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家を出ると決めたは良いが、実際に家を出る事が具体的になるにつれ、悩みが大きくなる。
美幸の通う小学校の学区の中で、セキュリティーのあるマンション。尚且つ、自分が払える範囲の家賃。
駅前にある不動産屋のウインドガラスには賃貸物件の情報が並んでいた。それを覗き込む沙羅の口からは、ため息が漏れる。
「やっぱり、高いのね」
慰謝料や財産分与があるとはいえ、将来を思えば出費は抑えたい。
沙羅は、ガックリと肩を落とし、トボトボと歩き出す。駅へ向かい電車に乗り込む。
今日は、採用が決まったハウスクリーニングの会社で、入社手続きがあるのだ。
訪問も2度目となると、いくらかリラックスして臨める。
「(株)limpieza de la casa」と書かれたドアを開けた。ライトオレンジの部屋に置かれた電話をコールすると「はい、株式会社limpieza de la casa受付です」と返事があった。
前回の訪問後にlimpieza de la casaがどんな意味なのか、気になって調べたら、スペイン語で「部屋の掃除」という、そのまんまの意味に笑ってしまったのは、ナイショの話しだ。
観葉植物が置かれたフロアに入ると、前回と同じく青木早苗が朗らかな笑顔で出迎えてくれた。
「今日は、雇用関係の書類にサインして、あとは仕事の流れなどの説明になりますね」
と、話を進めながら個別ブースに促される。
「まだ、設立して5年の新しい会社だから、風通しもいいし、働きやすいわよ。これからは、同僚として仲良くしてね」
「こちらこそよろしくお願いします。不慣れな事も多くご迷惑をお掛けすると思いますが、ご教授ください」
「わからない事があったら何でも聞いてくださいね。では先ずは雇用契約書から」
机の上に、書類が差し出され説明が始まった。すると、コンコンとノック音が聞こえる。
青木の「はい、どうぞ」という返事で扉が開く。
「同席していいかな?」と入ってきたのは、田辺俊司だ。
「社長、暇つぶしですか?」
青木が、片眉をあげ揶揄うような目つきで田辺を見る。
「暇じゃないよ。佐藤さんに担当してもらう予定のお客様を紹介しようと思っているんだ」
青木に説明すると田辺は、沙羅へ顔を向ける。
「佐藤さん、この後少し時間ある?」
田辺から急に話を振られ、沙羅は焦ってうなずく。
「は、はい、夕方まででしたら空いています」
「良かった。ご紹介する藤井様は、何かと忙しくてね。今日ならスケジュールが空いてるから、新人さんの顔が見たいっておっしゃって、せっかくだからお部屋も見せたいらしい。いきなりで悪いんだけど、一緒に行ってくれると助かる」
「はい、ご一緒させていただきます」
「あら、社長。藤井様を紹介されるんですか?」
青木の問い掛けに、田辺の長いまつ毛に縁どられた瞳が優しく弧を描いた。
「ああ、新人が入るとお話しをしたら、是非にとおっしゃられてね」
「佐藤さん、ラッキーね。藤井様はうちの上得意様よ。あっちこっちに投資しているお金持ちなの。でも、偉ぶらなくて、感じの良いお客様でね。本当に良かったわね」
青木は、沙羅に良い顧客が紹介された事を、まるで自分の事のように喜んでくれている。
不安の多い今だからこそ、温かみのある会社に入れて、良かったと沙羅は安堵した。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた沙羅に、田辺が思い出したように言う。
「あっ、そうだった、ひとつだけ確認ですが、佐藤さん猫は好き?アレルギーは大丈夫?」
「猫? 猫は飼ったことはありませんが、好きですよ。アレルギーもありません」
「良かった。でも、藤井様のお宅、猫が3匹も居るからお掃除が少し大変かも」
そう言って、田辺は心配そうに眉をひそめるが、沙羅はワクワクしていた。
「猫が居るんですね。楽しみです」
