ぺトリコール: 雨が降った時に、地面から上がってくる匂いを指す言葉。
³
「…楠?」
読む気もない新聞──そもそも新聞を取っていないから、どこかで買ってきたものだろう──を目の前に開きながら彼は言った。
「そう。楠さん。僕の知り合いだよ」
彼は夢がビリビリに引き裂かれた後だというのに、もう元気になっていた。前と変わらず僕と接し続け、生きる意味の無くなったこの世界で生きている。
「へえ。貴方、僕と例の小鳥遊さん以外の人を知っていたんですね」
「別にアイツは知ってるってわけじゃない。ソル君に比べればね」
その代わりに、全てのことに無頓着になったような気がした。前までやっていた実験も手につかないのか、一日中上の空なんて珍しくなかった。故に、前までの地雷を踏んでも反応は薄かった。
生きる意味が失われた透明な世界を、ただじっと見つめて、視界から逃がさないようにしているように感じた。
「会ってみなよ、ソル君。何かわかるかもよ?」
「何が?」
「知らない。何かだよ」
僕は彼に付き添う理由も無くなったのに、放っておくと死にそうだからと構っている。きっと前までは逆だった。そんなに僕は死にそうじゃなかったけれど、彼の目には死にそうに感じたのかもしれない。そう思うのは、彼自身にも似たような考えが渦巻いていたかもしれないから?
「…気が向けば。今は貴方を放っておけないので。ねえ?アルベアさん」
「別に。死にはしないよ」
「嘘つけ。前自殺未遂起こしていたでしょう」
僕が親しい人の死を受け入れられないなんてものは、もう何年も前から分かっていた当然の事実である。
兄が僕にとってあまりにも存在が大きすぎたのか、はたまた目の前で人が死んだことへのショックか、抑えきれない悲しみか、何か定かではないが、僕は明らかに反動で地下室に籠っていた。傍から見れば一目瞭然だった。
そもそも、普通の人は親しい人が死んだら悲しむものだ。何らおかしいことではない。
「知り合いが死ぬのは怖いですよ。涙は出たことがないんですけどね」
「…知り合いかあ。まだ友達判定はして貰えない感じ?」
彼は自嘲気味に笑った。それに多少のイラつきを感じたがその感情を無視した。
「もちろん、アルベアさんのことは友人だと思っています。アルベアさんじゃなくとも、友人じゃなくとも、”知り合いが死ぬのは怖い”という話です」
その回答を聞くと彼の表情は柔らかくなった。「友達」。もしくは「友人」。僕らの関係はそこ止まりだし、むしろそこで留まらせていた。彼は「友達」という関係性に、酷く執着しているから。いつからか僕も、「友人」であることに一種の安堵感を覚えていた。
蝉の声がよく聞こえる夏の日だった。鋭い日差しと暑さに心の底で不満を訴えても気温は変わらない。僕は今、例の人物を訪ねに外出をしている。普段自分の家と彼の家を行き来したり、外へ出ては買い物と食事を済ましたりするだけの僕にとって、人を訪ねに外出するのは珍しかった。
彼はそうすることが幸せかのように僕の世話を焼いた。頼んでもないのに飯を作り、体調不良のときに限って押しかけ、僕にありふれた話を聞かせた。僕達の精一杯の友達ごっこだった。
「まったく。面倒事を持ち込むなとあれほど言ったというのに……」
暑さも相まってか、目の前の人物は不機嫌だった。その髪を束ねれば少しは暑さがマシになるだろうに、一切結んでいなかった。
その人は長いピンク色の髪をしており、落ち着いた色の着物を着ていた。僕を超えることはないが、女性にしては十分に背丈が高い。瞳は青色。だが目は閉じている時間の方が長い。この人は本当に暑さを感じているのか?彼がなぜ知り合ったのか不思議に思う人物だ。
「………まあ、彼奴が気に入るのが分からんでもない。例のソルティアード・メアシールフスだな?」
「はい。長いですがソルティアードでお願いします」
決まり文句である。初対面の人に毎回これを言っているが、大半が困惑しながらもそう呼んだ。あだ名では呼ばれたくなかった。特に”ソル”はそうだった。
僕は変な拘りがある。兄以外がそのあだ名で呼んで欲しくない。もちろん、兄に関係する僕の苗字も、なるべく呼ばれたくなかった。
そういう点でも僕と彼は似ている。彼も同じような理由で名前を呼び捨てにされることを拒んだ。元より、僕は人を呼び捨てで呼ぼうだなんて思わないから、そこは別に気にするものでもなかった。
「私は楠。来てもらって悪いけど、茶菓子は今ないんだ。弟が食べてしまったからな」
楠が下の名前だとは思えない。つまり、彼女も何らかの理由があって下の名前で呼ばれることを嫌っているのだろう。コンプレックス、僕のような拘り……。まあ、十中八九馴れ馴れしくされるのが嫌いなんでしょうね。そういう雰囲気を隠しきれてませんから。
「弟ですか」
「…そうだ、ついでに弟の面倒を見てやってくれないか」
「は」
自分で言うのもなんだが、僕には向いていないと聞いているだけで思った。僕は人と関わるのが苦手だ。もっと言うと嫌いだ。なぜよりによって僕なのか。共通の知り合いがいるとはいえ、初対面なのに?何をとち狂ったのか。
「お前よりは歳下だぞ。弟同士、何か通じるところもあるんじゃないか?」
ああ、なるほど。理由は理解できたが、納得はできない。
