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遥の目尻に、にじんだ涙はまだ落ちない。その一粒が地上に届くまでに、何度も迷い、何度も引き返しているようにさえ見えた。
日下部は、それを見た瞬間、言葉を忘れた。
胸の奥で、何かがゆっくり軋む音がした。
(……泣いた、こいつが)
遥が泣くなんて、そんな姿を見るのは──
たぶん、小学校の頃、家の裏で玲央菜に突き飛ばされて、擦りむいた膝を見つめていたとき以来だった。
けれどそのときとは、まるで違う。
今、遥の中からこぼれかけているのは、傷じゃない。
──崩壊寸前の、心の核だった。
日下部は、机の端から手を下ろした。
そして、一歩、近づいた。
遥はその足音に反応した。
わずかに肩が上がり、目尻の涙が、引力に負けて静かに頬を伝った。
拭おうとしない。
見せたくないはずなのに、手は動かさなかった。
その無防備さが、日下部には恐ろしくて仕方なかった。
(……触れたら、壊れる)
でも、
(触れなきゃ、もう──間に合わない)
呼吸をひとつ深くして、日下部は椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
真正面ではなく、少し斜め、遥の視界に“入りきらない位置”に。
「……泣くの、下手だな」
その一言は、責めでも、同情でもなかった。
まるで、過去を知る者だけに許される、冗談のようなものだった。
遥は、ぴくりと眉を動かした。
何かを言いかけて──やめた。
代わりに、かすかな嗤いの気配だけが喉の奥から洩れた。
「……おまえにだけは、言われたくねぇよ」
その声は、涙と一緒に軋んでいた。
「……俺のこと、見んのやめろよ」
「無理」
即答だった。
日下部の声には、迷いも躊躇もなかった。
遥は、顔を伏せたまま、拳をぎゅっと握った。
「……見てどうすんだよ」
「わかんない。でも──もう見ないふりは、できない」
日下部は、無理に視線を合わせようとはしなかった。
けれど、全身で“ここにいる”という意志を示し続けていた。
「壊れんなよ……」
遥の声は、ほとんど独り言だった。
「……おまえまで壊れたら、俺……ほんとに、終わる」
それが、遥の本音だった。
自分を壊す人間には慣れている。
自分を利用する人間にも、期待していない。
けれど──
「優しいまま近づいてくる誰か」が壊れることだけは、耐えられない。
「だったら、壊させんなよ」
日下部の声が、ひどく優しかった。
それは命令じゃない。
祈りのような、手渡すような声だった。
遥は、黙った。
ただ、震える指先だけが、机の下で何度も開いては閉じられていた。
その夜、遥は家に帰れなかった。
その理由は誰にも言わなかったが、
日下部は、教室を出るとき、何も聞かずに言った。
「……鍵、開けとく」
それだけ。
遥は、返事をしなかった。
けれど、夜の街をさまよった末に向かったのは──やはり、日下部の家だった。
そこで待っていたのは、何もしない沈黙と、
ただ一つの、「壊さないまなざし」だけだった。
遥は、自分が“まだ生きている”ことを、
その夜だけは、認めざるを得なかった。
──そして、次の日。
その沈黙を嗅ぎつけるように、蓮司は笑って近づいてくる。
「ふーん……なんか、可愛い顔してたじゃん、日下部の前で」
その一言が、遥の心にまた新たな傷を刻みはじめる。