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#そのじん
笑う門には福来る
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金曜日の19時、オフィス街の駅前。仁人は指定されたホテルのラウンジへと続くエレベーターの中にいた。
鏡に映る自分の姿はいつものくたびれたビジネススーツだが、胸の奥は不規則な鼓動を刻み続けている。
エレベーターが最上階に着き、重厚な扉が開く。
目の前に広がっていたのは東京の夜景が一望できる、洗練されたバーラウンジだった。
太「吉田さん、こっち」
声をかけられ振り返ると、そこには既に席に着き手招きする太智の姿があった。
前髪少しラフに崩されていて、社内の誰もが知る若手のエース塩﨑ではなく、完全に一人の垢抜けた男の佇まいだった。
仁「……お前、その格好」
太「一応、デートやからね。はい、吉田さん」
太智がスマートに椅子を引いて座るよう促してくる。
その自然な身のこなしに仁人は気圧されそうになりながらも、意地を張って腰を下ろした。
仁「…随分と背伸びした店選ぶんだな。」
太「今日は男としての査定やから、これくらいせんと合格点貰われへんでしょ?」
太智は悪戯っぽく笑いながら運ばれてきたシャンパングラスを仁人の前に滑らせた。
きめ細やかな泡が夜景の光を反射してきらきらと輝いている。
乾杯を交わし、少しアルコールが回ってきた頃。
太智はグラスを傾けながら、じっと仁人の顔を見つめてきた。
いつものオフィスでの視線とは異なり、酷く熱く、真剣な眼差し。
仁人はいたたまれなくて、態とらしく夜景へと目を向けた。
仁「……何だよ、人の顔ばっかり見て」
太「いや…今日の吉田さん、いつもより隙だらけやなぁと思って」
仁「は? どこがだよ」
太「だってさっきからずっと俺のこと直視できひんし。耳、めちゃくちゃ赤い。……会社では上司なのに、今はただの、可愛い人」
太智の声が一段と低く耳元に滑り込んでくる。
ふわりと香るコロンの匂いに仁人の脳内が一瞬で沸騰した。
仁「お前……調子に乗るなよ。まだ付き合うって決めたわけじゃ…」
太「分かってる。だから、ここからが本番」
太智はテーブルの上で、そっと仁人の左手に自身の掌を重ねた。
指先が手の甲をゆっくりと愛撫するように這う。
人目の多いバーであるにもかかわらず、その大胆な接触に仁人は声を殺して身を硬くした。
太「今日の夜、吉田さんの時間全部俺に頂戴。絶対に、後悔させへんから」
向けられたのは底知れない自信と独占欲が混ざり合った、大人の男の微笑みだった。
仁「……っ、公共の場だぞ」
重ねられた太智の手の熱に仁人は顔を火照らせながら、逃げるようにその手を引き抜いた。
グラスを掴む指先が僅かに震えている。
太「大体、こんな気取った店でシャンパンなんか飲ませて、俺を丸め込もうなんて百年早いんだよ」
冷ややかな声を意識して、仁人は残りの酒を煽った。
ここで流されたら負けだ、という上司のプライドが必死に警報を鳴らしている。
だが変に緊張しているせいで、いつもよりずっと酒の回りが早いことには気づいていなかった。
太「あはは、ほんまに手厳しいなぁ。でも、そういう意地張ってるところも、めちゃくちゃ唆る」
太智は余裕の笑顔で受け流し、仁人のグラスが空く絶妙なタイミングで、次のアルコールをスマートに注文していく。
それから数時間後。
仁「……う…?塩﨑、なんか、床が揺れて……」
太「揺れてへんよ。吉田さん、完全に飲みすぎ」
席を立とうとした瞬間、仁人は膝から力が抜けて視界がぐにゃりと歪んだ。
倒れそうになった仁人の身体を太智はガシッと横から抱きとめる。
太「ほら、言わんこっちゃない。上司の査定、これで終わり?」
仁人の焦点は上手く合わなかった。
太智はそんな仁人のバッグを片手で持つと、もう片方の腕で仁人の腰をほぼ抱き抱えるようにして店を出た。
冷たい夜風に当たると、仁人は余計に頭がぽわぽわとして、思考までもふわふわとしていた。
覚束無い足取りのまま、太智が呼んだタクシーにそのまま乗り……気付けば太智の家のソファに深く沈み込んでいた。
いつの間に。
今の仁人にはしれっとお持ち帰りされたことに抗議する思考なんて持ち合わせていない。
