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霧の彼方から夢の流れを下り来て地上に至り、屍を依り代にして顕現した巨大な蠅の祟り神はまるで駄々をこねる赤子のようにただ力任せに暴れまわる。人間のたどり着くことのない神々の庭園では輝かしい羽根も、ここでは死肉で形作られ、力無く垂れ下がるばかりだ。少なくとも飛ぶことは出来ない。出来たところで羽虫の好まない地下の穴蔵であり、人間にとっては広々とした巨人の遺跡ですら、蠅の神は狭苦しそうに翅と肢をばたつかせ、罰でも与えるように壁や柱を激しく叩いている。無謀にも飛び掛かる異郷の異教の戦士たちを軽々と弾き飛ばし、天井を支える柱の一つを小枝のように砕き折る。
すぐさまソラマリアが天上の上から戻ってきて、レモニカを守るように立ちはだかる。
「申し訳ございません。もう一人を取り逃してしまったせいで。ご無事ですか?」
ソラマリアはその片腕に屍ではない気絶した男を抱えていた。顔立ちは屍使いたちによく似ているが、シシュミス教団の神官の服を纏っている。老いて痩せさらばえてはいるが、確かに生者だ。呪われた屍のふりをしていた者だ。いや、そもそも彼らが屍を操っていたのだろう。
「ええ、無事よ。つまりこの街にはまだ生き残りがいて、それも屍の陰に隠れ潜んでいて、その信仰がこの土地神を存在せしめたということね」
「この巨大な屍人形の蠅が呪われた土地神、祟り神ということですか?」
ソラマリアに問われるもレモニカにも真実は分からない。
「おそらくね。一先ずはそう考えましょう。とはいえもはや祟り神の調伏は手段でも目的でもないわ。解呪を成せば自然と鎮まるはずだから。無理はしないで」
荷物を抱えてなお隙のない構えで剣を掲げながらソラマリアはぼやく。「そもそも斬って死ぬものではなさそうです。肢を斬り落とせば動きは止められましょうが」
既に大王国の戦士たちが栄誉と誇りを示す名乗りと雄叫びを上げながら、屍肉で受肉した蠅神に挑みかかっている。その身から幾らか屍を剥がせてはいるが、すぐに周囲の屍が蛆のように蠢いて集り、欠損が補完されている。祟り神の体は一定以上の大きさにはならないようだが、この戦いにきりはなさそうだ。そして蠅神の力任せの暴れ方のせいで、巨人の築き上げたこの空間の方が持たないかもしれない。レモニカのそばにも天井から砂が降っている。石材が降り始めるのも時間の問題だ。
蠅神が床を激しく踏む振動で敷き詰められた砂土が舞い飛び、無数の屍で構成された体当たりで柱が順に折られていく。壁が悲鳴をあげてひびが入り、巨大な棺が倒され、天井の穴が広がっている。
「問題は解呪が出来なかったことよね。前にベルニージュさまに解呪できない原因の仮説を幾つか教わったのだけど。そもそも根本的に解呪方法が間違えている可能性。あるいは加呪者の力に解呪者が負けている可能性。もしくは、正確には解呪できているけれど、解呪するそばから新たに呪われている可能性」
ベルニージュに出会ってから、自身の呪いも含めてレモニカは多くのことを学んできた。
「……今回の場合は、どの可能性が高いのでしょう?」
「三つ目よ。一つ目と二つ目はこちらが魔導書の力で解呪しようとしていること、既に何度か成功していることから考えて可能性は低い」
「だとすれば呪っていた者はこの男でしょうね」ソラマリアは脇の男を顎で指す。「気絶しています。今なら解呪できますね」
その時、蠅神が瓦礫をレモニカたちの方へと弾き飛ばし、ソラマリアが剣で防いだ。さらに二つ、三つと狙いすましたように続く。
「どうやら考えなしに暴れているようではなさそうね。地上に出なくては演奏する隙なんて与えてはくれないわ」レモニカはソラマリアの抱える男の頬を叩く。「起きなさい。『年輪師の殉礼』を解除なさい」
しかし男の意識は失われたままだ。
その時、勇猛な戦士たちの止むことのない雄叫びと悲鳴を縫って、場違いな歓声が飛び込んできた。
何事かとレモニカが目を向けると屍使いたちの一部が何かを見つけた様子で大はしゃぎしている。それに気づいた戦士たちの一部も喜んでいる様子だ。
レモニカは、兄やフシュネアルテ、そしておそらく救済機構もまた目的としている何かが見つかったのだと確信して、野次馬の如く騒ぎの方へと駆けつける。
「レモニカ様! 何も言わずに離れな……。これは……」主を追ってきたソラマリアもまた言い淀み、息を呑む。
その正体は巨人の屍だった。ウィルカミドの街の地下で遭遇した巨人たちの骸骨と違って人間と同じ五体の輪郭だ。そしてこちらは骨だけでなく肉や皮が木乃伊化してまだ残っている。黒ずんだ土の中で保存されていたらしい。それを蠅神が暴れたことで幾星霜の歳月を越えて曝されたのだ。
