テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
冷たく湿った石造りの牢獄に、カツン、とヒールの音が響く。
その足音はゆっくりと、しかしためらうことなく奥へと進んでいき、とある牢の前で止まった。
つい最近収容された、年老いた女の罪人の牢だ。
固い床の上でうずくまっていた罪人に、足音の主が呼びかける。
「マーシャ・ブラウン」
名を呼ばれた罪人は、驚いた表情で目を見開き、鉄格子の外に恐る恐る視線を移した。
陰鬱な牢獄には似合わない豪華なドレスの裾。きゅっと軽く握られた美しい手。煌びやかなネックレスをつけた白く華奢な首。春の澄んだ空のような青く輝く瞳。
「あ……ああ……オリヴィア様……」
そこにいたのは、赤子の頃から大切に育て、心から慈しんでいた「お嬢様」だった。
「オリヴィア様……。私が至らなかったばかりに申し訳ございません。ですが、次こそはこの命にかえても……」
「マーシャ。やめなさい」
オリヴィアの声が鋭い響きでマーシャの耳を打つ。
「オリヴィア、様……?」
マーシャが掠れた声で尊い人の名を呟けば、彼女は背筋を伸ばしたまま告げた。
「わたくしは、初めからすべて知っていたわ」
「初めから……?」
「ええ。婚約する前から、陛下とナディア嬢のことは分かっていたの。その上で、わたくしは陛下との婚約を承諾した」
マーシャの老いた目が大きく見開かれる。
「そんな……」
「公爵令嬢の婚姻なんて、そんなものよ。それでも、陛下は私を大切にしてくださった」
「大切だなんて……! 本当に大切にするなら、あの娘の子など産ませるべきではなかったはずです!」
怒りに声を荒らげるマーシャに、オリヴィアが首を横に振って答える。
「マーシャ。陛下が本当に一番大切になさりたかったのは、ナディア嬢とユージーンだったの」
「……!」
「ユージーンは……昔はたしかに危うい雰囲気も感じたけど、今はとてもいい子よ。あなたは、ユージーンがアーロンの座を脅かすのではと心配しているのかもしれないけれど、今のあの子はそんなこと考えてもいないでしょうね。きっともう、一番大切なものを手に入れたはずだから」
オリヴィアが膝を折り、マーシャと目線を合わせる。
「マーシャ。わたくしのことを想ってくれてありがとう。でも、わたくしは自分の意思でこの人生を選んだの。だから、誰も憎んでなんてないわ」
マーシャが骨張った両手を握りしめた。
「──私は、オリヴィア様の覚悟を台無しにしてしまったのですね……」
オリヴィアが切なげに目を細める。
「……あなたは犯してしまった罪を償わなければならない。この先、ここから出られることはないでしょう」
「覚悟のうえでございます。私はたしかに、罪深いことをしたのですから」
「ええ、そうね……でも」
鉄格子の向こうから、オリヴィアの手が差し伸べられる。
「今は罪人になってしまったとしても、あなたはいつまでも……わたくしの乳母よ」
「オリヴィア様……」
美しく懐かしい手に触れられた皺だらけの老女の手に、ぽたぽたと涙のしずくがこぼれ落ちた。
◇◇◇
「……今日も来たのか」
寝室のベッドの上で、国王エドワードが見舞いに来た若者に話しかける。
「来てはいけませんでしたか?」
エドワードを無表情に見返し、若者──ユージーンが答える。
「そんなことはないが、そなたが嫌なのではないかと思って……」
「嫌なら来ませんよ」
間髪入れずに言い返すユージーンに、エドワードは思わず苦笑を漏らした。
自分が呪いに苦しむ間に何があったのかは、オリヴィアとアーロンからすべて聞いていた。
ユージーンが、エドワードの過去をその目で見たということも。
「……私が呪いを受けていた間、そなたが治癒を施してくれていたと聞いた。──ありがとう」
「いえ、大したことはしていません。それに……先に助けられたのは僕ですから」
ユージーンが母譲りの赤い瞳をエドワードへと真っ直ぐに向ける。
「感謝しています。ですが、死んでもおかしくなかったのですよ。たかだか公爵令息にすぎない僕より、陛下の命のほうがよほど重いのですから、もう二度とあのような真似はなさらないでください」
「……たしかに、二度とあってほしくはないな。だが、もし同じことが起これば、私はまた同じ行動を取るだろう」
「……っ」
冷静に話そうと決めていた心が、エドワードの言葉に大きく揺らぐ。
「……やめてください。僕は嬉しくありません」
「そうだな、私の自己満足かもしれない。だが、本当に命など惜しくなかったのだ。一番大切な務めを果たしたかった。それに私が死んでも優秀なアーロンがいるし、あの世に行けば会える人もいる……」
ユージーンを見つめ、誰かを重ね合わせるかのようにエドワードが目を細める。
「でも、それでも皆が悲しみます。僕もそうですし、オリヴィア様はどうなるのですか」
「──ああ、オリヴィアが可哀想だな」
寝室の壁に飾られた夫婦の肖像画をエドワードが見上げる。
「本当に大切なものは一つだけなのだと思っていたが、実際はだんだんと増えていくものなのだな」
「……陛下が、僕やナディア母上のことを大事に想ってくださっていたことを知れて嬉しかったです。今はベルトラン父上が僕の父上だと思っていますが、来世はあなたの息子になるのも悪くないなと思っています」
ユージーンからの思いがけない言葉に、普段何事にも動じないエドワードの目が大きく見開かれる。
「そうか……来世か。また、来世があるかもしれないな」
「はい、きっと」
ユージーンが実感を込めて返事する。
「ですから、今世ではオリヴィア様やアーロンたちを大切になさってください」
「……分かった。ありがとう」
「では、僕はこれで失礼します」
退室しようとしたユージーンが、扉を開ける前に少しだけ振り返った。
「また来ます」
「……ああ、待っている」
ユージーンが出ていったあとの寝室で、エドワードは何十年かぶりに温かな涙が溢れてくるのを感じた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!