だが、異議を唱えようとしても、もう何も耳に入らないようだった。僕に残された選択肢は「イエス」と「はい」だけか、クソが。
「……どうも」
「ええ、どうも。僕はソルティアードです」
「ええと……じゃあ…ソルさんですか?」
どうして僕の名前をあだ名にするときは決まってソルを取られるのか。まあ、名前の中でどこが一番呼びやすかと聞かれたら、僕も「ソル」と答えるだろうけど。
「構いませんよ」
変に噛み付くより放っておいた方が面倒事には繋がりにくい。その子はぎこちなく笑った。アルベアさんに比べればいい笑顔である。
「おれは楠……あ、これでは姉さんも同じですね。楠旭です」
恥ずかしそうに自分の名前を発した。
「なるほど。旭さんですか」
自らを旭と名乗ったその男性は、姉と同じピンク色の髪に青色の目をしていた。似ている。名前を知らなくても、一目で血が繋がっていると判断できるだろう。姉よりは背が低い。所作や発言に幾つか迷いがある。だが、物腰柔らかだからか姉よりは人当たりが良さそうだ。
漠然とした不安を感じている、もしくは性格からは想像できないものを隠しているな。
「はい、えっと……。姉さんに言われて来たんですよね」
「はい。半ば強制的に」
「あはは……、姉さんってそういうところがあるんです。あまりに無理矢理だったら断ってもいいんですよ。でも姉さんは……いや、何でも」
僕が少し毒づく──本当にほんの少し。言ったことはちょっとした文句に変わりないが、それでも内心僕は怒りを覚えていた──と、そう反応した。後者、もしくは両方だな。
「まぁ、これから………と言っても、どんな頻度か分からないですけど。旭さんの元へ訪れると思うので、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
出来れば二ヶ月に一回くらいがいい。言ったとて叶わないことを想像上の楠さんに投げかけた。
「ふーん。旭君かあ。ねえ、その子のこと気に入った?」
「普通です」
「楠さんに弟とかいたんだね。しかもソル君に世話を頼むなんて。びっくりだよ。うん、これは珍しいことだね」
彼は本を片手に持ちながら──どうせ適当に選んだんだろう──窓の外を見つめていた。ほぼ毎日そうだった。やることを失ってしまっていた。
「気でも狂いましたか?叩けば治るでしょうか。古いテレビのように」
「叩いても直んないよ」
「……冗談ですよ」
冗談が通じないなんて、相当おかしくなっているのだろう。大抵は冗談に乗っかるというのに。それにいつもローテンションだ。夢が破れてから多少は元気になったといっても、それは元の状態へ回復されることはなかった。
「……貴方の情報源はどこなんですか」
口に出す予定のなかった言葉が、口から溢れる。会話と会話の間が空くのは気まずい。前までは気まずくなかったし、今も対して気まずくはないはずなのに、その静寂を怖がってしまった。
「………どうしたの、急に?旭君のことならソル君が話したでしょ」
「さっきの話とは関係ないことですよ。ただ僕が気になったことです。何故貴方が僕の過去を当たり前のように知っているのか」
「それは、前にも話したじゃん。僕の──」
「貴方が作りあげた想像の中の僕が話した?そうじゃありません。貴方の中の僕は貴方の情報を元に作られています。僕が話す以前に、貴方が知っていないと成り立ちませんよ。アルベアさんが言い訳として使っているその話は」
「………そうだね。凄い今更だ。でも今気づいたわけじゃないでしょ?僕がこんな状態になったから」
「ええ。タイミングを測るのは重要ですから。基本中の基本ですよ」
「性格悪い。……推測だよ。ただの推測。僕は意外とそういうのが得意なんだよ?…まあ、僕と君が似ていたっていうのもあるけど」
おそらく本当だろう。それ以上のことを聞く意味なんて僕にはない。
「はぁ、なるほど。ちょっと癪ですね」
会話が終わる。
勢いで始めた会話に彼は興味をもったらしい。いや、興味なんてなくて、僕と同じようにただ口を動かしたかったのかもしれない。どうせ話すならと選んだ話題は、どうやら正解だったらしい。
「……外食でも行きませんか?」
突拍子もない提案が勝手に僕の口から飛び出てきた。 先程までの会話など微塵も関係ない。あるわけがない、文字通り勝手に出てきた提案。
僕のその提案に、彼は項垂れていた頭を素早く起こした。驚きと困惑が混ざりながらも比較的明るい顔をしていた。
「行こう」
まるで、僕の提案を待ち続けていたかのようだった。
家を出てから、しばらく二人は無言だった。
人と人との間には壁が存在する。それは一種の自己防衛でもあり、警戒心でもある。人によって高さも厚さも様々で、もしかしたら色でさえも異なるのかもしれない。
それはその相手と親しくなればなるほど低く薄くなっていくものだというのに、今は酷く高いように感じた。当たり前だ。だって僕らは喧嘩をしたことがない──いや、喧嘩したところでどうにもならないだろう──。
「ソル君」
声の方へ顔を向けると、向こうも僕を見ていた。
「ねえ、よくないことを言うよ。ソル君は、お兄さんのことをどう思ってるの?」
お兄さんという単語が聞こえた途端、足が止まる。どう思っているのかなんて、当然知っているくせに。知っている上で避けているんでしょう?
