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「動け、っつってんだろ」
晃司の足が、遥の腹を蹴り上げた。
ごと、と鈍い音が床に響く。壁に飾っていた古いカレンダーが揺れた。
声は出なかった。
肺に入った空気が抜けない。
唇を開いても、咳のような音しか漏れなかった。
「またサボったな。学校、寝てたらしいじゃん? 教師から連絡あったんだけど?」
そんなはずない。
でも、「ない」は通じない。
言葉が、意味を持たない家だった。
晃司の手が髪を掴んだ。ぐいと引かれる。
視界が歪む。耳の奥がガンガン鳴る。
「どうした。喋んねえのかよ。オレがさっき、何て言ったか覚えてる?」
──覚えてない。
覚えているはずなのに、言葉がひとつずつ溶けていく。
聞こえたはずなのに、意味を持たない音に変わっている。
遥は首をふろうとしたが、動けなかった。
背中の皮膚が焼けるように痛い。
指が震える。足はもう感覚がなかった。
晃司が吐息混じりに笑った。
「父さん、もう少ししたら帰ってくるから。今のうちに“練習”しとけよ?」
“練習”。
その言葉が喉をざらつかせた。
何の練習か、遥は知っていた。
だが、それを考えると吐きそうになった。
「泣くなよ、マジで。泣いたら、また“哀れな奴”になっちまうだろ?」
“哀れな奴”──
その言葉が、遥の中の何かを砕いた。
自分が、どんな顔をしているのかわからない。
涙は流れていないのに、目が熱い。
喉が痛いのに、声は出ない。
心の中で何かが何度も叫んでいる。
けれど、それがどこにも届かない。
──自分にすら。
「どうせ誰にも言えねえんだから、ちゃんとオレの言うこと聞けよ?」
晃司の顔が近づいた。
目の奥に、笑いが浮かんでいた。
遥は反射的に身をよじった。が、逃げ場はない。
この家には、“四方”がなかった。
──なんで、こうなってるんだろう。
その疑問が、遥の脳の奥をかすめた。
でも、考えようとするたびに頭が痛んだ。
考えることさえ、もう許されていないような気がした。
「誰も助けねぇって、わかってんだろ?」
晃司の言葉に、遥は反応しなかった。
ただ、息をする。
浅く、震えるように。
胸が痛い。
全身が重い。
どこかが熱く、どこかが冷たい。
わからない。
どこまでが“オレ”で、どこからが“壊された何か”なのか。
父の足音が階段を上がってくる。
──これから、もっと壊される。
遥は、ただ目を閉じた。
けれど、暗くならなかった。
まぶたの裏に浮かぶのは、昼間の教室と、あの名前だった。
「……日下部」
呼んだのか、心の中で浮かんだだけかもわからない。
だが確かに、その名だけが、遥の意識に沈んでいく最後のものだった。