いつもなら声をかけることなんて絶対にしないのに、あの日あのときベンチで項垂れている彼を見て、声をかけずにはいられなかった。
「あ、あの…」
「……」
「大丈夫ですか?」
「…あ、はい」
顔を上げた彼の長い前髪から覗いた、黒曜石のような黒い艶やかな瞳を見てゾクリとした。
「水……飲みますか?」
「…はい、助かります」
そう言って差し出したペットボトルに手を伸ばすと、彼の腹の虫が盛大に鳴いた。
「…えっ…あ…ふふっ」
「いやぁ、お恥ずかしい…」
「水より食べ物の方がよかったかしら?」
「あ、いえいえ、水で大丈夫です」
はにかんで言うとペットボトルを受け取って水を飲んだ。
「何か随分と悩んでいるようだったけど?」
「え?…ああ、そんな風に見えました?」
「ええ、私でよかったら話しを聞くけど」
「ありがとうございます。とはいっても大したことではないんです」
そう言い置いて彼は話してくれた。
仕事がプツリと無くなってしまいここ何日も何もしない日々を送っていたそうだ。
「それはそれで羨ましいけど…」
「忙しい方が時間があっという間に過ぎますし、余計なことを考えずに済むと思うんですよね」
「…確かに」
「暇だとどうしても…色々と考えてしまって…」
「それで項垂れていた、と」
「はい」
そこでまた腹の虫が鳴いた。
「あははははっご飯食べてないの?近くにラーメン屋があるから一杯奢ろうか?」
「そ、そんな!申し訳ないですよ」
「いいのいいの!たった数百円でしょ?気にしないで」
そう言って無理矢理彼をラーメン屋に引きずり込んだ。
いつもならこんなことはしない。
見ず知らずの、それも男性を自分から誘うなんて。
きっと、彼の顔がタイプだったからだろう。
それと、あの黒曜石のような瞳から目が離せなかったせいだ。
どういう経緯でそうなったのか正直よく覚えていない。
気がつけば彼を自宅に招き入れていた。
一夜を共に……、なんてうまい話しは無く彼はソファーで私は自分のベッドで眠った。
「おはようございます」
「おはよ。え…これ」
「すみません。勝手に台所を使ってしまって…」
「いや、それはいいんだけど…」
ハムエッグに、厚切りのトースト、そして、紅茶。
それが実に綺麗に上品にテーブルの上に並べられていた。
「料理は得意なんで、これぐらいしかお返しが出来ないんですが…」
「ううん!すっごい嬉しい!」
そう言って椅子に座ると焼きたてのトーストにかじりつく。
いつも自分が食べている物なのに、数段美味しく感じられた。
不思議だ。
「…あの、あのね」
「はい」
「料理が得意なら、今晩、ハンバーグとかお願いしても…いい?」
「はい」
彼は満面の笑みで頷いてくれた。
「ハンバーグは得意料理の一つなので、ぜひ、作らせて下さい」
「こちらこそ、お願いします」
わざとらしく互いに頭を下げて、そして、笑い合った。
「じゃ、これハンバーグ資金」
私は財布から一万円札を取り出して彼に差し出す。
「え、いいんですか?こんな奴に…」
「いいの!私が食べたいってリクエストしたんだし」
「しかし」
「それに、お金あるの?」
「……」
「ね?だから、これでうんと美味しいもの作ってくれる?」
「わかりました」
彼は両手で、恭しく一万円札を受け取った。
結婚なんてロクなもんじゃない。
世の中の男なんてロクな奴がいない。
そう思っていたのが嘘のよう。
そして、美味しいハンバーグが待っていると思うと不思議と仕事の効率も上がる。
「今日は機嫌がいいんですね」
なんて後輩から言われる。
ああ、そうなの。
今日は本当に久々に気分が良い。
家に帰る足取りがこんなにも軽いのはいつぶりだろうか。
「ただいま」
「おかえりなさい」
エプロン姿の彼が出迎えてくれて、部屋中に美味しい香りが漂っている。
「もう匂いだけで美味しいってわかる」
「そうですか?」
「楽しみ!」
「では、すぐ用意しますね」
テーブルの上に鎮座する綺麗に形成されたハンバーグ、シーフードサラダ、まんまるのプチパンが二つ。
まるでどこか有名レストランのディナーのような洗礼されたものを感じた。
「すごい!センスがいいのね」
「いえいえ、単なる度が過ぎた完璧主義なだけです」
「そう?」
「さ、座って下さい。ハンバーグに合う赤ワインも用意しましたよ」
「やった!」
ハンバーグは美味しいの一言で片づけられないほど美味しくて、きっとこれから先どこのハンバーグを食べてもこのハンバーグに勝る物は無いと思うほどだった。
彼は大袈裟だと言って照れたように笑い、でも、どこか嬉しそうだった。