「もちろん大好きですよ。知ってますよね?」
僅かな苛立ちが抑えられず発音に出てしまう。違う、怒りたいわけではない。気にしないように、誤魔化すように、また歩き出す。
「ああ、いや…………うん。これは僕が悪いね。どう思っているか、というよりは、お兄さんのことを受けてこれからソル君はどうするのか?だ」
彼は急に恭しくなった。前と同じように感じるが、絶対に何かが変わっていた。彼は腫れ物に触る──その表現が適切か分からなかった。けど、そのように感じられた。多分この表現は間違っている──かのように発言していた。
「知りません。僕が一番わかりませんよ」
「でも、僕がこうなったからには、ソル君の生きている意味なんてなくなったじゃないか。あれは延命手術みたいなものだよ」
彼は必死に見えた。僕を死なせたいのか、生かしたいのか、はっきりしてほしい。とはいっても、僕が死のうが生きようが変わらないだろう。わざわざはっきりさせる必要もない。
「貴方と違って、僕は対象がもう死んでいるんです。貴方は対象が生きているからそれまで生きられますが、僕はもう無理なんですよ。死んだ人が蘇ることはありません」
「うん。そうだね。ソル君は僕みたいになってほしくないな」
いつもはもっと反論してくるくせに、あの日以降ずっと僕が正しいとでも言っているように肯定をしていた。そろそろ明確にして欲しい。貴方は何を考えて、何を言いたいのか。
「そうですか。まあ、どうなるかわかりませんけど……。アルベアさんが言うならそうなんでしょうか」
「さぁ、どうだろう。うん」
彼は微妙な反応を示した後、もう一度僕の方を見て手を握った。虚ろな目だった。
「何を言ったかじゃない。重要なのは、誰が言ったかだよ」
「………」
僕は、上手く言い返せなかった。
外食先は、ある意味僕に因縁があると言える和食店だった。和食店だというのに、外装も内装も洋食店だった。扉は乾いた音を立てて閉まった。
外食に誘ったのは僕だが、店は彼が選んだ。とは言っても、僕は何も考えなしに歩いていたから、行きたい店なんてなかった。そもそもの話、二人で食事をする気もなかった。
「和食、好きなんですか?」
「ううん。ソル君と同じ洋食派だよ」
彼はメニューを見つめながら、何か別の考え事をしているようだった。それでメニューの中身が頭に入るはずがない。
「何食べる?僕はソル君と同じやつにするよ」
「じゃあ蕎麦で。冷たい温かいはお好きに」
彼は分かったと言って、店員を呼び、注文を伝えた。その後はただひたすら黄昏ていた。僕は暇だから店内を眺めた。考え事をする気力はなかった。
何を言ったかではなく、誰が言ったか。
「なあ」
暫くすると、頼んだ品ではなく一人の男性がやって来た。その男性はこちらの席に近づき、話しかけてきた。
話しかけている相手はアルベアさんのようだった。アルベアさんは変わらず黄昏ていたのか反応しない。声をかければ戻るだろう。それとももう戻ってきているのか。
「…あの、何の用です?」
このまま無言でいるのもいけないと思い、代わりに僕が返事した。すると、その男性は僕の方を怪訝な目をして見た。頭からつま先までジロジロと見られているようで気分が悪かった。
「コイツに用がある。後で店の外に来るように頼みに来ただけだ」
コイツと言ったとき、男性はアルベアさんに対して顎をしゃくった 。アルベアさんに用があるなんて、何の事だ?それ以前に怪しいから回避したい。面倒事は嫌いだ。
「すみませんが、お引き取──」
「いいよ」
冷たく、無機質な声だった。
結局、和食は美味しかったのかと言うと、そうでもなかった。もう来ることはないだろうし、そこはどうでもよかった。
食事が終わった途端アルベアさんは店の外へ出た。ご丁寧に会計分の金を置いていったが、僕はその金を無視して、全て自費で会計をした。この金は後で返せばいい。
店の外へ出て、男性とアルベアさんの姿を探す。アルベアさんが目立つ髪色で助かったかもしれない。二人は口論していた。もっとも、激しく声を荒らげていたのは男性だけで、アルベアさんは酷く冷静だった。
僕が近づいていくと、丁度男性はアルベアさんを殴った。アルベアさんは後ろに転けた。周りの人はそれを見て見ぬふりをして通り過ぎていく──一部の物好きは楽しんで見るだろう。まるで映画を見るみたいに──。もちろん、男性とアルベアさんを避けながら。
「ちょっと、何を?」
男性とアルベアさんの間に入って、目の前にいる男性を見る。どうやら身長は男性の方が高いようだった。
「お前は………コイツの連れか。コイツがやらかしたことを知ってるか知らないか知らねぇが、そこを退け」
多分、その男性よりは知っていると思う。僕が進んで見たわけじゃなく、彼がしょっちゅう進捗を話すからだった。
「さあ。この人に何かされたんですか?」
「何かだァ?人生をぶっ壊されたんだよ!」
思い出したのか、怒りがまた出てきたようで、男性はイライラしていた。変に注目を集めるから声を荒らげるのはやめてほしい。面倒だ。面倒事に巻き込まれた。
僕は情けをかけるように、倒れているアルベアさんを見下ろした。貴方のせいですよ、という感情も混ぜながら。
「ですって。何をしたんですか?」
「何も。その人が勝手に言ってるだけだよ」
嘘だと思った。彼が夢を叶える途中で恨みを買うなんておかしな話ではない。そもそも、元の性格からして相手を怒らせやすい。
アルベアさんはそんなことも気にせず、にしても痛いなぁと頬に手を当てて笑っていた。
「……正直、貴方のアルベアさんに対する恨みを晴らしてあげたいんですが……。残念ながら、今は僕が借りているので。また後日」
無理矢理に話を切り上げて、アルベアさんの腕を引っ張ってその場を離れた。幸い、男性が後を追ってくることはなかった。
人だかりを抜けると、やけに人が少ないことに気がつく。もう時刻は夜になるらしい。街全体が”一日の終わり”という雰囲気を帯びていた。
「…ふふ。”今は僕が借りている”かあ。ロマンチックだね。ソル君にしては」
彼はおかしくなって笑いだした。一言余計だ。そういうこと言うから敵を作るのだというのに。
「今は僕が恨みを晴らしているんですよ」
「怖いな。僕何かそんなことした?…あと、握るなら腕じゃなくて手にしてくれないかな」
「これまでで僕が貴方の望みに答えたことがありますか?」
「うーん、ケチ。減るもんじゃないのに」
沈んでゆく太陽が眩しくて目を細める。
久しぶりに外へ出た時と同じような感覚だった気がする。生憎今は帽子を持っていない。暫くは目に負担がかかるだろう。
「ねえ、ソル君。死んじゃダメだよ。まだ友達でいよう」
ああ、夏が終わる。秋に暑さだけを置いていって消える。 ああ、激情の夏!