コンシェルジュが居るような高級マンションのエントランスホールを通るのは、沙羅には初めての出来事。見上げた天井には豪華なシャンデリア、足元はピカピカに磨き上げられた大理石の床、壁には高級そうな絵画が掛けられている。その雰囲気に圧倒されてしまう。
別世界のようなお金持ちの暮らし。
お金持ちと言って思い浮かぶのは、慶太の母親の高良聡子だ。
冷たく見下ろす瞳を思い出し、気持ちが萎縮して胃がキュッと痛くなる。
良さそうな条件に安請け合いしてしまったのではないかと後悔するも、仕事なのに、甘ったれな考えをしていてはいけないと、気を引き締めエレベーターに乗り込んだ。
最上階のスイッチを押した田辺は、何気なく沙羅の様子を窺う。すると、沙羅は緊張で顔がこわばせながら階数表示を見つめていた。田辺は、そっと声を掛ける。
「藤井様は、お金持ちでも気取らない方だから大丈夫だよ」
「は、はい、ありがとうございます」
「藤井様とは、大学の先輩の紹介で知り合ったんだ。うちの会社を設立するときも随分お世話になってね。藤井様が協力してくれなったら会社設立は、何年も遅れていたと思う」
「そんなすごい方のお宅のお仕事、私なんかで勤まるのでしょうか?」
聞けば聞くほど、自分では荷が重いのではと、不安になる。
「佐藤さんなら大丈夫だと思って紹介したのだから自信を持って! ちゃんと、バックアップをするから、わからない事は青木でも僕にでも遠慮せずに聞いてくれればいいよ」
田辺の力強い言葉にホッとして、沙羅は頬を緩ませる。
「ありがとうございます。大学卒業して以来、初めての仕事なので緊張してしまって……」
「今日は顔合わせだけだから、緊張しなくても大丈夫だよ。それに藤井様も佐藤さんと同郷のはずだから、気が合うと思う」
チンと到着のランプがついてエレベーターを降りる。
リゾートホテルのような廊下の先にある扉のインターフォンを押すと、「はーい」と声がして、ドアが開く。
投資家と聞いて、てっきりエリート銀行員のような気難しい男性が現れるのかと想像していた沙羅だったが、顔を見せたのは、40代半ばぐらいのショートカットがよく似合う小柄な女性だ。
「こんにちは、藤井様。本日はお忙しい中、お時間頂きましてありがとうございます」
ビジネスマンらしく田辺が頭を下げた。
「こちらこそ、暑い中お呼び立てしてごめんなさいね。どうぞおあがりください」
「先ずは、ご挨拶を。こちらが今度、弊社に入りました佐藤です。藤井様のお宅を担当させて頂く予定です」
「初めましてこんにちは、佐藤沙羅と申します。至らない点があるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
沙羅の名前を聞くなり、藤井は顔をほころばせる。
その笑顔を見た沙羅は、あれ⁉と思った。記憶の中に居る誰かに似ているような気がしたからだ。でも、その誰かが思い出せない。
「まあ、沙羅さんっておっしゃるの? 夏椿の別名だなんて綺麗なお名前ね。夏椿の花言葉は、”愛らしさ””はかない美しさ”だったかしら。あなたにぴったりだわ」
「ありがとうございます」
褒められる事に慣れていない沙羅は、恥ずかしさで熱を持った頬を手で押さえた。
「さあ、あがって頂戴。うちのコたちを紹介しないといけないわね」
白を基調とした広い玄関をあがると、藤井は、すぐそばにあるドアを開ける。
「この部屋の主たちよ。さびのコは『ゆかり』ハチワレのコは『ひろし』三毛は『のりたま』よ」
紹介された猫たちは、ニャーと返事をするとキャットタワーから飛び降り、藤井や沙羅の足元へスリスリと体を擦り寄せ甘えてくる。
沙羅は、猫たちの名前を覚えようと心の中で復唱した『ゆかり』『ひろし』『のりたま』と……。美幸のお弁当を作っている時に、よくお世話になっているふりかけのパックの絵柄が頭に浮かぶ。
たまらずに、ぷっ、と吹き出すと笑うのを止められない。
肩を震わせる沙羅に向かって、藤井がエッヘンと胸を張る。
「あら、気が付いたかしら⁉ なかなかのネーミングセンスでしょう?」
「このコたちは、藤井様が保護猫の施設から引き受けてきたんだ」
