顔を合わせれば喧嘩をしてきた。喧嘩といっても口喧嘩だけど。バカとかアホとかそういうのは別によかったの。私も言ってるし、挨拶みたいなものだったから。
「しつけーよ、ブス」
だけど、その言葉だけは許せなくて。きっと他の人に言われたのならこんなにも悲しくはならなかった。他でもない千冬に言われたことが悲しかったのだ。
「黙ってどうしたんだよ、的確すぎて反論もできねぇの」
言葉がでない。いつもの口喧嘩であればすぐに何かしらの暴言が出てくるのに、喋り方を忘れてしまったんじゃないかってくらいに喉から音がでない。
「ホント可愛くねぇよな。少しはヒナちゃん見習ったらどうだ」
引き合いに出された名前に、ヒナちゃんは関係ないでしょ、って怒りたいのにやっぱり声が出なくて、そこではじめて異変に気づいた。なんでもいいから声を出してみようとすると出るのは息だけ。怖くなって千冬に助けを求めようとしたけど、私の異変になんて気づかなくて、不安から涙が溢れて地面を濡らした。
「泣くのかよ。オレお前のそういうとこ嫌いだわ」
嫌い、その言葉がトドメとなって私を襲った。目の前が真っ暗になるような感覚の後、我に返って千冬に背を向けフラフラと歩き出した。未だに後ろで何かを言っているような気がしたけど、これ以上一緒にいてはいけないと本能的に察知して耳を塞ぐように自宅へ駆け込んだ。
最初に私の異変に気づいたのは母だった。いつもなら帰宅するなりまた千冬が、と愚痴るのにそれがなかったからか、はたまた私が泣いていたからか。声が出ないことを伝えると明日まで様子を見てみようと言ってくれた。
翌日になっても私の声が戻ることはなく、学校を休んで病院に行くことになった。問診票を記入して座っていると、体が元気なのに病院にいることが不思議できょろきょろしてしまう。母に嗜められて大人しくしていると三十分ほどで診察室へ通された。
「心因性の発声障害ですね」
医者は簡潔に言い放った。精神的な問題によって声帯がうまく動かないのだという。難しい話はよくわからなくて、母が真剣に聞いているのをどこか他人事のように見ていた。
「薬を出しておきますので服用してください。ここにはカウンセラーも常駐してますのでいつでもいらしてくださいね」
お大事にと常套句をいただき頭を下げて部屋を出た。お会計をすませる母に先に車に戻っていてと言われ鍵を預かる。助手席に乗り込んで携帯を開くと何件かのメール。友人からの心配がほとんどで、大丈夫だと返信する。千冬からのメールをどうしようかと悩んでいると母が車に乗り込んできた。
「ちょっと遅くなっちゃった、ごめん」
ふるふる横に首を振って鍵を渡すとエンジンをかけて発進した。
帰る前、母が気を利かせてノートとボールペンを買ってくれた。筆談できた方が楽でしょと笑う母につられて笑う。家についてソファで寛いでいると、昨日のことを改めて確認されて思い出して泣きそうになる。
「でも千冬くんがそんなことをねぇ」
『千冬は悪くない、いつもの口喧嘩だったんだから』
「そうね、だけどアンタはそれで悲しかったわけでしょ お母さんから言ってあげようか」
『それはダメ。でも、少し距離をとろうと思う。千冬は私のこと嫌いみたいだから』
「……お母さんは味方だから何かあったらいつでも頼ってね」
優しい母の言葉に今度こそ涙が出た。嬉し泣きだよ、ってノートに書けばぎゅうっと抱きしめてくれて、いつもなら恥ずかしいその行為も嬉しくて私も母にしがみついた。
翌日の学校で私の周りにはたくさんの人が集まってきた。表向きには風邪で声が出なくなったことにして、しばらくは助けてやれとの担任の言葉に友人たちが寄り添ってくれたのだ。嘘をついていることに多少の罪悪感はあるけど、必ず誰かしら一緒にいてくれるおかげで安心できた。
放課後になってさすがに下校まで付き添ってもらうのは悪い気がして、下駄箱で一人靴に履き替えていると後ろから聞き覚えのある声がして思わず振り返る。そこには千冬と場地くんがいて何やら楽しそうに話している。会ったら気まずくなりそうで、見つからないうちにさっさと帰ろうと足を踏み出すと、千冬が私の名前を呼んだ。返事もできないから振り返ると、この前のことなどなかったかのように話している。
「つか、昨日休んだだろ。何、サボり」
『風邪ひいて病院。声出ないからしばらく筆談なの』
「馬鹿でも風邪ひくんだな」
いつものが始まったと思った。ブス、嫌い、そのワードを思い出して胸が痛みだす。応戦していたらまた言われるかもしれない。
『悪いけど帰るね』
にこりと愛想笑いをして何か言われる前に踵を返し昇降口をでた。
それからの私は徹底的に千冬を避けまくった。向こうが登校するかしないかわからないけど早めに家を出ているし、校内では会わないように千冬のクラスの前を通ることを極力避けた。休日もなるべく外へは出ないようにして家周辺でも会うことがめっきり減った。
それでも、私の声が戻ることはなかった。さすがにこの状況が一ヶ月も続くと周りも怪しんできて、変な病気なんじゃないかって近寄る人も一人また一人と減っていった。
「そろそろ本当のことみんなに言わないか」
先生もクラスの人が私によそよそしいのを薄々気づいていたようで、特別仲のいい奴にだけでも、と言ってくれたが私は拒否した。言ってどうなるものでもないというのと、一人に言ってしまえば全員に言ってしまったも同然ということが主な理由だった。深々と頭を下げて部屋を出るとそこには会いたくない人物。
「今帰りなら一緒に帰ろーぜ」