色んな話しをしたと思う。
どうして料理がこんなに上手なのか、仕事は何をしているのか、恋人はいるのか、いつまでここにいてくれるのか、ワインを傾けながら本当に多くのことを語らった。
「そういえば」
夕食の後片付けを済ませた彼がソファーに腰を下ろして口を開いた。
「なに?」
「夕方、人が来ましたよ」
「え…」
「森さんの旦那さんだと言っていましたが…」
「会ったの?」
「いえ、私がいるとわかると何か不都合があると思って、居留守を使わせていただきました」
「そう、良かった…」
「ご結婚されていたんですね」
「ううん」
私は全てを否定するように首を大きく横に振った。
「二年前に離婚しているの。だから、正確には元夫、ね」
「そうだったんですか。玄関に向かって何やら怒鳴っているようでしたが…今回が初めてではないんですよね?」
「ええ…月に何度か…再三警察にも相談しているんだけど、全然埒があかなくて困ってるの」
「それは大変ですね」
「昔はあんな人じゃなかったんだけど、いつからか「俺の稼いだ金なんだから」と言ってエアコンとかスマホとかテレビとかあの人の許可が無いと使わせてもらえなくて」
「それはひどい」
「ついにはお水まで、「俺に許可も無く水を飲むな」とか言い出して、それでああもう、この人とは一緒に生活できないってなってほとんど逃げるような形で離婚をしたの」
「なるほど」
「同じ県内にいるとダメね。すぐ見つかってしまう…ここも…引っ越さないとダメかな…」
会社から近くて便利が良かったんだけどなぁ、と独り言のように呟く。
「………」
「ああ、ごめんなさい。こんなつまらない話しをして」
「いえ、大丈夫です」
「はぁ…でも、久々に幸せを感じられたなぁ」
その言葉を聞いて、彼は首を傾げる。
「美味しいご飯に美味しいワイン。そして、男前がいるんだもの、すっごい贅沢」
「あはははっ男前は言い過ぎだと思いますけどね」
「そう?でも、今はとっても幸せ…」
そして、欠伸を一つこぼす。
「寝るのならベッドで寝て下さいね」
「…うん、そうする。じゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
翌朝、テーブルの上に鎮座した朝食と昨日のお釣りとレシートを残し、彼は消えた。
「残念。連絡先とか、聞いておけばよかったなぁ」
朝食を食べながら、そんなことを呟く。
美味しい朝食。
なんだか朝から元気になれそうだった。
「あれ?」
家を出る前、玄関に置かれている空の瓶を見つける。
「私…”最近、ワインなんて飲んだっけ?”」
目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。
「こ、ここは!?」
学校の体育館のような広い空間。
しかし、床は板張りではなくコンクリートがむき出しの状態。
よく見れば、壁際に埃を被った棚や何かを作る機械が無造作に置かれていた。
おまけに自分はパイプ椅子に座らされ、手足を拘束されていた。
「おはようございます」
声が聞こえて振り向けば、そこには一人の青年が立っていた。
その青年に見覚えがあった。
「お、お前は…裕美と一緒にいた奴!!お前、裕美の恋人か!?」
「いいえ。ラーメンを奢って頂いて、一晩、寝るところを提供してもらっただけですよ」
「やったのか?裕美と」
「そんなゲスな質問しないでください」
青年はあからさまに嫌そうな顔をして見せた。
「うるせぇ!やったんだろ!?」
「やってないと言っても、信じないと思うので想像にお任せしますよ」
そう言いながら背後に回る。
「くそ!やっぱりいたたたたたた!!!何!何すんだよ!!」
突然の激痛に驚きを隠せなかった。
「え?爪を剥いだだけですけど?」
青年はキョトンとしか顔で言う。
「いやいや!いきなり何すんだよ!」
「爪を剥いだぐらいで怒らないでくださいよ。短気な人ですねぇ」
ため息交じりに言いながらさらに爪を剥ぐ。
「いででででっ!!やめ、止めろ!!」
「ほら、どんどん剥がしていきますよ」
その声音は楽しそうだった。
「なんで、なんで楽しそうに言うんだよ!?いっで!!」
「楽しいからに決まってるじゃないですか。ああ…この背筋がゾクゾクする感じがいいですねぇ」
「んだと!この変態野郎!!」
「はいはい。元気なうちは好きなだけ罵って下さって結構ですよ」
「なにをいってぇ!!!ちょ!お前!指!俺の指!!」
「え?あ、はい。切り落としましたが、それが何か?」
