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#短編集
有栖
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rn
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にゅうひん☆
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針の進む澄んだ音に混じり、時折、紙が擦れる微かな音が静かに重なる。
作業台に向かう向井の隣で、目黒は一冊の点字本を机上に開き、偶に向井の淹れた馨り高い珈琲を嗜み乍ら指先を静かに動かしていた。右手の人差し指と中指が、紙面に整然と並ぶ小さな突起をゆっくりと辿っていく。
一行を読み終えると僅かに指を戻し、読み落とした箇所の有無を確かめてから、次の行へ。決して速くは無いが、一つ一つの点を探り当てる様なぎこちなさは消えていた。指先が文字を拾い、言葉を繋ぎ、確かな意味を追い掛けている。
向井は時折其の横顔を確かめるだけで、声を掛ける事はしなかった。付きっきりで教える時期はもう過ぎた。点字を読むと云う行為は、目黒にとって自らの世界を広げる大切な時間と成っていたのだ。
不意に、ちりん、と扉に取り付けられた小さな鈴が涼やかな音を立てた。
「康二、お疲れ様。」
「舘さん、お疲れさん。」
柔らかな声と共に店内に入ってきたのは宮舘だった。向井が顔を上げると、宮舘は穏やかな笑みを浮かべて立つ。
「目黒さんを迎えに来たよ。」
「あ、もうそんな時間?めぐ…、」
向井が隣へ声を掛けようとした瞬間、宮舘は向井に向かって小さく手を翳して其れを制した。目黒は本の世界に深く没頭しており、未だ宮舘の訪れに気付いていない。
軈て指先が最後の一行を辿り終え、区切りが付いたのを見届けてから、向井は静かに声を掛けた。
「…目黒さん、舘さん来てんで。」
目黒は指を本の端に添え、そっと表紙を閉じた。
「宮舘殿?」
「こんにちは、目黒さん。」
「済まない、待たせてしまっていたか。」
「いえ、ゆっくりで大丈夫ですよ。」
少し申し訳無さそうに眉根を寄せる目黒。相変わらず穏やかに響く宮舘の声を聞き乍ら、彼は手探りで傍らの杖へ手を伸ばした。其の動作を優しく見届けてから、宮舘が問い掛ける。
「さて、今日は何方へ行きましょうか。」
「そうだな…。」
目黒は少し考え込んだ。特に行き先を決めていた訳では無く、宮舘が歩行練習に付き合ってくれるというので外の空気を吸おうとしただけだった。
二人の遣り取りを微笑ましく聞いていた向井が、ふと何かを思い出した様に顔を上げた。
「…あ、せや。」
「「ん?」」
振り返る二人を横目に、向井は作業台の端に置かれた小振りの包みに視線を落とす。
「目黒さん、此の前深さんが本持って来てくれたやんか?」
「あぁ。」
向井は椅子から立ち上がると、其の綺麗な包みを手に取った。
「ほんならお遣いや。此れ、深さんとこに持ってって。」
「此れは…?」
「茶菓子。態々本を持って来てくれた御礼。此れが御近所付き合いっちゅーもんやで。」
目黒は一度杖を机に立て掛け、差し出された包みを両手で受け取った。指先で丁寧な結び目や形を撫でる様に確かめ、深く頷く。
「…成程。」
「深さん、美味いもん好きやから絶対喜ぶと思うで。」
「分かった。」
「舘さんも一緒やし、深さんとこ、そもそも行きつけやったんやろ?」
「そうだな。…では、古書店迄お願いしよう。」
目黒が再び杖を手に取ると、宮舘が自然な所作で其の隣に寄り添った。
「じゃあ、行きましょうか。」
「宮舘殿、世話になる。」
「ふふ、此方こそ。」
二人が扉へ向かって歩き出すと、其の背中に向けて向井が明るい声を張り上げた。
