした程度ではたいした処分は下せない。降格がお前の言う『たいした処分』かは知らんがな」
副社長は、容赦のない人だ。そして、卑劣な行為が大嫌い。
対立しているわけではないが、社内には社長派と副社長派があり、専務と俺が副社長派ならば、営業部長は社長派。
社長が降格人事を知らないはずがないから、この場にいないということは、営業部長は社長から見放されたということだ。
部長補佐から降格した黛が、営業部に居続けられるはずもなく、恐らく数日中に日の当たらない部署に異動になるだろう。
入社以来、花形の営業部しか知らない黛が、そんな屈辱に耐えられるとは思えない。
終わり……だな。
俺の停職は解け、明日から業務に戻るようにと言い渡された。
二週間ぶりの俺のオフィスは資料庫のようになっていた。
「しばらく雄大さんのご飯が食べられなくて残念」
ドアの隙間から、馨が顔を覗かせていた。中に入り、後ろ手にドアを閉める。
「この資料が片付くまでは、Hもお預けですね」
「少しも残念そうに見えないけど?」
馨は満面の笑み。
「お帰りなさい、部長」
「専業主夫、楽しかったんだけどな」と、俺は頭を掻きながら言った。
「残念だよ」
「本当に残念そうですね」
「本当に残念だからな」
「じゃあ、一ついいことを教えてあげます」と言うと、馨は俺のジャケットの襟に手を伸ばした。
「雄大さんのスーツ姿、素敵です」
今更だが、俺は不意打ちに弱い。
馨の言葉が嬉しい反面、恥ずかしくなって思わず顔をそむけてしまった。
「帰ったら、私がネクタイを外してあげます」
背伸びをして耳元で囁かれ、思わず思いだしてしまった。
馨にネクタイで縛られた夜のこと。
情けないほど、溺れてるな……。
俺は彼女の腰を抱き寄せて、キスをした。
「今夜はこのネクタイで、俺がお前を縛ってやる」
「え?」
「俺に黙って黛と会ったお仕置だ」
今夜はとことん啼かせてやろうと、決めた。