夏も終わりに差し掛かっていた。だというのに、汗は止まらなかった。暑さはまだだらしなく寝っ転がっていた。 雲の隙間から差す日光が、僕の目を刺す。
「ソルさん、どうしましょう」
変に暑いのは、これも原因だった。
「おれ。人を殺しちゃいました」
震えていた。罪悪感を感じていた。汚れてしまって二度と綺麗に戻らない手を見つめて、泣きそうになっていた。
「姉さんが……姉さんが悪いんですよ。いつも頼られる姉さんの弟だから……姉さんもおれも、良いように使われてるだけだから……」
怯えきっていた。少なくとも、後処理よりは旭さんのカウンセリングを先にした方がよさそうだ。
「それは…殺人に加担したということですか?」
「はい。……助けてください。ソルさん。姉さんには言えないんです」
蝉の声が煩わしかった。
「向日葵が枯れてるの見ると、なんか嫌になるね。夏が終わるから」
周りに向日葵なんて咲いてないのに、彼は突然そんなことを言った。彼は花瓶の水を変えていた。 花なんて好きじゃないくせに。
「別に好きってもんじゃないけど、夏は風情を感じるからさ。いい思い出もないけど、教室を思い出すよ」
彼は、花瓶を机に置いた。ドン、という音が、木製のテーブルを伝って低く響く。
「…アルベアさん」
「隠し事。…してるでしょ?内容はなんでもいいけど、迷いが隠しきれてないよ」
この人も大概人間観察が好きなものだ。人の機嫌を伺って生きてきたのか、それとも暇をつぶすための趣味なのか。どちらにせよ、慣れている。
「アルベアさん。愛と憎しみは表裏一体って聞いたことがあります?」
「あるような気もするけど。何かそれに関係することがあったの?」
「………。どうせ分かります」
自分から言わなくとも、彼は察する能力が高い。単純に付き合いの長さからでもある。
「何?僕が勝手に調べるから?調べるのも楽しいけど、きっと尋問も楽しいよ」
「猟奇的」
それなのに聞いてくる。人を追い詰めるのが好きなのか。客観的に見れば、好き側の人物なのだろう。自覚はあるに決まってる。
「僕が?そんなことはないよ」
だって貴方、実の父親を殺したことがあるんでしょう?
「やあ。キミから来てくれるなんて嬉しいよ。アルベア君から禁じられているのかと」
「彼に僕の交友関係に口出しする権利はありませんよ?」
アルベアさんが特に嫌ってる──それも異常なまでに心の底から嫌っている──人間、小鳥遊泉。左目に嵌っている眼球は初めから他人のもの。
目指しているところが似ていようが、過程が違うなら分かり合うことなど到底できない。この事実は、僕が近くで見てきたからこそ分かることである。
彼はアルベアさんが変わったからといって、変わることはなかった。
「ボクからしても、アナタは優秀な人材だから是非手に入れたいところなんだが……流石にアルベア君が怒るかな?」
「アンドロイドにはなりませんよ。死んでもね」
「アンドロイドじゃ勿体ない。研究者からしたら、あらゆる衝撃から身を守れるなんてどうしても手に入れたいものさ」
そう言って差し伸べられた手を仕方なく握り返し──渋々握手をした──、すぐに離した。
「おや。残念ながら、僕の思考はアルベアさん寄りですよ?貴方の考えを否定する気はありませんが」
「問題ない。一緒にいると必然的にそうなるだろうからね。でも一旦協力体制を結ぼうじゃないか。ボク達にも、アナタ達にも、メリットがあるはずだ」
「答えはNOだよ。如何なる状態に置いても、僕はお前と協力することはない」
後ろから聞こえて来た声は、毎日のように聞いていた友人の声だった。数時間前の会話から、行き先を察されたのか。もしかしたら彼は文句を言いに来ただけかもしれない。
「それと、ソル君を持ってくのは駄目だよ。あまり危険な目には合わせたくないからね」
アルベアさんは僕の隣まで歩いて来て、小鳥遊さんを睨んだ。
「ちょっと、今日は喧嘩しに来たわけじゃないんですよ。僕が個人的な頼み事をするだけです」
「頼み事を?」
丁度その時、研究室の扉が開いて、一人の女性が入室してきた。
薄紅色の髪を横でお団子にしている……ああ、名前はたしか魁雲雀だったか。
「ハカセ、紬から資料預かってきたのでここに………。え、お客さん?」
「おや、ちょうどいいところに来たものですね」
人が多いに越したことはない。なぜなら、道具を貸してもらうつもりで来たからだ。もしも探す必要があるのならもっと好都合だ。
「随分不機嫌ですね。そんなに小鳥遊さんが嫌いですか?」
「そりゃそうだよ。ソル君は知ってるでしょ?」
彼は何も無い空中を睨みながら歩いていた。一喜一憂が激しいのなんて出会った時からで気にも止めなかったが、ここまで執着が凄いと中々苦労する。まあ放っておいてもそのうち上機嫌に戻るだろう。
