テラーノベル
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嵐が去った後の会場は、ひどく寒々しかった。
あんなに熱狂していた観客も、スクープを追う記者たちも、警察に連行される蓮を追って去っていった。
残されたのは、無残に黒く焦げ付いた鉄板と、立ち上る異臭の残り香だけ。
僕は一人、劇場の隅でコックコートを脱ぎ捨てた。
「カナタ」という偽りの皮を脱ぎ捨てるように。
右手のグローブはもう、嵌める必要がない。
剥き出しになった火傷の痕は、冷たい夜風にさらされて、かつてないほど穏やかに疼いていた。
「……終わったんだな」
ポツリと独り言が漏れる。
復讐を果たせば、もっと燃え上がるような達成感があると思っていた。
けれど、胸の中にあったのは、深い、深い、凪のような静寂だった。
あいつはすべてを失った。
地位も、名声も、そして「料理人としての尊厳」も。
全国放送で流れたあの醜態と犯罪の証拠は、一生彼を追い詰め続けるだろう。
あいつが僕に与えた「火傷」以上の痛みを、彼は一生、檻の中で噛み締め続けることになる。
僕は会場の外へ出た。
夜の街は、何事もなかったかのように煌びやかだ。
スマホのニュース画面には、すでに『天才シェフ、衝撃の逮捕』という見出しが躍っている。
SNSでは「ざまぁみろ」「詐欺師の末路」という言葉が、激流のように流れては消えていく。
あいつを祭り上げ、そして手のひらを返して叩き潰す大衆。
結局、彼らも「味」なんて見ていなかったのかもしれない。
ただ、刺激的な物語を消費したかっただけ。
僕の復讐劇もまた、彼らにとっては一晩のエンターテインメントに過ぎないのだ。
僕は歩き続け、少し離れた公園のベンチに座った。
カバンの中から、一冊の古いノートを取り出す。
蓮の事務所から回収してきた、僕の本当のレシピノートだ。
ページをめくると、あちこちに汚れや、蓮の汚い字での書き込みがある。
僕の夢が、情熱が、そして憎しみが詰まった一冊。
僕はライターを取り出し、そのノートの端に火をつけた。
「……さよなら、湊」
炎は、嘘にまみれた言葉も
僕の苦しみも、すべてを等しく灰に変えていく。
このノートがある限り、僕は「被害者」という檻から出られない気がしたから。
灰が風に舞い、夜の闇に消えていく。
手元に残ったのは、もう何も書かれていない、まっさらな未来だけだった。
「…………」
ふと、お腹が空いた。
復讐のために味覚さえ武器にしていた数年間、僕は自分のために料理を作ったことが一度もなかった。
僕は立ち上がり、駅前の小さなスーパーへ向かった。
どこにでもある安価な食材をいくつか買い、ボロアパートの狭いキッチンに立つ。
包丁を握る。
右手はまだ少し震えるけれど、もう、恨みで震えているんじゃない。
玉ねぎを刻む音が、トントントンと心地よく響く。
フライパンの上で、バターが黄金色に溶けていく。
立ち上る湯気の中に、復讐の毒はもう入っていない。
ただ、お腹を空かせた自分を満足させるための、純粋な料理の匂い。
「……いただきます」
一口食べたそれは、驚くほど優しくて、少しだけ塩辛かった。
頬を伝った一滴が、ソースに混ざったせいかもしれない。
僕は、これからどう生きるか決めていない。
顔も変え、名前も捨てた僕に、帰る場所なんてどこにもない。
けれど、この右手があれば、また一から「自分の味」を探すことができる。
次に作る料理は、誰を騙すためでも、誰を壊すためでもない。
ただ、美味しいと笑ってくれる誰かのために。
僕は静かに、最後の一口を飲み込んだ。
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