「目黒さん。」
「何だ?」
「深さんに宜しくな!」
「あぁ。」
目黒はふっと口元を緩め、短く返した。
「行ってくる。」
「ん。気ぃ付けてな。」
再び鈴が鳴り、静かに扉が閉まる。遠去かって行く背中を向井は暫く見送っていたが、信頼できる親友と共に歩んで往く恋人の存在に胸を温かくし乍ら、再び穏やかな心地で作業台へと戻っていった。
からん、と乾いた音を立てて、深澤古書店の戸が開いた。
「いらっしゃい。」
店番をしていた深澤が、手元の帳面から顔を上げる。
「…深澤。失礼する。」
「おや、目黒さん。今日はお一人で?」
「あぁ。宮舘殿と途中迄一緒だったが、練習で一人で来てみた。」
「そうかい。大正解だよ。」
深澤はそっと笑みを浮かべるだけに留めた。杖を使い、足裏で道の距離を感じ取り、店迄の歩数を身体で覚えて…目黒は少しずつ、自分の足で踏み出せる世界を広げていたのだった。
杖の先で慎重に床の感触を確かめ乍ら、目黒はゆっくりと店の中へと足を踏み入れる。嘗ては己の目で本を選ぶ為に訪れていた場所だったが、今ではすっかりだった。
「康二から此れを言付かって来た。先日の点字本の礼と、宜しくと。」
「ん?態々申し訳無いねぇ。康二に宜しく伝えておいてくれるかい?」
「分かった。」
少しの間。深澤はふと思い出した様に《あぁ、そうだ。》と切り出した。
「…目黒さん。例の匿名の人から、新しい本を譲り受けてね。」
深澤は文机の脇へ手を伸ばすと、ずっしりと厚みのある冊子を一冊、其の上に置いた。目黒の手が吸い寄せられる様に伸び、緩やかに本の表紙へ触れる。指先で幾度も紙の感触を確かめ、目黒は静かに息を漏らした。
「…又、か。」
「うん。」
深澤が軽く頷く。目黒は其れ以上は何も云わずに本を大切に持ち上げると、表紙に並ぶ小さな点の列を確かめる様になぞり始めた。
「…少しずつだが、読めるようになってきてな。」
「へぇ、そりゃあ楽しみが増えたってもんだ。」
「あぁ。最初は一文字を判別するだけでも相当な時間を要したが…」
目黒の指が、ふと点字の上で止まる。
「此の前の本も、そろそろ読み終わりそうでな。」
「なら、丁度良い機会だったじゃないか。」
「そうだな。此の本も、持ち帰ろう。」
店内に束の間の静寂が訪れる。目黒は其の分厚い本を胸元へ抱え直し、静かに息を吐き出した。
「…有難いな。」
「え?」
「顔も知らぬ俺に、こうして本を贈ってくれる等…。」
深澤は何も答えず、只静かに其の言葉に耳を傾けている。
「もし又其の方に会うことが有れば、伝えてくれ。」
目黒の低く落ち着いた声が、ほんの少しだけ柔らかく解けた。
「先日頂戴した本も、大切に読んでいると。」
「解った。」
深澤は短く答え、目黒を見つめた。
「ちゃんと伝えとくよ。」
「頼んだ。」
目黒は抱えた本をそっと腕の中に収め直すと、凛とした佇まいで向き直る。
「では、又。」
「はいな。帰り、気を付けて。」
杖の先が床を叩く、こつ、こつという規則正しい音が少しずつ遠去かり、戸が閉まる。
店内に再びしんと静もり返った空気が戻った。深澤は暫く其の閉ざされた扉を見つめていたが、眼鏡を指で押し上げ、軈てぽつりと静寂へ声を落とした。
「…聞いたかい?」
返事は無い。けれど、店内奥に積み上げられた古書の陰から、ゆっくりと一人の青年が姿を現した。
其れは、目黒の弟──亮平だった。
直ぐ其処に居た兄が、自分へ差し出された本を受け取った事。其の突起を優しく辿る指先の音。少しずつ読めるようになったと僅かに嬉しそうに語る声。そして、姿も見えぬ自分へと向けられた心からの感謝。其の全てを、亮平は此の場所で息を潜めて聞いていたのだった。
「…聞いてたよ。最初から、全部。」
亮平は溢れそうになる感情を抑え込むように、小さく息を吐き出した。