「だいたい、なんでアイツのとこに……」
「証拠隠滅に協力しています。死体の処理ですかね?」
「はあ!?」
彼が大きい声を出したせいで、周りの人の視線がこちらに向けられる。万が一にでも僕の台詞が聞かれていたら困る。それに、噂経由で楠さんの耳に入ったら元も子もない。
「…続きは二人だけの場所で話しましょう。誰かに聞かれると困ります」
彼は黙ったまま首を縦に振った。
「へえ、旭君が」
適当な路地裏に入り込み、全てを正直に白状した。これでは尋問と変わりがない。
話している時はこれでもかというほど感情的なリアクションを挟んできたのに、いざ話が終わるとそれは何の感情も篭っていないイントネーションに変化していた。
「それで手伝ってるんだ?いつにも増して慈悲深いんだね。いつもはゼロに等しいのに」
「…………。あくまで加担させられたんでしょう?必要以上に人を疑うことはしたくありません。面倒なので」
「疑う?疑ってるんだ」
「疑いはしてませんよ」
言い終わる前に彼は立ち上がり、元いた道に戻ろうと歩いていた。彼は足元に転がっている黒猫の死体を気に止めなかった。黒猫は腹から血を流して横たわっていた。死体に集るハエが鬱陶しく感じて、それ以上視界に入ることがないように努める。
路地裏を出て、お互い暫く無言で歩いていたとき、彼は静寂を破って話し始めた。
「人って変わるよね。凄く。短期間で完全に変わることもザラじゃない。一日一日、必ず変わっていってるんだ。影響されやすい人だと尚更変わるだろうね」
「まあ、そうなんじゃないんですか?」
彼はうーんと唸った。彼にまとわりついていた嫌悪感はもう一つも見れなかった。
「僕が人を殺したら、ソル君は共犯になってくれるのかな」
場に再び静寂が訪れた。
「なんてね。ジョークだよ」
「ああ、はい。似てる者同士と言っても、同じ存在じゃないですからね。だから、僕ですら予想できないことがあるんですよ。そういうときは決まってこんなことを思います。”本人もやっている言動に意味を込めていないんじゃないか”、と。実に簡単なことですよ。誰しもが隅々まで細かく考えて行動しているわけではない。そりゃあ、十個あるうちの一つはそういう事柄があっても違和感はないですよ。なら、彼がやったのは残り九つの方ですね。身の中に隠した好奇心を爆発させただけに過ぎない。まあそれも不意の事故のようなものですよ。はは!」
「これで大丈夫ですか?」
「た、多分………はい…」
死体を埋めたところにシャベルを刺した。多少慣れてるとはいえ、こんな暑い日にやるものではない。口から疲労の息が漏れる。
「人を殺したことが故意じゃなくても、こうして死体遺棄をしてしまったのでどちらにせよアウトですよ」
蝉はまだうるさく鳴いていた。
「……大丈夫です。だって、殺人も最初から最後まで全部やりましたし」
予想は的中した。
学校のせいで、疲れたとき以外に夕立を見たことがなかった。いつもカラスが鳴いていたのにその日は静かで、周りに人が一人もいないような感覚だった。傘を開かずに雨にあたる。冷たかった。
きっと兄さんに怒られてしまうだろう。その不安は幸福にもなった。
何もせずとも明日はやってくる。それを憂鬱と思わないわけではないけど、どちらかというと楽しみの方が勝った。まだ明日も足掻ける。きっとその明日だって。
重苦しい雰囲気の街を明るい気持ちで抜けて、家を扉を開けた。生まれながらに持っている才能との差は、努力では簡単に埋められない。そう、僕の周りは皆天才だった。
「花瓶。割ったんですね」
嫌という程漂っていた花の香りは、その日を境になくなってしまった。元々植物の匂いは好きではない──特に嫌いな匂いが植物系の匂いというだけで、匂いが強ければ何でも苦手だ──。無くなろうと関係ないし、彼にとっても最初から邪魔な物だ。だが、いざ無くなると喪失感に襲われる。
「うん」
変わらず簡潔な受け答えをしている。この世にあるもの全てどうでもよさそうな喋り方だが、それならと此方も変わらず喋りかける。
「早く片付けないと破片で怪我しますよ」
「別にいいよ。むしろ本望だ」
彼は絆創膏が貼ってある指を食い入るように見つめた。
「こんなもの、なくてもいいんだけどな」
一週間前くらいに同じようなやり取りをした結果の、せめてもの措置だった。
一言一句同じ、全く同じの会話を繰り広げるなんて無意味だ。別に違う答えを待っているわけでもなく、咎めたいわけでもない。非生産的な行為。
「…結局、旭君が最初から最後まで犯行をしたということだよね?疑ってて正解だったね。探偵でも向いてるんじゃない?」
「僕が探偵ですか?ご冗談を。僕が探偵なら───いえ。なんでも」
無意識に出かけた言葉を飲み込んだ。僕は今、何を言おうとしていた?