さも当然のような顔をして、切り落とした小指を見せて来る。
「何か?じゃねぇよ!!何してくれてんだよ!!」
「まぁまぁ一本ぐらいで喚かないでください。何せあと九本ありますからね」
さらりと恐ろしいこと言われ、背筋に冷たいモノが走った。
「いやいやいやいや!!やめろやめろやめろ!!!うぎゃぁぁああ!!」
「いやぁさすがに男性の指を切るのは骨が折れますね。いや、骨は切っているのですが…」
「お前!何、悠長なこと言ってんだよ!やめろ!やめろって!!あ、あ、あああああ!!」
「サクサク切れますねぇ」
「おま…お前!裕美に頼まれたのか!?俺を殺すように」
「いいえ」
青年は即答する。
「じゃ、じゃあなんでこんなことこんなことするんだよ!俺たち初対面だろ?」
「初対面ですね」
「俺、お前に何かしたか?」
「していませんね」
青年は淡々と答えながら、指を切り落とす。
「じゃあ…なんで…ああああああ!!」
「うーん…ほら、あれですよ」
切った指をコンクリートの床に落とす。
「誰でもよかった」
「は、はぁあ!?」
「人が殺せるなら誰でもよかったんです。それがたまたま貴方だった、というだけです」
「なんだ…なんだよそれ!!ふざけんなよ!!」
「そんなふざけた理由で殺される人は、過去に何人もいらっしゃいました」
青年が自分の前に立つ。
真っ黒な服装だから返り血は見えないが、その手は、マルチツールのナイフは自分の血で真っ赤に染まっていた。
その真っ赤なナイフが鼻にあてがわれる。
「あ、やめ、何を…」
ナイフにゆっくりと力が込められる。
「ああああ!!鼻!鼻が!!」
「世の中って理不尽ですよねぇ」
「お前がそれを言う資格はないだろ!!」
「あれ?そうですか?」
青年はにっこりと笑って、鼻を削ぎ落した。
「ふざけんなよ!くそがぁぁぁぁ!」
「いやぁ、どこまでもお元気で。良いことですね」
そして、右耳を掴む。
「ひぁぁぁあああ!耳!耳!!」
容赦なく右耳を削ぎ落し、左耳を掴む。
「耳ぃぃぃぃぃ!」
コンクリートの床に、指と鼻、耳が無残に転がり、切断面から溢れ出した血が、洋服を床を汚す。
「痛い…痛いよぉ…」
「さて、次はどうしましょうかねぇ」
ナイフの刃先が頬を撫でる。
「やめ…やめ…やめてくれ…助けてくれ!助けてくれ!!」
「うーん…残念ながら、貴方を助けるという選択肢はないんですよねぇ」
「そ、そんな!!」
「さ、楽しく内臓ぶち撒けて死にましょう」
ニコニコと、どこまでも楽しそうな青年。
「いや!いやだ!!いやだぁぁぁぁああ!」
暴れたところでパイプ椅子がガタガタと激しく揺れ、横倒しになるだけだった。
横倒しになったら最後、身を捩ることさえできなくなった。
マルチツールナイフの刃が、脇腹に突き刺さる。
「うぐっ!」
そして、そのまま上へ引き裂かれた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」
腹圧に押されて、血を吹き出し、内臓が飛び出した。
「ああ、ああ、あああああ…」
むせ返るような濃い血の匂い。額に冷や汗が浮かび、寒気が襲い掛かってくる。
「はぁ…はぁ…死ぬ、死ぬぅ…」
「ええ、じき死ぬでしょうね」
青年は爽やかに答える。
「しかし、最近のマルチツールは凄いですねぇ。ペンチまで付いているんですから」
彼は感心したように言い、ナイフを収めて、マイナスドライバーを引き出した。
「あ…あぅ…」
「さて…」
青年は椅子を押して、仰向けにするとマイナスドライバーの先端を目に近づけてきた。
「あ…や…」
ずぶり、と先が眼球に突き刺さる。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙」
ゆっくりとゆっくりと眼球の中を押し進み、眼窩を突き破る。
「お゙っ」
ずぶっと一気にドライバーを抜き、反対側の眼球にも突き刺した。
「い゙い゙い゙い゙い゙い゙い゙っ」
青年はドライバーで眼窩の中を掻き回す。
痛みのあまり頭を動かそうにも、青年が力強く押さえていて微動だに出来ない。
彼はドライバーを深く深く突き刺し、ぐぢゅぐぢゅと掻き回すのを止めなかった。
「……お゙っ…あ゙っ…あ゙……」
目尻から”どろり”と脳味噌が垂れると、体から力が抜け落ちた。
「ああ…完璧です…」
亡骸を見つめる双眸に狂気が渦巻き、彼は至極満足したように微笑んだのだった。
「さて、片付けて帰りますか…」
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