田辺も慣れているのか、のりたまを抱き上げた。
「どのコも可愛いでしょう。私の大切な子供たちなの」
と、藤井は愛おし気に猫たちを見つめる。
沙羅は、この人となら上手くやって行けるような気がした。
リバーサイドにあるマンション最上階からの景色は、東京とは思えないぐらいに視界が広く最高の景色だ。
20畳ほどのリビング正面の大きな窓からは、明るい光が降り注ぎ、部屋の中央にはアメリカンサイズのソファーがある。
そのソファーに腰を下ろし、仕事の内容の細かい打ち合わせを始めた。
平日の10時から16時の勤務で、藤井の希望は4LDKある部屋の掃除と猫の世話。
でも、既にロボット掃除機が部屋の中をクルクルと走りまわっていた。そのロボット掃除機上には遊園地のコーヒーカップよろしく、猫が乗車中でちょっと楽しそう。
そんな状態で掃除と言ってもどこを掃除するのか疑問が残るが、投資家として何かと人と会う用事が多い藤井は、留守の間も猫が心配なのだそうだ。
「出来れば仕事なんてしないで、家でこのコたちと遊んで居たいのだけれど、亡くなった主人から引き継いだ仕事だから、頑張らないと」
「藤井様は、僕らみたいな若手の事業支援をしてくれているんだよ」
と、田辺が補足してくれ、沙羅はうなずいた。
藤井は、目を細め楽しそうに語る。
「私たち夫婦には、子供が出来なかったけれど、自分の子供が成長していくのを見ているみたいでね。若い子たちを支援するのが楽しいのよ」
藤井にお別れを言って、マンションを出ると、沙羅は田辺に向き直る。
「田辺社長、ありがとうございます。安心して働けそうです」
「そう、良かった。これからも困った事があったら遠慮なく相談してください」
「……あの、会社に届け出を出したばかりで申し訳ないんですが、近々転居する予定です。決まりましたら連絡します」
早速で、ずうずうしいかと思ったが、雇用主である田辺には伝えておいた方が良い気がした。
沙羅の言葉に、田辺は「おや?」とした顔をする。
「引っ越すの?」
「はい。まだ、物件を探している最中で、なかなか条件に合う物件が見つけらないんですが、早めに家を出ないといけなくて……」
「うーん、急ぎか。マンションでいいんだよね。知り合いに聞いてみようか?」
「そんな……これ以上ご迷惑はお掛けできませんので、自力でどうにか探してみます」
「遠慮しなくても。こう見えても顔は広いから見つけられると思う。2.3日くれる?」
田辺の手を煩わせる訳にもいかないと、沙羅は胸の前で必死に両手を振る。
「これから不動産屋さんにも行ってみますので、大丈夫です」
「まあまあ、そう言わずに。情報は多い方が良いと思うよ」
物静かに見えて意外と強引な田辺を前に沙羅は白旗を上げた。
「はい……よろしくお願いします」
夜、美幸が眠った後で、沙羅はリビングにあるパソコンで賃貸物件のサイトを開いた。けれど、沙羅の出した条件では、物件が見つからない。予算にあう物件は築年数が35年や42年などで、レトロ感満載のキッチンやお風呂、セキュリティーにも問題ありだ。
「うーん、そもそも予算が厳しいのよね」
賃貸物件を借りると言っても、敷金礼金に前家賃、火災保険が掛かる。その他、家具に家電、カーテンなど諸々が必要で、とにかくお金が掛かるのだ。
迷惑を承知で田辺に物件を紹介してもらうしか、打つ手がなさそうな状態にため息しか出てこない。
「はぁ~。頑張らないと」
椅子の背もたれに寄り掛かり、グンっと大きく伸びをする 。
すると、玄関からカチャカチャと音が聞こえて来きた。
政志が帰って来たのだ。
美幸に合わせる顔がないのか、夜も遅いご帰還だ。
「沙羅……」
「あ、おかえりなさい」
政志は、沙羅の声にホッと、息をつく。
「ただいま。今日、弁護士から連絡が来て今週末に話し合いの席を設けるそうだ」
「そう……わかったわ。じゃあ、私の弁護士にも連絡して、弁護士さん同士で打ち合わせをしてもらうように頼んでおくわ」
そう言って、沙羅は政志から顔を背ける。
でも、 これから起こる事を想像した沙羅の口元は笑っていた。