「旭君がお願いした通り、楠さんには言わなかったんだね?」
彼はそれを気にせずに話し続けた。
「そういう話でしたので」
彼は自分の指からやっと目を逸らすと、そのまま僕の方を向いた。
「ね?人って変わるでしょ」
そう言った彼は、僅かに笑っていた。
「…はは。人を殺すってこんな感じなんですね」
旭さんの手は震えていた。寒い時の震え方でもなく、緊張している時の震え方でもない。心の底から恐怖している時の震え方だ。
「そのうち慣れますよ。こういうものは。でないと快楽犯というものは存在しません」
「……ソルさんは…。ソルさんは、人を殺したことがあるんですか?」
「自分で手にかけたことは一度も。…ああ、実質見殺しにしたことはありましたね」
あの時の僕にはどうにもならなかったにせよ、見殺しであることに変わりはないだろう。見殺しにするつもりはさらさらなかったが。
「…姉の名前、知ってますか。楠帷って言うんです」
それっきり、黙ってしまった。
夜の帳。朝の太陽。陰鬱な雰囲気に囲まれていてもなお、美しい対比だと感じる感性は今でも生き残っていた。
「弟が世話になっている」
旭さんとの会話が終わって帰ろうとすると、楠さんに止められた。聞かれてはいないはず。聞き耳を立てられていなければ聞こえない距離だったし、それを抜きにしても特段気配は感じなかった。
「別に何もしていませんよ?」
弟のことは気がついているのかそうでないか分からないが、呑気なものである。
「何もしていない?それは嘘だな」
不意に開かれた目から、青色が見えた。いつも目を閉じているからか、勝手に目が悪いのかと思っていた。目に射抜かれた。メデューサのようだ。
「何かはしている。それも、私達姉弟のことでな。隠すとは…、相当良くないことだろう。例えば…。殺人とか」
「…そう見えますか?」
何もないかのように返すと、暫く無言になった。バレたって何も問題はないか。咎められても適当な言い訳をすればいい。
「……。まあいい。だが、近いうちに似たようなことが起こるだろうな」
先に言葉が出たのは楠さんだった。まあ、僕は何かを言うつもりはなかったけれど。
「予言ですか?」
「ただの勘だ」
そう言うと、後ろを向き帰って行った。
「…はあ………。どうしてこうも、未来予知できる輩がそこらかしこにいるんでしょう…」
兎に角、旭さんのことがバレたのは確定らしかった。指摘する隙がない精密な言い訳を今から考えておかなければならない。
今日は夜までやることがない。要するに、暇だった。
どの本を読もうか本棚を眺めていると──正直に言えば読む気なんて微塵もなかったが──、インターホンが鳴った。ドアスコープから覗き込むと、想像していた通りの人物が立っていた。
「はい。なんでしょう?」
「ちょっと貸してほしいものがあるんだけど」
「………分かりました。では中に」
少し考えた後、僕は彼を中に入れることにした。多分、僕も何か話があった気がする。それに、長話になる予感がした。
僕が鍵を開けると、彼は慣れた様子で家に上がり込んだ。
「物置とかある?もしくは地下室とかに置いてあるかな」
「物置なら外に。何を持っていくつもりですか?」
僕の返答を聞くと、彼は靴を脱いで上がった。
「ちょっとした工作をするのに必要なんだよ。帰りに取っていくね」
僕が代わりに取ってきますよ、というのは前にも何度か言ったが、結局自分で取りに行くものだから言うのは諦めた。
彼が持っていく物も、最初から聞き出せるとは思っていなかった。だから問い詰める必要もない。後で何が無くなったか見に行けばいい。
「ソル君は」
彼は急に足を止めた。こういうときは大抵、僕にとって嫌な事を言われる。
「僕が滅茶苦茶言っても答えてくれるよね。僕が理想を押し付けても答えてくれるよね」
語尾に疑問符がついていないのが怖かった。そんな当たり前みたいに話されても困る。
「だよね」
感情が篭っているのかどうか分からない声色で問いかけられた。問いかける?これは肯定しか許さないものじゃないのか。
「さあ?」
「今回に限っては逃げるのは駄目だよ。こういう質問の時、ソル君は決まってはぐらかすよね。でも今回は無理だよ。はぐらかしても、結果は変わらないからね」
家にあげなければよかった。今更後悔しても遅いし、あげなかったところで事態を先延ばしにするだけだ。
「選んでいいよ。どっちを選んでも意味ないけど。YESかNOくらいは選ばせてあげる」
「………いいですよ。YESで。不服ですけど。選択肢はないんでしょう?」
屈辱。尋問だけは心の底から楽しんでいるんでしょう?
「…はは。怒らないでよ。そんなに」
強い力で腕を掴まれた。彼はもう背中を見せておらず、僕の方を真っ直ぐに向いていた。
どうしてそんなに笑えるんだ。
「ねえ、これからも友達でいようよ」
彼が帰った後に覗いた物置からは、斧が一本消えていた。
「ソルさん。おれの姉さんのことどう思ってます?」
「どうも何もないですよ。僕の友達の知り合いです」
そして、貴方は友達の知り合いの弟です。
「よかった」
「何がですか?」
「おれの姉さんに好意を持っていたら、例えソルさんでも殺すところでした」
やはり予想通り。彼はその目に狂気を秘めている。
愛する人のために寄ってくる人物を殺す。僕も似たようなことを思いつけばよかった。
「彼奴らも、おれの姉さんを好きになったのが悪いんです」
旭さんは自身の姉に好意を持っている。家族愛や尊敬の範疇を超えた、そんな恋。
「…なくなる前に想いを伝えた方がいいですよ。手遅れになっても知りませんからね」
何故、僕の周りには家族を好きになる人が多いのだろうか。類は友を呼ぶ?それともそういう人物の方が気が合うのか?