屍使いたちがこれを探していたというのであれば、その目的は明らかだ。ソラマリアや戦士たち、屍たちが蠅神と戦っている最中、屍使いたちはフシュネアルテの指揮の元、巨人の屍に魔術を行使し始める。
まるでこの時のために何度も訓練してきたかのように――実際にそうなのだろう――屍使いたちは手際よく働き、初めて見たはずの巨人の屍のために用意された魔術で各部を支配下に置いていく。神々と戦った筋肉が伸縮し、神々に引き裂かれた内臓が蠕動し、神々に血を浴びせた血管が脈動し、偽りの魂が拍動し、古の怪物、巨人が息を吹き返す。
屍使いたちの呪文に呼応して巨人はすぐさま立ち上がり、無数の獣が劈くような叫びと共に蠅神にぶつかった。巨大な手足は歩き方を覚えたばかりの幼児のようにぎこちないが、蠅神の肉体に引けを取らない恐るべき膂力だ。ほぼ互角。少なくとも戦士たちが周囲の屍を無残に破損し、蠅神への補給を絶つ余裕は出来た。
しかし裏を返せば一層酷いことに二つの巨大な力によって巨人の遺跡が破壊されていく。雄叫びや悲鳴が霞むほどの衝撃音が響き続ける。
とうとう壁の一つのひびが限界に達し、音を立てて派手に崩れた。そしてぽっかりと巨大な穴が開く。どうやら岩戸だったらしい。穴には階段が彫り刻まれ、上へと伸びていた。
誰の指揮も必要とせず、皆が地上へ続くらしい階段へと殺到する。レモニカもソラマリアも続く。巨人の屍でさえも殿を務めつつ、階段を上る。松明の躍る炎にのみ照らされる真っ暗な階段の先に地上を照らすはずの緑の放射は見えない。閉ざされているのだ。
「行き止まりだ!」と誰かが叫んだ。
「地上はすぐそこのはずだ。突き崩させろ!」と誰かが指示した。
地下深くで蠅神を食い止めていた巨人の屍が大股で階段を駆け上がってくる。レモニカとソラマリアは直ぐに追い抜かれ、巨人はそのまま真っ暗闇に突っ込んだ。
激しい地響きと崩落するような音が鳴り渡り、次の瞬間緑の光が差し込む。階段を塞ぎ、隠していた地面を下から突き破ったのだ。
だが喜んでいる暇はない。土に塗れつつレモニカたちも地上へと急ぐ。巨人程に速くはないが蠅の神が這うようにして階段を上ってきている。蛆のように蠢く屍体で形作られた脚が地に着くたびに、骨が砕け、肉の千切れる生々しい音が聞こえ、絞り出される血の足跡が続く。
入った時よりも幾らか人数は減ったものの、調査団が地上へと帰還する。ずっと重苦しく感じていたクヴラフワの空気さえも清々しく感じた。呪わしい緑の陽光でさえ、暗い地下の息苦しさから解放させてくれるのに十分な爽快さがあった。地下へと通じていたシシュミス教団の神殿からは少し離れた街の外だ。
「ご無事でしたか。レモニカ様」と同じく土塗れのフシュネアルテに声をかけられる。
あいかわらずイシュロッテを盾にはしているが少しだけ距離が縮んでいる。
「ええ、ですがまだ終わりではありませんよ。あれは何です? シュカー侯国で奉られてきたのは蜘蛛神シシュミスでは?」
「私たちにも分かりません。あるいはこの四十年で新たに見出された神なのやもしれません」
その場にいる半分があいかわらず地上で待ち構えていた屍を相手取り、残りは巨人の屍と共に地下から来る災いに備えて構える。まもなく屍肉の蠅神が飛び出してきて巨人の屍に飛び掛かる。広々とした大地の上で巨人と蠅神は思う存分に取っ組み合う。蠅は巨人に噛みつき、巨人の方は蠅を引き千切ろうとし、確かに引き千切るが、生きる死体は止めどなく供給されて再生する。むしろ屍の多い分、地上に出て不利になったかもしれない。
「おい! 暴れるな!」とソラマリアが怒鳴る。
ソラマリアが脇に抱える屍のふりをしていた男が目覚めたのだった。
「貴方、あれを止めなさい」とレモニカが命じる。
巨人の屍は屍肉の蠅の神を地下へと押し返そうとしている。
「止めるものか! これは天罰だ。我らを捨て駒にし、国を捨てて逃げた臆病者どもに災いあれ!」
呪いの言葉を吐きながらさらに暴れる男をソラマリアは実力行使で黙らせる。鈍い音がしたが意識は失っていない。
屍使いの長たちにちらと目配せをしてレモニカは男に尋ねる。
「貴方は屍使いですよね? 一体何があったというのですか? 聞きますから手短に話してください」
レモニカの説得とソラマリアの説得により男は再び口を開く。
「……何人もの市民が生きたままに突撃させられたのだ。屍のように操られてな。我々はその生き残りだ」
「屍使いは生者も操れるのですか?」レモニカはフシュネアルテに意見を求める。
