あの日―――
6月18日。
来年の春から秋にかけての行楽シーズンの打ち合わせに、福島の旅館への出張が入っていた。
祐樹は一泊二日の準備をすべく、スーツケースに着替えや洗面具を入れた。
出張の多い業界だ。準備は慣れていた。
しかしその日は、自分だけの準備だけではなく、彼の準備もしなければならなかった。
「―――できるだけ早く帰ってくるけど」
高齢者用のSSサイズの夜用紙パンツに、スーパーナイトという夜用パットを当てながら、祐樹は彼の耳に囁いた。
「いい子で待ってるんだよ……?」
「―――」
彼は無言だった。
「物音も声も出しちゃいけないよ」
彼の見えない目をなぞる。
恐怖のためか、
それとも祐樹が暴行の末に切ったアキレス腱が痛むのか、
彼は何度も小刻みに頷いた。
だんだん汗の匂いがきつくなってきた。
子供は往々にして臭い。
祐樹はため息をついた。
明日帰ってきたら彼を風呂に入れてやろう。
そう。
母親の目を盗んで……。
祐樹は立ち上がった。
「あれ?止まったと思ったのにな」
脇に置いてあったウェットティッシュを引き出し、彼の血が垂れてきた鼻を拭い、ティッシュを千切って鼻孔に入れ、鼻筋の付け根を指で圧迫する。
「血が詰まって窒息でもしたら大変だ」
「………………」
昨日、少し反抗的な態度をとったので、顔が腫れあがるまで殴った。
その際に吹き出した鼻血が、完璧に止まり切っていなかったらしい。
「よし。―――止まったかな?」
圧迫していた指を外し、汗と皮脂と乾いた血でベタつく頭を撫でた。
「―――じゃあ、行ってくるね」
祐樹は立ち上がった。
下半身にはオムツのみ。
上半身は血のシミがいくつもついたTシャツ。
目には目隠し。
口には口枷。
後ろ手に拘束バンド。
指は念のため全部折ってある。
足首にも拘束バンド。
アキレス腱は断裂させてある。
それでも―――。
今まで迎えた少年たちは、祐樹が出張すると決まって逃げ出していた。
本当に不思議に思う。
どうやって逃げるんだろう。
祐樹は首を捻った。
そして逃げたなら、
なぜ両親や警察を連れて、裕樹を捕まえにこないんだろう。
◇◇◇
出張には、自家用車で行く場合と、公共交通機関を使う場合と二パターンあった。
前者の場合は会社のガソリンカードと、ETCカードを使ってよかったが、自家用車の走行距離が伸びてしまうのが祐樹は納得いかなかった。
それであれば、全てに領収書をもらい、後から交通費を請求する公共交通機関を使う方が楽だった。
今回も後者を選んだ祐樹は、徒歩10分のバス停で、市営バスを待っていた。
「―――あ」
忘れていた。
鼻の穴にティッシュを突っ込んだままだった。
腕時計を見る。
新幹線の時間を考えれば、バスの時間を一つずらしても間に合う。
祐樹は列から抜け出し、小走りで自宅に向かった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
思い出した―――。
あの日、自分が見たものを。
そして、自分が下した決断を。
祐樹は目を開けた。
先ほどまで黒い影のように見えた自分は、スーツ姿に戻っていた。
「―――――?」
バス。
長距離バスだ。
そうだ。あの時祐樹は家に帰ったあとバス停に戻って、予定通り出張先で仕事をして、予定通り一泊して、そして予定通り帰途についた。
これからのことを考えて、旅館では一睡もできなかった。
だかバスに揺られた途端、眠気が来て……。
――――?
バスを降りた記憶がない。
悪寒が走り、祐樹は背筋を伸ばした。
このまま、死ぬのか?
バスを降りずに?
真っ黒に染まった自分の姿を思い出す。
あれは影だったのではなく―――
丸焦げだった……?
―――このバス、もしかして事故るのか……!?
『―――次は、梨里駅に停まります。お降りの方はボタンでお知らせくださいますよう、お願いします』
運転手の声が響いた。
――――早く降りなければ……!
祐樹は必死で手を伸ばした。
―――このバスごと、俺は死ぬ……!!
ピンク色のボタンが光る。
前に座っていた30代くらいの夫婦がため息をつく。
「……いよいよ、このときが来たな」
夫の方が小さく言うと、妻も頷いた。
「会社の休みは取れそう?」
「ああ。前々から話しているし、いつプロジェクトから抜けてもいいように準備してある。あとは介護休業の申請をするだけだ」
「そうよかった。こっちも大家さんに話はついてるから、もう明日にでも来れるわ」
「――そうか。よかった」
全くよかった空気ではない2人は、また同時に重いため息をついた。
「………近くにいてあげよう。智司(さとし)のそばに―――」
「うん……」
『―――梨里駅に着きました』
バスが停まり、祐樹は慌てて立ち上がった。
先ほどまで眠っていたせいか足がよろけるが、左右の座席に手をつきながら前に進む。
やはり何度反芻してみても、あの日―――
6月19日、バスに乗った記憶はあるが、降りた記憶はない。
さっきみたいに微睡んで――――。
そしてきっとこのまま事故に……。
金を払いながら運転手の顔を見る。
その顔はどこかうつろで、息を深く吸い込みながら目を擦っている。
居眠り運転。
事故。
炎上。
祐樹は座席を振り返った。
乗客はざっと10人と言うところだろうか。
さきほど前に座っていた夫婦が手を握り合っている。
今ここで自分が、
「このバスは事故に合うから、皆さん下りてください!」と言えば、救われる命があるかもしれない。
そうでなくてもこの眠たそうな運転手に、
「眠そうですね。運転には気を付けてくださいね」
と声をかけるだけでも、事故は回避されるかもしれない。
自分の一言で、この人たちの命を――――。
祐樹は口の端で笑った。
―――まいっか。どうでも。
祐樹は思い直すと、スタスタと階段を下り、バスから降りた。
◇◇◇◇◇
電車と新幹線を乗り継ぎ、大宮駅についた。
新幹線の待合室にあった大型テレビで、やはり先ほどのバスが橋から転落し、乗員乗客合わせて11名が死亡したというニュースを観たときも、裕樹は何も思わなかった。
ただ、
あの若い夫婦は手を握りあいながら死んだだろうか?
そんなくだらないことだけ考えていた。
西口から出て、遊歩道の上で、青空を見上げる。
さて。
自分には大きな仕事が残っている。
ここからタクシーで15分。さいたま市中央区に祐樹の自宅はある。
20年前に父が立てた4LDK。
今の名義は聡子だが、こうなった以上、自動的に自分のものになるだろう。
自宅には―――。
聡子と彼の死体が転がっている。
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