「……あの、ソルさんは───」
「おい。…ソルティアード」
そこまで来れば、旭さんは何を言おうとしていたのかはどうでもいい。どうせろくな事にならない。だが、僕は個人的に探ろうとしたのだし、少しばかりは付き合ってやろうか。
「姉ちゃん?なんでおれのところに…」
「…いや、隣の其奴がもうじき帰るだろうと思ってな」
其奴、と僕の事を指す。失礼だ。赤の他人にこそ媚びを売っておくべきだと思うが、それは人それぞれなのかもしれない。
「私達はもうすぐ晩飯の時間だ。それまでには帰ってくれよ」
「言われなくても。他人に迷惑をかけるくらい非常識ではありませんよ」
その回答を聞くと満足したのか、踵を返し帰って行った。いつもいきなり現れていきなり話しかけていきなり帰っていく。神出鬼没というのはこういうことを言うのか。
「ソルさんって、お兄さんを失っているんですか」
「…は、」
気が抜けたところで、頭を殴られたみたいな感覚に陥る。
「憶測でしかないですけど。家族内に大切な人がいたのは間違いないでしょう?」
本当は今すぐにでも黙れと言って銃を突きつけてやりたい。が、数分前の自分の思考に嘘を吐くのは気に食わない。
「…どうしてそう思いました?貴方が探偵なら、是非話を聞きたいところです」
「ソルさんはおれが姉に対して好意を持っていることを明かしても特段反応しませんでした。嫌悪も拒絶もしなかった。……ほぼ二分の一を当てるようなものですけどね」
元々理解があるのか、自分もそうだったかの二分の一。確率は50%。僕の言動を合わせれば50%より確率は上がるだろう。勘がいい、とでも言うべきか。
「…僕もそうですよ。では、さようなら。貴方の姉に叱られますからね」
気にしたって何にもならない。僕にとって珍しい側の人間だったとしても、きっともう会うこともない。さようならが適切だろう。
「何の数が好きですか?おれは28です」
「完全数なら6が好きです」
今の流れで思い出した。彼は何をやるつもりだろう。何にせよ、止めに行くしかない。工作に斧を持っていく?ああ、確かに工作でしょうね!
「おい、お前。これから何をしようとしている?」
急いで出ていこうとしたところを止められた。
「何かって?見たら分かりませんか?帰るんですよ。貴方に言われたように」
未来予知が出来るのなら、止める必要もないでしょう。出来なかったとしても、このまま見逃して欲しいですが。それとも死体遺棄の件を問い詰めるつもりでしょうか?
「その後だ」
「友人のところへ」
もどかしい。一々一問一答するよりまとめて質問責めされた方が僕としては楽だ。
「行く意味があるのか?」
「あります。友人なので」
正直のところ、客観的に見たら僕にとって行く意味はない。ならばこう答える。「友人なら行くべきだろう」と。
「今はやめた方がいい」
何故?
「辞めるも何も、僕は約束をしてしまったんですよ。一方的に取り付けられたものですけどね!」
何も変わらない、無意味な問答が続く。第三者が首を突っ込んでも変わることはない。変わるとしたら、それはアルベア・ブレーデフェルトがこの世界線のアルベア・ブレーデフェルトじゃなくなった時のみ。
その目は何の力が籠っているんでしょうか。未来予知は簡単なものではないでしょう。時間に関係することなんて能力でもないと難しいはずです。
「…まずはお前の疑問に一つ答えよう。私の能力は未来予知ではない。過去の出来事を見る能力しか持っていない。未来予知に感じたものは、全て私の憶測だ。そんな私からの忠告だ。彼奴に会うのはやめた方がいいぞ」
なるほど、じゃあ旭さんの件もそれに僕が介入していたことも知っていたわけか。条件は目か。何にせよ、面倒事がなくなった。
「それでも僕は行きますよ」
「……何故?」
「物事が予測できる範囲ならば、もうそれを避けて通ることは出来ないわけです。万が一避けたとしても、向こう側から来るだけですからね。つまり、手遅れというわけですよ」
僕は神を信じているわけではないが──そもそも聖書の中で悪魔は悪いものとして扱われていますからね──、それでも運命というものには逆らえないと感じている。ラプラスの悪魔と少し似ているかもしれない。
「ええ、そりゃ意外だ。……いや、別に意外でもないかな。ここの世界線の僕でもそれを考えることが出来る。所詮は僕だね。僕の最大の理解者は僕で、僕の最大の敵は僕だ。どっちかっていうとそっちじゃない。…その世界線の僕はわざわざ回り道をしてソル君の家にあった斧を利用したわけだ。斧だったら普通に僕の家にもある。僕がやりたいことを成すためには、ソル君に”斧が取られた”という印象を残せればいい。つまり、斧を取るだけでいいんだよ。そのまま使う必要性はない。その僕には”ソル君なら乗ってくれる”という絶大な信頼があった。そしてソル君も実際にその作戦に乗る。僕が事前に訪れて脅しまがいなことをしなくても。だって、その世界線のソル君だから。僕がそう行動して、ソル君は無条件に乗る。この世界線ではそういう物語で進む。まあ、こんなこと僕は絶対意識してないだろうね!うん、まさに不意の事故だ。あはは!」
「やあ。こんなところで会うとは奇遇だね」
「どうも。奇遇という程でもないですけど」
どうせ待ち構えていたんだろう。そうじゃないとこんな場所で出会うわけがない。GPSや盗聴器を仕掛けられていたか?いや、そんな素振りはない。ならばアルベアさんくらいしかいない。
「丁度キミ宛に伝言を頼まれていたんだよ。アルベア君からさ」
伝言なんか頼まなくてもいいでしょうに。彼は余興がそれ程好きなんでしょうか?
