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◇ ◇ ◇
やっと、安らな寝息を立て始めた美幸の様子にホッとした沙羅は、布団を美幸の肩口までかけ直した。音を立てないように、静かに子供部屋をでる。
廊下にある腰高窓から見上げた暗い空には、切れそうなほど細い月が浮かんでいた。
明日の見えない不安が胸に押し寄せ、泣きたい気持ちになってしまう。
「母親なのに弱くて情けないわね」
細く息を吐き出し、寝室のドアをノックした。少しの間が空き、政志が内側からドアを開けた。疲れからか、少しやつれて見える。
「沙羅、美幸は?」
「やっと、眠ったわ」
「……そうか、悪かった」
そう言って、政志は部屋の中に促すように、ドアを広く開けた。けれど、沙羅は、ベッドのある寝室に政志とふたりきりになりたくなった。
「落ち着いた所で何があったのか話しを聞きたいわ。リビングに行きましょう」
リビングにある3人掛けソファーは、家族三人でインテリアショップに行って、あれやこれやと言いながら選んだ思い出のソファーだ。
楽しかった記憶が沙羅を切ない気持ちにさせた。そのソファーに腰を下ろす。
すると、政志はソファーには座らずに、神妙な顔つきで沙羅に向かって90度に頭を下げた。
「すまない。昨日、塾に片桐が現れて美幸に絡んだようだ。それで、俺と片桐が恋人同士だとか、片桐がママになるとかいろいろ言われたらしい。美幸がショックをうけているのも全部俺のせいだ。本当に申し訳ない」
「片桐さんが……」
心臓の音が、ドクンドクンと耳の奥で聞こえる。それに握った手が小刻みに震えていた。
全身の血が沸騰するような感覚というのは、こういう状態を言うのか……。
沙羅は、怒りで震える手を見つめていた。
ある日突然、優しかった父親の裏切りを知ってしまうのは、子供にとってどんなにキツイ出来事か。これまで信じていた父親像が消えて、違うモノに見えてしまうだろう。
たとえ離婚をしても美幸にとって、政志が一生涯父親であるのは揺るがない。だからこそ、美幸の前では優しい良い父親のまま居て欲しかった。
「政志さんが、どういうつもりで片桐さんと関係したのか知らないけれど、私を裏切り、美幸を悲しませ、家族がバラバラになっていく現実は、紛れもなく政志さんが引き起こし事なの」
「すまない」
少し前まで、政志は離婚をしても暫くして問題が片付いたら、また籍を入れて元通りの家族に戻れると思っていた。
けれど、美幸の軽蔑の目を向けられ、沙羅の静かな怒りを前に、取り返しのつかない所まで来てしまったのだ。
「美幸には行きたい学校があって、ずっと、頑張って来たのを政志さんも見ていたでしょう。大切な時期にどうしてくれるの⁉ 美幸を不安にさせて、悲しませて、いくら謝ってもらっても、絶対に、ゆるすことなんて出来ない」
◇ ◇
美幸の部屋のカーテンの隙間から、朝の光が漏れている。
いつもより、少し遅い朝の時間。
沙羅はベッドにそっと座り、美幸の様子を窺う。
「おはよう。どう? 起きれそう?」
「おはよう。うん、平気」
モゾモゾと動き、沙羅へと向けた美幸の顔は、昨晩泣きはらしたせいで、瞼が腫れている。
大人の事情に巻き込んだ挙げ句、辛い思いをさせてしまった事を申し訳なく思いながら、沙羅は美幸の頭を優しく撫でた。
「一昨日の塾のお迎え、遅くなってごめんね。もう少し早くお迎えに行けたなら、美幸が嫌な思いをしなくて済んだのに。大人の人に絡まれるなんて、怖かったよね」
「……お父さんから聞いたの?」
「そうよ」
沙羅の返事に、美幸は不満げに口をとがらせる。
「お父さんサイテーだよ。わたしやお母さんと一緒にいるための時間をあの女に使っていたんだよ。優しいフリして、悪い事していたのをごまかしていたんだ。ゆるせない」
帰りが遅い日、政志はおそらく片桐と会っていたのだろう。
それは、仕事だとウソをつき、家族で過ごすはずの時間を片桐に使っていたということだ。
塾の成績やその日あった出来事を、政志に話したいと思う美幸の気持ちをないがしろにされたのだ。
でも、美幸には、少しでも良い父親であったと思っていて欲しい。じゃないと、家族として3人で過ごしたすべての時間が、悲しい記憶に上塗りされてしまいそうだから。
「お父さんが美幸に優しくしたのは、何かをごまかすためじゃないと思うわ。美幸の事が大切だからよ」
「でも……、わたしやお母さんを裏切ってた……」
美幸の瞳が、涙でユラユラと揺れる。
信じていたはずの父親の裏切りを知ってしまった以上、もう一度父親を信じたいと思っても心が追い付かない。
「そうだよね、お母さんもそれがゆるせないの。美幸にも辛い思いをさせて、ごめんね。お母さん、お父さんと離れて暮らそうと思っているの。美幸も一緒に来てくれる?」
驚きのあまり、一瞬美幸の動きが止まる。
両親の離別という現実が美幸の心に影を落とした。
「……お母さんと一緒がいい。お父さんと居たら、変な女がママになるとか言っていて、ほんとヤダ。あんな人と家族とか耐えられない」
「あの人が美幸のママになる事は、絶対にないわ。大丈夫よ」
美幸は一昨日の出来事を思い出し細く息を吐き出す。
沙羅に知られてしまったのなら、隠す必要は無くなったのだ。
「あの人、意地悪い顔でニヤニヤしてサイアク。スマホで撮ったんだけど、スマホが穢れたかも」
「えっ⁉ スマホで撮影したの?」
「うん、途中からだったけど、なんだか危ない人だと思ったから」
「撮影した画像、お母さんに送ってくれる?」
「お母さん、そんなの見て大丈夫?」
沙羅は、美幸をギュッと抱きしめた。
自分が悲しみの中に居るのに、それでも母親を気づかう優しさに心が温かくなる。
何がなんでも美幸の事を守り抜くと沙羅は心に固く誓う。
「美幸と一緒なら、勇気100倍よ」
「じゃあ、あとで送るね」
「そのデータを弁護士の先生にお願いして、近づけないようにしてもらうから。新しく暮らす所も、変な人が入って来れないようなオートロック付きのマンションにしようね」
「うん」
美幸の精神的苦痛を理由に接近禁止の条項を追加して、片桐が近づけないようにしてみせる。
自分の欲望のままに、ひとつの家庭を壊し、美幸を泣かせた片桐を絶対にゆるさない。