アルコールで脳が甘く痺れ、いつものような言葉がどうしても出てこない。
仁「……お前、ずるい……」
仁人はクッションに顔を埋めたまま、小さな声を零した。
太「仕事もできて、こんな店も知ってて。……俺がどれだけ振り回されてるか、分かってんのかよ。こんなの惚れない方がおかしいだろ…」
お酒の力で完全に余裕をなくした弱音混じりの言葉。
その瞬間、太智の動きがピタリと止まる。
いつも余裕を崩さなかった有能な部下の顔が、驚きとそれから狂おしいほどの愛おしさに激しく歪んだ。
太「……吉田さん、それ反則。酔った勢いでそんな可愛いこと言うとか、まじで聞いてへん」
太智の手が、仁人の眼鏡を優しく外してローテーブルに置く。
遮るもののなくなった至近距離。
仁「喉渇いた……。水、……」
熱を持った息を吐きながら仁人が呟くと、太智は「待ってな」と告げてからキッチンから水の入ったグラスを持ってきた。
仁人がそれを受け取ろうと手を伸ばしかけたが、太智はその手を制し自らグラスの水を口に含んだ。
仁「……?」
次の瞬間、首をこてりと傾げる仁人の顎を太智の手が優しく、けれど拒めない力強さで固定する。
そのまま影が重なり唇が強く押し付けられた。
仁「んっ…!…ぅ、ん……」
目を丸くして驚く仁人の唇の隙間から、ひんやりとした水が滑り込んでくる。
喉がゴク、と鳴り、水を全て飲み干させられるのと同時に、太智の熱い舌が滑り込んできて、口内を深く蹂躙するように貪り始めた。
さっきまでの冷たさが一瞬でドロドロとした熱に変わる。
鼻にかかった甘い吐息を漏らす仁人の腰を太智は強く抱き寄せた。
そのまま太智の手はシャツのボタンを器用に開け、仁人の熱い肌へと直接滑らせる。
仁「っ、あ……や、め……っ…」
酔いと焦りでパニックになりながら、服の上からでも伝わる、太智の独占欲とその熱量が怖かった。
まだ付き合ってもいないのに、流されてしまって良いのか。
太「……っ…」
仁人の瞳に浮かんだ涙を間近で見た瞬間、太智の動きがピタッと止まった。
太智の荒い呼吸が仁人の首筋にかかる。
肌を撫でていた手は離れ、代わりにギリッ…と音を立ててシーツを掴んだ。
そして太智は頭を抱えるようにして、仁人の身体からゆっくりと退いた。
シャツの胸元をはだけさせたまま呆然とする仁人の横で、太智はソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げて深く息を吐き出す。
その横顔は必死に湧き上がる欲望を抑え込もうと男らしく歪んでいた。
太「……あー、まじで危なかった。これ以上は、ほんまに理性が持たへん」
太智は少し掠れた声で呟くと仁人の方を向き、乱れた仁人のシャツのボタンを一つずつ丁寧に留め直していった。
その手つきは驚くほど優しかった。
太「俺、ずるいことして合格点もらいたなくなった。ちゃんと、一人の男として認められて、付き合ってから……最後まで、全部もらいに行くから」
それは一人の男としてのプライドと仁人を大切にしたいという強い意志がこもった、真っ直ぐで男らしい微笑みだった。
太「だから今夜は、これでお預け。…ちゃんと俺我慢するから、一つだけお強請りしてもええ?」
仁「……なんだよ」
太「太智って呼んで?」
仁「…………だいち」
太「っ……嬉しい、ありがと吉田さん」
仁「ん……」
太「ほら、吉田さん眠いやろ?お布団貸すから寝ていいで」
幸せそうに微笑む太智の男気と優しさに触れ、仁人はお酒の熱とは違う熱さで胸をいっぱいにしながら、こくりと小さく頷くのであった。
あの金曜日の夜から、週末を挟んで迎えた月曜日の朝。
仁人はいつになく緊張した面持ちでオフィスのデスクに向かっていた。
仁(……あいつ、今日どんな顔して出社してくるんだ…)
あの夜、理性を総動員して踏みとどまってくれた太智の男らしさに、仁人は完全に心を撃ち抜かれていた。かつ、酔いもあり、太智に強請られるがままに下の名前を素直に呼んでしまったのを思い出しては、今更になって顔が熱くなる。
太「吉田さん、おはようございます。今週の進捗管理表です」
不意に上から降ってきた声にドキリと心臓が跳ねる。
見上げるといつも通りパリッとしたスーツを着こなした太智が優秀な部下の顔をして書類を差し出していた。