「不可能ですよ。我々の魔術体系はあくまで屍を操作する魔法です。生者も操れるならば屍使いなどとは名乗りません。何か行き違いがあるとしか思えません」
「それこそ呪いが、『年輪師の殉礼』が悪さをしているのではありませんか?」とソラマリアが意見する。
「なるほど」レモニカは感心したように頷く。「私たちはこの呪いが死者を生者のように見せかける呪いだと思っていましたが、例えば生者を死者に見せかける力でもある、とか」
結果屍しか操れない屍使いの魔術でも生者を操れてしまった、のかもしれない。
「私たちが死者に見えますか?」とフシュネアルテに問われる。
見えない。だが死者に見えるとは何だろう。レモニカはその場にいる者たちを眺める。動いている者、喋っている者、戦っている者。呪いのことを知らなければ皆が生きているように見える。
「何かの間違いではありませんか?」レモニカが衝突の生き残りに尋ねる。「というか貴方も屍使いならば分かっていたのではないですか? 屍使いが操れるのは屍だけだと」
「それじゃあ一体何が、何が我らを死地に追いやったというのだ!」
レモニカはしかと頷く。それは肯定でも否定でもない。
「それを知りたければ最も手っ取り早いのは彼らと手を結ぶことではありませんか? クヴラフワ衝突の際、このムローの都で何が起こったのかを知らなくては始まらないわ。恨むのはその後でも構わないでしょう」
「恨まれたくはないですけど、同胞を見捨てるつもりはありません」と屍使いの長フシュネアルテが応じる。「かつてそのような罪が行われたのであれば長として責任を果たしましょう」
生き残りの男はうんうんと唸り、フシュネアルテの誠実な眼差しを測り、存分に悩んだ果てに観念したように呟く。
「罪人が判明したら裁くと誓うか?」
「我らがシシュミスと父祖に誓って、生者を弄んだ者には相応の罰を与えましょう」
生き残りの男は素直に呑み込むことに苦労しつつ、しかししかと頷く。そして蠅神が憑代としている肉塊の束縛を解放しようと長々と呪文を唱える。すると蠅神の周りの動く屍たちがばたばたと倒れた。しかし人の野に降臨した土地神自身は肉塊から出ていかず、暴れ続けていた。
「解除した! したはずだがなぜか止まらない!」と男は言い訳がましく訴える。
「受肉した以上あの祟り神に主導権が移ったのでしょう」とフシュネアルテが仮説を立てる。
「ならば、あとはもう、肉塊を破壊するしかありませんね」とレモニカは悔しげに答える。
ムローの都を呪った『年輪師の殉礼』は解かれた。いずれにしても再会した肉親との交流はできないのだが、そのうえ遺体を破壊しなくてはならないのは忍びない。
それを察した様子でフシュネアルテに気遣われる。「私たちなら初めから覚悟していますよ、殿下。何せ屍使いですから」
レモニカはしかと頷く。今度は肯定と覚悟を意味している。
「ソラマリア、お願いできる?」
「お命じください」
レモニカは耳飾りを外し、ソラマリアに託す。二つの耳に|紅玉《ルビー》を飾る。
「速やかに土地神を構成する屍を破壊しなさい」
「御意のままに」
受肉した蠅の神に挑みかかるのはソラマリアとライゼンの戦士たち、屍使いの手駒たち、そして巨人の屍だ。レモニカはじっと戦いを見守ることしかできない。
おおよそ半年前、サンヴィアの北の果てで、自分にできることをやろうと決め、やり遂げた自身のことを誇らしく思ってはいるが、その分何もできない時に覚悟が重くのしかかる。
組分けについて話していた時、ベルニージュとジニに次いでソラマリアが評価されている、とレモニカは説明したが今では考えが変わっていた。最も役に立たない自分に釣り合うのは最も優秀な者のはずだ、と。魔法に精通したベルニージュやジニは魔法に関しては人並みのソラマリアを、それでも総合的には最も優秀で強力な人物だとみなしているのだ。
ソラマリアが戦いに戻り、ライゼンの戦士たちの士気も高まっていた。ただ眺めているだけのレモニカにも分かる。兄の配下の鍛え上げられた戦士たちの誰もがソラマリアに比べれば遜色している。剣の扱いに精彩を欠き、身のこなしも重く鈍い。翻ってソラマリアは戦女神の如く華麗にして、荒れ狂う獣の如き奮戦だ。ただ一刀で巨神の肢を、折り重なった屍を断ち切り、魔導書を触媒とした氷の槍を城壁をも突き崩す威力で放ち、祟り神を貫き、磔にする。神話に語られるような壮大な戦いぶりだ。
蠅の神は徐々に徐々に肉体を失っていく。巨大な怪物めいた存在を前にして、もはや戦いというよりも刈り取り作業のようだ。
そこへレモニカの兄、不滅公ラーガと残りの調査団がやってきた。ライゼン大王国の王子の指揮により、戦いは刈り取りから埋葬へと変わった。蠅の神は流れ作業で調伏されてしまった。