Blue
良かった、開いてた。俺はほっと息をつく。
翌日も喫茶ピクシスへ足を運んでみると、店内にはあたたかな明かりが灯っていた。
安堵してドアを押し開く。いつもの音がして、いつものマスターの声。
「いらっしゃいませ」
今日は先客がいた。肩幅のがっちりした、年の近そうな男性だった。やっぱりここのお客さんには同年代が多い。
「ブレンドにしますか?」
マスターに問われて、ちょっと考えた。「いや…ほかのも飲んでみたいです」
そうですか、とマスターは意外そうに言ってメニュー表を手渡してくれる。
ピクシスを見つけて、初めて訪れてから今までブレンドコーヒーしか飲んでいなかった。こだわりが特になかったから。
せっかく好きな喫茶店を見つけたんだし、色んなメニューを試したい。
「今日は、エスプレッソを」
おっ、とマスターは笑う。「通ですね」
「いやいや。甘いのが好きじゃないだけです」
今日は体調もいい。少し長めにいられるかもしれない。
やがて、いつもよりも小さなカップでコーヒーを出してくれた。色はほとんど一緒で、鮮やかだけど藍色寄りの青。コバルトブルーとでも言うんだろうか。
「卓上のお砂糖をお好みで入れて、そっと混ぜてから飲んでみてください。本場、イタリアの飲み方です。いつものブラックより、少し苦いかもしれませんが」
俺は、マスターに言われた通りテーブルに置いてある砂糖の瓶からスプーンですくい、溶かして飲んでみる。
「……おっ。けっこう…」
甘みもあるけど、苦味が強い。マスターは「ミルクを入れますか」と訊いてくれたけど、なけなしの意地を張って首を横に振った。
「大丈夫です。美味しいですから」
たまにはこんな冒険もいいだろう。ここに来ることくらいしか、楽しみにしていることはないんだし。
一口ずつ飲んでいると、突然上腹部に息が詰まるような痛みを感じた。
鈍く長いのじゃなくて、急にくる疼痛だ。
もう嫌だな、と顔をしかめながら、ポケットからピルケースを取り出す。とりあえず2錠くらいと思ったとき、手元が狂って取り落としてしまった。
慌てて椅子から降り、しゃがみ込む。
「大丈夫ですか」
散らばった錠剤を男性が拾ってくれる。でも答える声すら出ない。
「お客さん!」
いつもより強い痛みに悶えながら、そして薄れていく意識のなか、マスターの声を聞いた。
「あっ、良かった。目覚めてくれて…」
まぶたを開けると、そこはさっきまでいた店内とは少し違っていた。でもマスターがいるし、横でアイスコーヒーを飲んでいた彼も心配そうに俺を見ている。
俺は上体を起こした。長椅子に寝かせられていたようだ。
「ここは、店の奥です。もう少し意識がなければ救急車を、と思ったんですが……大丈夫、そうですかね」
小さくうなずく。「すいません、迷惑かけて」
マスターと男性が同時に首を振った。
「俺…、もうダメかもって思っちゃいました。何もかも終わりかって…」
2人は静かに聞いてくれている。
「……でも、生きてた…」
マスターが微笑する。「案外大丈夫なものですよ。僕だって、もう余命の期間越えてるんですから」
そう言って、落としたケースとかばんを渡してくれた。薬は家で捨てなきゃだ。
「すいません。ありがとうございます」
帰るとき、お客の男性も立ち上がる。「そこの駅ですよね。一緒に行きましょう」
「え?」
驚いて振り返ると、彼は純粋な笑みで言った。
「たまに見かけてるんです。きっと仕事帰りなんだろうなぁって思って。俺も使うんで」
その彼とゆっくり歩く帰り道、俺は会社を畳む寂しさを聞いてもらった。
仲間と立ち上げ、やっとの思いで軌道に乗せた小さなIT企業。
でも俺のがんのせいで、全てが崩れてしまった。
「それは…悲しいですよね」
彼も同じように、がんで仕事を辞めざるを得なかったと言った。
すっかり色褪せたように思えた、俺と彼の青写真。
でもそこに、新しい色を重ねてくれたのがピクシスだった。
そして、同じ境遇の人にも出会えた。
あとちょっとの人生も、捨てたもんじゃないな。
「それじゃあ、また」
「ええ。また」
俺らには、“また”の約束なんて曖昧で不確かでしかない。
それでもきっとまた喫茶店で会えるんだ、とそんな確証が俺にはあった。いや、きっと彼だって感じてる。
そう思えることが、嬉しかった。
続く
コメント
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マスター北斗、やっぱりいい…✨