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『少しずつ、近づく気持ち』
春休み明けの朝、姫那は学校の門をくぐるたびに胸が高鳴った。
昨日の放課後、翔と一緒に帰った時間が頭から離れない。
教室に入ると、翔はすでに自分の席に座っていて、ちらりとこちらを見た。
その視線に、姫那は思わず顔を赤らめる。
「おはよう、姫那」
翔の声はいつも通り穏やかで、でもどこか優しさが滲んでいた。
「おはよう、翔くん」
二人の間に自然な空気が流れ、姫那は少しずつ心の壁が溶けていくのを感じた。
国語の授業中、先生が黒板に漢字の問題を書きながら説明している。
姫那はノートに字を書く手が震えているのに気づいた。
少し緊張している自分を感じながら、隣の翔を見る。
翔は淡々とノートをとっていて、時々窓の外を見ている。
まるで教室の空気とは違う場所にいるみたいだった。
そんな時、不意に翔が小声で言った。
「この漢字、ここは‘音’じゃなくて‘恩’だよ。」
姫那はびっくりして顔を上げる。
「え……ほんと?」
翔は軽くうなずいた。
「うん、俺も最初間違えたけど、先生が言ってた。」
「ありがとう……助かった。」
その瞬間、姫那の心がほんの少しだけほぐれた。
翔がそっと手を差し伸べてくれたみたいな気持ちになった。
その日、姫那は少しだけ自分に自信を持てた気がした。
翔との距離も、前より近づいたような気がした。
放課後、駅へ向かう道。
姫那の足取りはいつもより重かった。
ふと、前から歩いてくる二人の女子と目が合った。
見覚えのある顔――中学の時、姫那をいじめていた人たちだった。
「やあ、姫那ちゃん。久しぶり〜」
一人が不敵に笑いかける。
姫那は心臓がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
目をそらして、そのまま足早に通り過ぎようとしたけれど、
「変わってないね、あの頃のまま」
もう一人が冷たく言った。
翔は姫那のすぐ隣にいて、その言葉を聞いて顔をしかめた。
「大丈夫?」と、翔はそっと声をかける。
姫那は震える声で、「うん、大丈夫」と答えたけれど、心の中はざわついていた。
駅のホームに着くまで、姫那は翔に何も言えなかった。
駅のホームはまだ春の夕暮れの空気を引きずっていて、少し肌寒かった。
列車の到着を待つ間、姫那はずっと俯いていた。
翔は何も聞かなかった。
でも、その沈黙が姫那にはありがたかった。
言葉じゃなくて、ただ隣にいてくれることが、どれほど救いになるかなんて、誰にもわかってなかった。
でも翔は、何も言わずにただ立っていた。
それだけでよかった。
「……さっきの人、中学の時の知り合い。」
ようやく口を開いた姫那に、翔はゆっくり頷いた。
「……話したくなかったら、話さなくていいよ。」
その言葉に、姫那の目の奥がじんわり熱くなる。
誰かに「無理に話さなくていい」なんて言われたの、いつぶりだろう。
「ありがとう、翔くん……」
電車がゆっくりとホームに滑り込んできた。
乗り込むとき、姫那の指先がかすかに翔の手に触れた。
それは偶然だったかもしれない。
でも翔は、何も言わずにそのまま手を引いたりしなかった。
ただ、静かに立っていた。
優しさの温度だけを、残して。