仁「あ、あぁ……。おはよう、塩﨑。……ありがとな」
仁人が書類を受け取ろうとした、その時。
他の社員の死角になるパーテーションの影で、太智がそっと自分のスマートフォンを仁人のデスクに滑らせた。
画面にはメモアプリが開かれており、そこには『うっかり、だいちって呼んだらあかんで?2人きりの時だけな』と書かれていた。
仁人は一瞬で顔を耳の根元まで真っ赤に染め、太智をキッと睨みつける。
太智はそれを見て、口元だけで悪戯っぽく、けれどどこか熱を孕んだ笑みを浮かべ、さっと自席へと戻っていった。
会社では上司と部下の距離を完璧に保ちながらも、二人だけの秘密を共有しているような距離感。
仁人の心が完全に堕ちるまで、あとほんの少し。
その日の午後、他部署との大きな合同ミーティングの席でのこと。
そこには神崎も出席していた。
神崎は休憩時間になるとすかさず仁人の隣を陣取ってきた。
神「仁人、今日の夜さ、先週のリベンジ行こうぜ。今度は邪魔者なしで、二人きりでさ」
神崎の手が、当然のように仁人の肩に回る。
仁「神崎、俺……」
仁人が困惑して身を引こうとした、その時だった。
太「神崎さん、それなら自分が吉田さんの代わり行きます」
割って入ってきたのは、資料を抱えた太智だった。
先週の居酒屋での修羅場とは違い、今の太智の目は驚くほど冷静で大人の余裕に満ちていた。
神「塩﨑くん、これは仁人へのプライベートの誘いなんだけど」
太「分かってます。でも、吉田さん、今週は新規プロジェクトの決裁でめちゃくちゃ忙しいんです。これ以上、上司に無理な付き合いをさせて負担をかけるわけにはいません。……部下として、吉田さんの体調管理も俺の仕事なんで」
太智はそう言って、神崎の前に一歩踏み出し、仁人を背中で庇うようにして神崎の視線を完全に遮った。
その背中は、驚くほど広くて頼もしかった。
会社での立場を弁え、決して感情的に怒鳴るのではなく、優秀な部下としての正論を武器に完璧に神崎を退けてみせたのだ。
神崎は太智のその揺るぎない態度と隠しきれない男としての強さに気圧され、「……そっか。じゃあ、またな」と肩をすくめて去っていった。
神崎が去り、誰もいなくなった会議室。
窓の外には夕暮れが広がっている。仁人は自分の目の前に立つ部下の背中を見つめていた。
仁「……塩﨑」
太「さすがに生意気過ぎたかなぁ」
振り返った太智はいつものへらへらとした笑顔に戻ろうとしていた。
だが、仁人はもう自分の気持ちに嘘をつくのをやめた。
会社での立場を守りつつも、誰よりも自分を大切に、何より男らしく守ってくれた太智の姿が、仁人の心を完全に溶かしていた。
仁「……いや、ありがとな」
そう言って仁人は一歩、太智との距離を詰めた。
いつもは太智に詰められる側だったというのに。
太「吉田さん……?」
驚いて目を丸くする太智のワイシャツの胸元を仁人は少し強い力でぎゅっと掴んだ。
真っ赤になった顔を隠すように太智の胸に額を押し付ける。
仁「……もう、査定は終わりだ」
太「へ?」
仁「お前が…ずるいくらい仕事もできて、男らしくて、俺のこと大切にしてくれるの、痛いほど分かったから。……だから、もういい」
仁人は小さく息を吸い、太智の胸元を掴む手にさらに力を込めて、その名前を呼んだ。
仁「……付き合ってやるよ、太智」
静まり返った会議室。
一瞬の静寂の後、太智がハッと息を呑む音が聞こえた。
次の瞬間、太智の逞しい腕が、折れそうなほど強く仁人の身体を抱きしめた。
いつも余裕たっぷりだった太智の心臓が、鼓膜が痛くなるほどの音を立てて波打っているのが伝わってくる。
太「……まじで? 嘘やないよね、吉田さん」
歓喜に満ちた表情で、愛おしさに満ちた声色で名前を呼ばれ、仁人は胸の奥が熱くなるのを感じながら、太智の背中にそっと手を回した。
仁「嘘じゃない。……でも、会社では絶対秘密だからな…!」
太「分かってる、分かってるって。あー!もう今日の残業、絶対頑張られへんわぁー!」
抱きしめる力を更に強めながら、嬉しそうに嘆く恋人に、仁人は「上司命令だ、働け」と言いつつも、溢れる幸せを隠しきれずに笑みを零すのであった。
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