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しかし、今日のイレギュラーはこれだけでは終わらなかった。
「穂波さん、……っ穂波さん」
「……はい」
その声に遅れて振り向くと、そこには朝必ず会う彼女が綺麗な笑顔を浮かべていた。
……柿原さん?
特に親しくもない私の頭にはハテナマークが幾つも踊る。
「あの、今日お弁当ですか?」
「違います、社食に向かう所ですが」
だったら、と、橘さんよりも距離感の近い彼女は私の手を簡単に取ると、愛らしい笑顔を向ける。
「ランチ行きましょう!」
……………………ランチ??
初めて聞かされる言葉に考えるのを辞めた頭とは他所に、彼女の有無を言わせない笑顔は私の足を動かした。
はぅ……今どきの若いOLさんはこんな所でランチしてるんだ……。
周りを見ても小綺麗な女性ばかりだし、上から観葉植物吊り下がってるし、カラフルなビン類が壁一面飾られてるし、地震きた時大丈夫なのかこれ。
「穂波さんのアドバイスのお陰で、私、彼氏とヨリ戻したんです」
初来店した場所の防災の面を心配していれば、柿原さんの声で現実に戻った。
……そっか、旺くんと付き合ったわけじゃないんだ。
チキン南蛮ランチを頼んだ私とは違って、ガレットという可愛らしいプレートの彼女はほんの可愛らしい程度に口を開けて、小さく切り分けたひと欠片を口に運ぶ。
凄い、食べているのに口紅が全く取れていない。女子力の塊だ。その所作を頭の奥でメモを取り「そうなんですね」と返事をする。
「はい。浮気癖のある人は信用なりませんし」
て、私もか、と、彼女はペロッと舌を出した。
あざといのは見て取れるのに、吸い込まれるくらい可愛い。顔には一切出しませんけれど。
それに、一つ不可解な点もあった。
「…………どうして本間さんが、浮気癖あるって分かるんですか?」
「受付って、噂が集中するんですよね」
「噂……ですか」
「それで終わる時もあるんですけど、社内恋愛の噂は大体合ってますよ」
「へぇ」と、虚をつかれた事など気取られないように努めて平常心を装う。
しかし、焦る心を知らない彼女は平然とこう続けた。
「決まった曜日に決まったズレ方して退社したり、急に見慣れないアクセサリー付け始めたり、あとは香りですね」
「……香り?」
「はい。同棲してたり、ホテル帰りだと香りが大体同じです」
彼女が告げるのは今まで意識したことも無い要因だったので、手がじっとりと湿り気を帯びてくる。
…………まさか、柿原さん、私と旺くんが付き合ってた事…………。
でも、柿原さんが旺くんを狙っていたにしても、付き合わないのも意味が分からない。だからこの憶測はきっと、杞憂に終わるだろう。
「か、柿原さんが年下の方とお付き合いしてるのって、何だか意外です…」
終わった事に疑念を膨らませても意味もないので、苦し紛れに話題を変えた。
すると、彼女の二重の瞳は優しい半月を描く。
「年下って可愛いですよ、頑張ってくれてる感じがして」
頑張ってくれてる……。
柿原さんの彼氏はきっと、私のすぐ身近に居る年下男性とはかけ離れた人なのだ。
常葉くんはどちらかと言うと、こっちが頑張らないと振り向いてくれないだろうし。
「穂波さんは、彼氏居ないんですか?」
「はい、少し前に別れて、今は誰とも」
「好きな人は?」
「……どうでしょう」
有耶無耶な返事を返してお茶を口に含むと、柿原さんはアヒルみたいに口角を上げ「穂波さんって、メイクしないんですか?」と、今度は彼女が強引に話題を変えた。
実は朝が弱いから、メイクはどうしても手抜きになる。橘さんみたいに家を出る2時間も前に起きて身支度をする余裕などない。
ベースと眉を描いて、アイメイクは薄い色を乗せて、髪はくしでといてクリップで纏めるだけという簡単仕様。
「はい、ほぼしません」
事実だけを言うと、どうしてか柿原さんは目を輝かせた。
「コンタクトに変えないんですか?」
「今更変えても、おかしいですから」
残っていたドリンクを飲み干すと、急に彼女はテーブルに身を乗り出した。
「穂波さん!勿体ないです!」
「へ?」
「穂波さんはすっごいポテンシャル秘めてるのに、勿体ないです」
「え、あの」
「帰りましょう、今すぐ、私に任せてください!」
…………何を?
どうしてか、動く女子力だと思っていた彼女は行動力の塊と化して、私の手を引いて店を出てしまった。
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#ワンナイトラブ
「えっ!?やっば、どうしたんですか穂波さん、昼休みに彼氏出来ました!?」
昼の休憩が終わって一足先にキーボードに打ち込んでいると、遅れて同じ空間にやってきた橘さんは長いまつ毛をバチバチと瞬かせる。
実は橘さんだけでは無い、この椅子に座るまで、すれ違う社員からチラチラと見られて気が気じゃなかった。
彼女が驚くのも無理もない。柿原さんはあの短時間で私を見事ビフォーアフターさせたのだから。
会社のパウダールームで、自分のメイクポーチを広げた彼女は私の顔に色を乗せた。
しかも、てっきりクールテイストに仕上げるのだと思っていればどちらかと言えば可愛らしい仕上がりで擽ったい。
『穂波さんはイエベなんで、この色とか似合います!ほら!』
よく分からない単語を出されて熱弁されるので『分かった、茶色ね』と言えば『ブラウンにも種類があるんです!』と更に彼女のボルテージか上がった。
更に持参していたコテで緩く髪の毛を巻いてハーフアップに纏めてくれたのは有難いが……見慣れない自分に違和感しかない。
『さ……すがにこれは、必死すぎませんか』
ふわりと緩やかに踊る自分の黒髪を摘むと、柿原さんは額の汗を手の甲で拭うと、その手を胸の前でぎゅっと握る。
『大丈夫です、このくらい普通です』
申し訳ないが、若い子の後押しほど心許ないことは無い。
眼鏡を掛けるといつもの穂波依愛が戻ってきたから少し安心したのだけど……皆の反応を見る限り矢張り必死さが痛いのだろう。
しかも、彼氏なんてぶっ飛んだ話になるとは思いもしなかった。
「そんな訳ありません」
「分かった、今夜デートですね」
「違います」
「そんな謙遜しなくてもいいですよ〜。課長ーっ今日穂波さんデートだから、仕事頼んじゃだめですよ〜」
だから違うって!
否定する前に課長は「そうか、邪魔しちゃ〜」と、大きな声で話を始めてしまうので、周りには行く予定のないデート話が広まってしまった。
「ほ、穂波さん、頑張ってくださいね」
新卒の一人にも何故か真顔で応援されてしまい、違うと言うのも最早面倒だ。
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