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「目標がしっかり固まっているなら、今はそれでいい」
|理世《りせ》の言葉に、事務所内には安堵の空気が広がった。
ただし、『今は』が気になったけど。
きっと理世が求めているのは、今よりずっと上の私たちだ。
「ただし、麻王グループのアパレル部門に入るからには、しっかりした仕事をしてもらう。厳しいからな」
デザイン画の課題、パタンナーたちの技術向上も理世は、この先を見越しての指示だ。
――理世は|紡生《つむぎ》さんがなにで、悩んでいたかわかってた。
理世だけでなく、『|Lorelei《ローレライ》』デザイナーの|悠世《ゆうせい》さんも。
『これで満足しているのかと思うと、残念だ』
『このままだと成長できず、ただのカジュアルブランドとして終わる』
悠世さんから言われた言葉が、頭をよぎる。
私は自分の目の前の仕事だけに向き合うだけで、精一杯だった。
今だからこそ、やっと悠世さんの言った言葉の意味がわかる。
――私、余裕がなさすぎるわ。
周囲が凄すぎるっていうのもあるけど……
私は理世の妻になった。
だからこそ、彼の隣にいても、恥ずかしいって思われないような女に――リセの姿を思い出し、ちょっと考えた。
最高の男性と最高の女性が、同一人物ってどういうこと?
「理世」
「うん?」
「理世は私の最大のライバルだと思うわ」
「琉永は俺のライバルじゃなくて妻だろ? 俺はいつも琉永の味方だ」
焦る理世に、私は首を横に振る。
あんな素敵な女性になれる理世に勝つためには、まだ全然足りない。
「どういうことだ?」
「なんでもわかってるって顔をしてたくせに、|琉永《るな》ちゃんだけには、弱いみたいね」
|恩未《めぐみ》さんは理世を笑ったけど、理世はそれを否定しなかった。
「琉永は俺にとって特別だ。俺にはないものがある」
「そんなことないっ! 理世は私をいいように言い過ぎだから!」
「自分の姿は自分から見えにくい。ほとんど鏡でしか、じっくり見れない」
「理世……」
理世とホテルのロビーでぶつかった時も、リセの姿でパリで出会った時も、私を否定せずに認めてくれる。
私は悠世さん、紡生さんたちに比べ、平凡だけど、自分が持っている以上の力を発揮できるのは、理世のおかげだ。
「二人の世界のところ、悪いけど。|麻王《あさお》専務。これから、よろしくお願いします。きっとあなたは私達の足りないものを持っている」
紡生さんがかっこよく言ったのに、理世は――
「まあ、お前が持っていて俺が持ってない物はないけどな」
「ああああ! すっごい嫌な奴だあああ! さっきまで琉永ちゃんには、甘すぎるくらい甘い言葉をかけてたくせにぃぃ!」
「落ち着いて! 紡生! 冗談、冗談に決まってるでしょ!」
「は? 冗談? 真実だ」
「理世……」
理世がこれ以上、なにも言えないよう口を手で覆った。
恩未さんは冷ややかな目で理世を見た。
「|琉永《るな》ちゃん。こんな男が旦那で大丈夫?」
「え、ええ。まあ……」
私にはすごく優しいのに、仕事となると容赦がない。
ちらっと理世を見ると私と目が合った。
口を覆っていた手をとり、なにをするのか眺めていたら、ちゅっと手の甲にキスをした。
「り、り、理世っ!」
「嫌みなくらい絵になるわね!」
「わざとやってるなー」
「俺が旦那でいいに決まってる。琉永を守れるのは俺だけだ」
私だけでなく、『|Fill《フィル》』も|啓雅《けいが》さんから助けてもらったのは事実。
紡生さんたちは否定したくても否定できなかった。
「確かにそうだけどさー」
「琉永ちゃん。なにかあったら、すぐに相談するのよ」
「は、はあ……」
「そういうわけで、今日は琉永を休ませる。今すぐ引っ越しをしないといけないからな」
「え? 引っ越しは週末の予定だったはず……。それに、理世の仕事は大丈夫?」
今日だって、仕事前に立ち寄った理世は、スケジュールがいっぱいで忙しいはずだ。
だから、朝しか時間がとれなかったのだと思う。
それなのに、私の引っ越しを優先させるのは心苦しい。
「仕事のほうは、後からなんとでもなる。琉永をどうこうしようとするのは、乾井だけじゃないだろう」
言われて、ぎくりとした。
すでに父は、私が啓雅さんとの結婚を断ったことは知っているはず。
清中繊維とINUIグループの契約を切ったと、啓雅さんが言っていたから、すぐにでも怒り狂った父と継母が、アパートに押しかけてくるのは目に見えていた。
「たしかにそうね。琉永ちゃん、今日は休んで、すぐにでも引っ越しをしたほうがいいわ」
「いやー、どっちみち、今日はみんな帰宅だよ。さすがに疲れたからねー」
眠らないと死ぬと言って、紡生さんは欠伸をした。
「紡生さん、恩未さん。ありがとうございます。私のせいでいろいろと迷惑かけてしまって」
恩未さんは笑った。
「なに言ってるの。こっちが感謝したいくらいよ。紡生が世界を目指すって言ってくれたんだから。私は紡生の背中を誰かが押して……突き飛ばしてくれるのを待ってたの」
私だと紡生を甘やかして無理だからねと、恩未さんは言っていたけど、紡生さんの才能を一番信じていて、どこまでもついていくつもりだろう。
「ほら。魔王じゃない……えーと、王子様が待ってるわよ」
「誰が魔王だ」
理世はムッとしながら私の手をとった。
「行こう、琉永」
事務所の外に出て、二人になり、ようやく実感がわいてきた。
――私、本当に理世と結婚したんだ。
夢だと思っていたけど、私とつなぐ手が、これが現実だと教えている。
何度も私を助けてくれた手に、胸が苦しくなった。
「好きにならないなんて無理だよ」
「琉永?」
「理世は助けたことを好きなる理由にしてほしくないって言ったけど、そんなの無理」
理世は泣き出しそうな私の顔を覗き込んだ。
「理世が好き、大好き」
「わかった。それなら――」
車のドアを開け、私を助手席に座らせると、理世はキスをした。
理世は何度も角度を変え、キスを繰り返す。
「り、せ……?」
理世の体は、太陽の光を遮り、私の前に大きな影を作る。
私が余計なことを考えられなくなるまで、キスをすると、唇を離し、悪い顔をした理世は、私にささやいた。
「もっと好きになればいい」
そう言って、理世はもう一度、私にキスをした――