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社会に出てからの虐めは、学生の時と何ら変わらなかった。
一つ違いをあげるとすれば、道具や物を隠されたりするなどの、匿名性が高いモノが多いというところか。
紛失物が多くなればお金は出ていき、信用も無くす。
雨宮青年は対策を講じるものの、虐めは陰湿さを増すばかりだった。
「雨宮っ!また苦情だぞっ!これで今月だけで何回目だ!?」
優しかった社長はもういない。
「す、すみません。知らなくて…」
「またか…お前。そんな言い訳は学生の時までだぞ?」
取引先の予定表が、青年の机から無くなっていたのだ。それにより予定をすっぽかしてしまっていた。
「中卒に期待した俺が馬鹿だったよ。骨のある奴だと思ったんだがな…」
「あ、あの…」
「クビだ。もう面倒見きれん」
「え、え…」
青年はいつの時も言い訳をしなかった。いや、出来なかったのだ。
その身に染みついた恐怖が、言い訳・弁解の機会を青年から奪っていた。
その日、青年は職を失った。
「おおーい。そっち持ってくれ」
青年の姿は別の街で見つかった。
あの街では青年を知る者も多く、小さいながらも会社の経営者に嫌われたことで、職探しが難航したのだ。
「は、はい!」
青年はそこに居場所を見つけていた。
「ふぅ…やっぱり仕事の後のビールは美味いな…」
あれだけ嫌いだった酒の匂い。これも血の繋がりかと、雨宮は独り言ちた。
暴力で押さえつけてきた母親は、いつも酒と香水の匂いがしていた。
今の職場は悪くないながらも、ストレスは溜まる。
色々な原因から睡眠障害を発症していた雨宮は、寝る前にお酒を飲むことを、楽しみと日課にしていた。
ピンポーンッ
「ん?宅配かな?何か頼んでいたっけ?」
今は六畳一間のボロアパートで静かに生活している。偶の訪問者は、配達員か宗教の勧誘者ばかり。
もう三十前の自分には、友人など今更作れないと雨宮は考えている。結婚など夢の出来事。
ガチャ
「はい。どちらさ……」
扉を開けると、そこには初老の女性が佇んでいた。
「いた…」
ゴキュッ。雨宮は生唾を飲み込む。
目の前の女性が、雨宮の知る悪魔が老けた姿をしていたからだ。
「勝手に部屋を解約して…私がどれだけ苦労したか…このっ!恩知らずがっ!」
バキッ
「っ!!」
足が悪いのか、女性は杖を持っており、それを雨宮に振るった。
痛みに鈍感になっている雨宮だったが、久しぶりに振るわれた暴力に、ただただ身を硬くするだけだった。
子供のように震え、身を縮まらせた雨宮を見て、悪魔はニタリとほくそ笑む。
そして、部屋へと上がろうとする。
「ま、まって!は、入らないでっ!」
久しく出ていなかった吃音が元に戻る。が、何とか自分の意思を前面に押し出すことは出来た。
「なんでだいっ!?アンタのモノは私のモノなんだよっ!!」
「で、出て行って…」
バタンッ
ガチャ
まるで小学生のような物言いしか出てこなかったが、フィジカルは成人男性のそのモノ。初老の女性を追い出すことなど容易かった。
『なにしてんだいっ!!お母さん許さないよっ!!』
恩知らずっ!そんな言葉が一時間ほど続いて、やがて静けさを取り戻した。
次の日から雨宮に悪夢の日々が戻る。
「悪いけど、あんなのがいつも居たんじゃな…」
七年勤め上げた職場をクビになった。
理由は、会社の前や現場に母親が現れ、居座るから。
母親は決して犯罪行為はしなかった。見つかった時に、去れと言われれば去った。
故に出来る対策が少なかったのだ。
行政に言ったところで『実の親であれば…』『まずは話し合いを…』。話し合いなど生まれてこの方したことがない。
あったのは暴力だけだ。
「…は、はい」
残された僅かな預金を使い、遠くの街へと越すことを余儀なくされた。
「おいっ!邪魔だ!」
新しい街では、すぐに仕事が見つかった。
しかし、中卒の30前ということで、社内の風当たりは強かった。
それに火をつけたのは吃音とビクビクすること。
母親に会ったことで、小学生の時に戻っていたのだ。
普通に声を掛けてもビクビクし、吃って会話する男。
そんな男は社内で虐めを受け、評価は初めから低いままであった。
そんな男でも居場所はある。虐められるということそのものが、居場所となっていたのだ。
誰しも不満はある。
その不満をぶつけても、何もしない、出来ない者がいるのだ。
虐めを受ける本人からすれば、たまったモノではない。しかし、社会にはそんな人材を必要としている職場は多く存在していた。
「おいおい、まじかよ!」
「大丈夫だろ?落ちたって一階分じゃん」
「ぷぷっ。動画撮って載せようぜ!」
隠れて雑談しているのは、雨宮の同僚の年下の男達。彼等は高卒でこの仕事に入って二年。漸く後輩が出来たかと思えば、自分達より年上で、さらには情けない男。
そんな男に男達は嫌がらせを続けた。
今回の嫌がらせは床を塞いであるかのように見せて、下の階に落とすというもの。単純な落とし穴だ。
虐めの度を超えた虐めは、そのもの自体を終わりへと導く。
「おっ!ノコノコとやってきたぞ?」
「ひっひっ!今からもうおもしれーぜ」
「ばかっ!気付かれたらあの苦労が水の泡だぞっ!」
笑い声の大きい男を仲間の一人が戒める。
苦労は苦労でも、遊びで作った紙の床だ。
「っ!!?」
ドサッ。
「ひゃっはっー!!マジで落ちたぜ!!」
「人って驚いた時にあんな顔するんだなっ!」
「ヒィーッヒッヒ」
「おい!笑いすぎだろっ!ププッ」
紙の床を音もなく踏み抜いた雨宮は、そのまま下の階へと落ちていった。
ここはリフォーム中のビルだ。雨宮達はそのビルのリフォームのために、仕事で来ていた。
床から天井までの高さは凡そ2.5m。打ち所が悪ければ死ぬ高さだが、普段から高所の作業に慣れている男達は、感覚を麻痺していた。
「おい!おいっ!」
笑いながら穴を覗き込んだ一人の男が、誰へともなく声を掛けた。
「なんだよ?もういないってか?」
「いいから覗けっ!」
「「!!?なっ!!」」
穴の先。下の階の床には雨宮の姿があった。
但し、うつ伏せのその背中には工具の鋭利な尖端が突き出ており、床に血溜まりを作っていた。
「お、おい。あれ…動いてないか?」
「ま、マジだ…」
「やべーよ…あいつが俺達がやったって言ったら…」
男達は自分達がしたことを棚に上げ、全ての責任をまだ生きている雨宮へと向けた。
「…か…はっ」
雨宮は肺から酸素が抜けて、声にならない声を上げる。
「かっはふっひゅーらひゅーひっひ…」
これでもう…
我慢しなくていい…
人に譲り、人に任せ、与えることはせず、ただ与えられるものを受け止めるだけの人生が、漸く幕を閉じた。