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明朝、早々に宿を辞した葛葉は、いまだ寝静まる街中を抜けて、はや郊外の土地に到った。
大都会の朝というからには、もう少し気忙しいものを予想したが、巨躯を動かすにはそれなりの英気が必要なのか、殊(こと)のほか静かな出立となった。
人気(ひとけ)のない交差点には形ばかりの信号が灯り、頑なにシャッターを閉ざしたそれぞれの店先には、大小のゴミが点々と放置されている。
古ぼけたビルの向こう、雲間にうっすらと滲み始めた陽光は、一見して盛夏のように無遠慮で。 そうでなければ真冬のように曖昧で。
そういえば、現在の世に季節の移ろいなんて贅沢なものは無かったのだと思い出し、かすかな自嘲が湧いた。
「どしたのクズ? ぼんやりしてるよ? 眠たい?」
「や……。 その、ホントについてくる気?」
「あ、それ5回目! もう5回も言ったよ?」
ハキハキと応じるブロンド娘は、葛葉の気掛かりをそれとも思わず、本日もいたって快活だ。
旅支度は万全と見え、颯爽(さっそう)とした足取りに迷いはない。
「でもなぁ……」
「つぎ言ったら罰金だよ?」
「マジか……」
一緒にいて楽しいという点は論を俟(ま)たないし、シャンデリアの件ではまことに迷惑をかけた。
ならばそうそう邪険にもできないが、しかしこの後の道行きはある種の魔道だ。
如何(いか)に腕が立つものとは言え、こんなワケの分からん盤面に彼女を巻き込むのは、単に心苦しいという思いだけで済ませて良いはずがない。
「けど良かったよ~」
「うん?」
「や、あのシャンデリアそんなに高くなくってさ? クズ、すっごい気にしてるみたいだったから」
「マジか……」
止(や)むに止まれず視線を泳がせると、二名の足取りにヒタヒタと付き従う老人の健脚が。
こちらは見送りのつもりか。 さすがに同道するとは言い出さんよなと、一入(ひとしお)の疑念に駆られ、目元をじっとりと据える。
来る者を拒むのは容易だが、それなりに納得させるのは困難だ。
生憎(あいにく)と、そこまで許容量のある懐(ふところ)は持ち合わせていない。
「お爺さん、そういやもう長いの?」
「む?」
「あの虎石(とらい)っさんとは」
間(ま)を持たせようと頭をひねり、どうにか誂(あつら)え向きな質問を用立てる。
黙っていても心が逸(はや)る一方で、うっかりすると風の吹く方角を間違えそうになる。
それにリースにばかり喋らせるのも気の毒だ。
「えぇ。 こちらに出てきたばかりの頃、さんざっぱら世話になり申した」
「ん? それは、逆じゃなくて?」
「左様。 あの頃はワシも」
どれほど歩いたか、ここまで来ると付近に家屋は見当たらず、どこを向いても長閑(のどか)な景観が広がるばかりとなった。
ついにここまで来ちゃったかと、葛葉は俄かに頭を抱えた。
──だってしょうがないじゃんか。
道々に何かしら店舗でもあれば、そこに両人を押し込んでおく事もかなったのだろうが、早朝とあって街中は言うに及ばず。
比較的あさが早い郊外の土地ですら、どこも未だに看板の真っ最中だった。
そして現場(げんじょう)にいたっては、見える範囲に建物の影すら存在しない。
右を見れば草原があり、左を見れば手付かずの荒野(あれの)が広がっている。
行く手には、果たしてどこに通じるものか、取って付けたような田舎道が、地平線に向かって真っ直ぐに続いているという具合だった。
それにしても、本当にこれが花の都を行き来する往還なのかと、言うに足りない所感が湧いた。
「あの、もうこの辺で」
「いえ。 いま少し」
「そーお……?」
リースについてはなかば諦めたが、件の組織と関わりが示唆される老人に関してはその限りでない。
敵意がないのは明らかだが、時おり見せる秋霜を含んだ目付きは、何やら見張られているようで居心地が悪い。
「あの虎石っさんて、どういう人?」
「と言うと?」
「や、あれかな? ちゃんと謝ったら赦してくれるタイプの人間なのかなと思って」
答えを聞くのがどうにも億劫だが仕様がない。
こらちとしても、無用な争いは避けて通れるものならそのように計らいたいと、心の底から思う。
諍(いさか)いの納め方は二種類だ。
実直に話し合いで解決するか、切った張ったの狂乱を経て、相応に納得するか。
少なからず、自分の性質は後者に依存する傾向がある。
来る者をぶちのめすのは容易だが、納得させるのは困難だ。
“戦わずに勝つ”
独行の道に窮極を求めた彼(か)のお師匠が、またぞろ耳元で呻(うめ)き声を立てた気がした。
「話の通じぬ人間ではない。 ただ、平生(へいぜい)から聞く耳を持っておるかと言うと」
老人の口前は依然として多くを語らず、ほんの取っ掛かりを提示するのみに止(とど)まっていた。
単に口下手なだけなら良いが、有益な情報を寄越(よこ)さず、こちらの目と耳を塞ごうとしているなら──。
「どうされた?」
「あ、いや……。 忘れ物なかったかなと思って」
「だいじょぶだよ! クズの財布はちゃんと私が持ってるからね?」
「え……? なんで?」
無闇に懸念をいだくのは良くない。
しかし、それがまだ懸念である内にどうにかしておきたいと考えるのは極々自然だろう。
──ちょっくら心ん中でも覗いてやろうか。
無礼は承知だが、それで目下の杞憂をひとつ潰しておけるなら
「待たれよ」
途端に老人がピシャリと付したもので、思わず声が出そうになった。
ところが、どうやら当面の無作法な目論(もくろ)みとは関わりないらしい。
その眼はこちらの肩先を越えて、野道の直中(ただなか)を指している。
これに倣(なら)ったところ、すぐさま合点が行った。
待ち伏せのつもりか。 いずれにせよ、陸(ろく)な用件でない事だけは知れている。
手入れを欠いた大樹の下に、長身をゆったりと寛(くつろ)げるようにして、あの男が立っていた。