「…ほう、なんでしょうか」
「”別離”だけだ」
別離。頭の中にある引き出しを開けて一つの答えに行き着いた。アルベアさんは見た事があるだろうか。詩くらいなら見るのかもしれない。
「思い切りましたね」
「喧嘩でもしたのかい?ボクでも予測できないよ。本当に思い切っている」
「別離は僕とじゃないですよ?僕と別れるつもりならわざわざ伝言なんか頼まないでしょう。それも貴方に」
彼が嫌っている相手に伝言を頼むなんて有り得ない。伝えたいだけなら書置きでもすればいい。そうでもしたい理由は何か?
簡単に思いつくのは、勘違いさせることだろう。小鳥遊さんじゃなくてもいい。事態に関わっていない他の人物から見て、勘違いさせられればいい。それで手っ取り早く小鳥遊さんに話したのか?話された側は酷く困惑したのだろう。
「…たしかに違和感はあるけど、別れるならキミ以外に誰がいるのさ?」
「じきに分かります」
説明する余裕もないし、説明する必要もない。アルベアさんがどういう目的であれ、僕は巻き込まれただけ──そういう姿勢は取っておくに限る──なのだから。
「はあ……話し方は何もかも、全部似ている。アナタ達は」
「はは。全然違かったら僕ら友人じゃないですからね」
こんなに良いお天気の日に?今はいい天気じゃありませんよ。むしろ僕からしたら最悪なくらいです。それに、貴方はその選択を後悔することなんてありませんし、思いを馳せることなんてきっとないでしょう?なら、伝言に適している言葉とは言えませんね。
蝉の声はもう既に日常に溶け込み、意識する前に消え去っていた。そんなもの気にならなくなるほど、気温は日に日に高くなっていった。
人の少ない街を走った。昼になると逆に人通りが少なくなるものである。外で外食を済まさない限りは、家で食べるしかないのだから。
多分、いかなる世界線においても、この状況に陥ったのなら、僕は同じ行動をするのだ。同じ時間帯で、同じ数持っている情報量で。
いくら可能性からどんどん分岐していく性質を持つ世界線であっても、全く違うというのはありえない。何かしら同じところはあるはずだ。
多分、これが僕にとっての同じところなのだろう。それは彼も同じであり、彼もまったく同じ考えに行き着き、まったく同じ行動をするんだ。イライラする。
この世界線はこのシナリオ通りに進む。そう決められているのなら、今僕のいる世界線はきっとこれでシナリオ通りだろう。
それを回避できるのは、あらゆる可能性を秘めている、所謂”オリジナル”の世界線だけだろう。特別なシナリオがない──もしくは、どうしてもシナリオ通りに行かないだけなのかもしれない──。故に、無数の可能性が生まれるのだ。
クソッタレ。
ゲオスミン:降雨のあとの地面のにおいを持つ有機化合物の一種。
斧を持って振り下ろす。大変に思えてずっと避けていた行動は、一瞬にして完遂された。そう、思ったより簡単なのだ。良心の呵責に悩まされないのならば。
ああ、全て必然的なことだったのだ。終わってからようやく気がついた。誰かがこの状況を見て笑っているだろうか?笑っているとしたらそれは僕らだろう。他でもない、僕自身──僕自身と言っても、別の世界線だけどね。あ、あと、ソル君もいるかな──。
ソル君はもう気がついたのかな。とっくに気がついているだろう。僕が突拍子もなく工作をするわけがない。僕がやっていることはある意味工作と言えるかもしれないけど。ソル君は共犯になってくれるだろうか。きっとなるだろう。こんな面倒なこと──僕の指紋が付かないように気をつけて運んだんだよ。斧に付いている指紋はきっとソル君のだけさ──しなくても。
全ては好奇心から始まったことなんだ。彼のように、”たいせつなひと”を失ったら彼の気持ちが分かるのかもしれない。それが最初だったかな。結局僕の計画も失敗に終わった。不老不死の薬を研究していることがバレたんだ!あの時負った傷は今まで生きてきた中で一番痛かったよ。修復するのにかなりの時間を使った。
結局は別人なんだよ。似てるかもしれないけど、いや、僕らは確かに似ている。でも全部一緒じゃない。現に、僕はこんな事をしたのにも関わらず君の気持ちは分からない。おそらく君が抱いていなかった感情を抱いているのだから。
ああ、僕の愛する人は死んでも美しい!
目的地に着くと、鉄臭い匂いがした。まだ血が水のように流れている。死体の前にただ呆然と立っていた人物は僕が近づいていたのに気づいたのか、振り返った。
「凄いね。両親を殺すなんて初めてだ」
彼は血に濡れた斧を持って、たしかに笑っていた。
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