いつからそこにいたとか、先生との会話聞かれてないよなとか思うことはあったけど、拒否しても食い下がってくるから根負けして頷いた。
「最近会わなかったよな」
『クラス違うしね』
いつ喧嘩が始まるかと内心ビクついていたけど、当たり障りのない話題ばかり選んでいてホッとする。それでも千冬といるだけで変な動悸がするからなるべく早くお別れしたくて、早歩きになってしまう。
「なあ、なんでまだ声でねぇの」
『わかんない。風邪こじらせたかな』
だけど千冬が話しかけてくるから、書くのにどうしてもスピードを落とさざるを得ない。
「それ、風邪じゃないんだろ」
足がピタリと止まる。どうして、声にならない声で口を動かすと気まずそうに視線を落とした。やはり先生との話を聞かれてしまったのだろうかと焦る。笑って誤魔化そうとペンを握るとやめろ言わんばかりに利き手を封じられた。
「オレのせいなんだろ」
真っ直ぐ目を見られて今度は私が視線をそらした。先生には原因までは伝えていないはず、ならばどうして千冬が知っているんだろうか。当てずっぽうというにはあまりに確信に満ちている。咄嗟に首を横に振ると私の手を掴んだまま歩き出した。
「お前のおふくろに聞いた。オレとの喧嘩が原因でそうなったって。ショック受けると声が出なくなる病気、だっけ。そりゃあオレのこと避けるよな」
千冬のせいではないと言いたいのに、息しか出なくて返事ができない。利き手は相変わらず千冬に引っ張られているから文字を書くこともできない。
「悪かった。お前なら何言っても平気とか思って傷つくようなこと言って」
掴まれた手に力が入る。なんとか私の言い分も聞いてほしくて引っ張ると少しよろけてこちらを見る。とんとん、と手を軽く叩いて筆談させてほしい旨を伝えると、ゆっくり離される。
『千冬は悪くないよ。私だって汚い言葉たくさん言った。お母さんからどこまで聞いたか知らないけど、本当に大丈夫だから』
「大丈夫じゃねぇ。お前の声戻らねぇじゃん。……声、聞きてぇのに」
思わず千冬の顔を見た。私の声が聞きたいと、言ってるのだろうか。硬く握りしめられた拳には目もくれずペンを走らせる。
『声聞こえなくてもいいでしょ 千冬は私のこと嫌いなんだから』
「……嫌いじゃない。オレ、バカだから、ずっと意地張ってて。ダセェことしてるってわかってんのにずっとやめられなかったんだ」
真っ直ぐ私を見る目は少し潤んでいて。
「好きだ。ずっと好きで、なのに」
持っていたノートとペンが手から落ちていく。控えめに、だけどしっかりと視線が絡んで私は思わず千冬の両手を握った。
「っ、……、」
泣きそうな顔をしている千冬をなんとか慰めたくて、文字じゃなくて自分の声で伝えたいのに音にならない。
「本当にごめん」
頭を下げられてそんなことをしてほしいわけじゃないのに制止する術がなくてもどかしい。思わず千冬の手を離して両頬を掴んで自分に向けさせる。
「ち、……ふ、ゆ」
わずかに音になった声に反射でこちらを見る千冬。
「だい、じょ……ぶ」
ね、と笑って見せれば瞳が揺れた。ひと月ぶりの自分の声はちゃんと届いただろうか。とうとう泣き出してしまった千冬の涙をハンカチで拭ってから落としてしまったノートとペンを拾う。それを鞄にしまって、未だ泣き止まない千冬に帰ろうと袖を引っ張る。
「わり、ちょっと、待って」
手や袖で乱暴に目元を拭って深呼吸する。そうすることで落ち着いたのか、涙の後はあるもののいつもの強い瞳で見つめられる。
「好きだ。もう絶対悲しませないから、付き合ってほしい」
「は、い」
さっきも千冬からの気持ちは聞いたけど改めてしっかりと伝えられると、嬉しさと恥ずかしさで顔に熱があつまる。そんな私に向こうは恥ずかしげもなく可愛い、とか言ってくるものだから余計に照れるはめになった。*** あの後から千冬と口喧嘩することはなくなった。なんなら異様に過保護にもなった気がする。
「千冬、それくらい自分で持つよ」
「オレが持ちたいからいいんだよ。手が空いてんなら繋いでろ」
言い方がぶっきらぼうだけど繋がれた手は優しくてむずむずする。一度無理していないか聞いたけど、むしろ今までの方が無理をしていたと返ってきて驚いたのは記憶に新しい。
「ずっと聞こうと思ってたんだけどさ」
「なんだよ」
「お母さんと何話したの」
私の声が出なくなった時、原因は母から聞いたと言っていた。あの時は告白されたこととか声が少し出るようになったことが重なって聞けずじまいだったと思い出し、今ならいいかと問いかけると千冬は顔を真っ青にした。
「どうしたの」
「いや、アレは墓までもってくからお前にも言えない」
「何それ、私には秘密ってこと」
「可愛い顔しても教えてやんない これだけはマジでダメ」
ここ最近上目遣いに弱いことを知ったから実践してみたけどこれでも教えてもらえないらしい。だけどあの千冬が真っ青になるということは何かあったのだろう。
「いーよ、お母さんに教えてもらうから」
「な、ダメって言っただろ」
「聞こえなーい」
相変わらず手は繋いだまま言い合いをする。前までの罵り合いとかではなく、猫が戯れるようなくだらない争いだ。お互いが傷つくことのない言葉の応酬は心地良くて、こんな幸せがずっと続けばいい、なんて月並みなことを考えるのだった。
「簡単には家に帰さないからな」
「千冬が一緒にいてくれるならいいよ」
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