テラーノベル
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視界を埋め尽くすのは、暴走した妖気が作り出す漆黒の嵐。
その猛烈な渦の中心で、私はボロボロに傷つき
異形の力に呑まれようとしている暁さんの体を、折れんばかりの力で抱きしめていた。
肌を直接焼くような異質の熱が、私の着物越しに伝わってくる。
理性を失い、喉の奥から獣のような低い唸り声を上げる彼に
私は何度も、喉が枯れるまでその名を叫び続けた。
「暁さん……! お願い、戻ってきて! 私はここにいる、あなたの側にいるから!」
「ガ、アア……ア……ッ!」
私の叫びに呼応するように、紅く血走った彼の瞳に
一瞬だけ、迷い戸惑うような人間らしい光が宿る。
だが、その一瞬の隙を
情け容赦ない組織の猟犬たちが逃すはずはなかった。
「好機だ!弱り切った鬼共々、まとめて裏切り者を射抜け!一兵たりとも逃すな!!」
背後から響く、師匠の冷酷な断罪の合図。
直後、夜空を埋め尽くすようにして、頭上から無数の火矢が雨となって降り注いだ。
死の予感が全身の毛羽を立たせる。
けれど、不思議なほどに恐怖はなかった。
今、私の腕の中に暁さんの確かな温もりがある。
それさえあれば、たとえこのまま地獄の底まで堕ちることになったとしても
私は笑っていられる気がしたから。
───その時だった。
暁さんの背中から禍々しく溢れていたはずの黒い妖気が一転して
夜闇を浄化するような清らかな白銀の光へと姿を変えた。
「……あざみ、ちゃん。…ごめん」
耳元で響いたのは、あの日出会った時と同じ、どこまでも穏やかで透き通った声。
驚いて顔を上げれば、そこには禍々しい角も
不気味な紅い瞳も消え失せた、いつもの「流れの浪人」としての暁さんが微笑んでいた。
彼は私の震える肩を愛おしそうに抱き寄せると、空いた片手を天にかざした。
それだけで、降り注いでいた火矢が目に見えない真空の壁に弾かれ、空中で虚しく霧散していく。
「なっ……馬鹿な!鬼の暴走を、自らの意志で制御したというのか!?」
愕然として立ち尽くす師匠と隊士たち。
暁さんは彼らに向かって、静かに、けれど山を揺るがすような揺るぎない声で告げた。
「僕は鬼だ。人の理から外れた怪物だ。……けれど、この子の心までは、お前たちの身勝手な正義に喰わせはしない。鴉の『嘘』は、ここで終わりだ」
暁さんが地面を軽く、けれど力強く踏み抜く。
その瞬間
凄まじい衝撃波が足元から広がり、包囲していた精鋭たちの陣形を瞬時に崩壊させた。
彼は誰も殺さなかった。
ただ、二人の行く手を阻む資格を持つ者は、この場にはもう、誰一人としていなかった。
「行こう、あざみちゃん」
私たちは、燃え盛る里の出口へと走り出した。
背後で師匠の呪詛のような叫びが夜空に虚しく響いているけれど、私は一度も振り返らなかった。
振り返るべき過去は、すべてあの炎の中に置いてきたのだから。
◆◇◆◇
深い森を抜け、視界が開けた丘に辿り着いた時。
遠く、眠る江戸の町の向こう側、地平線の端から夜を切り裂く一筋の黄金色の光が差し込んできた。
「……夜が、明ける」
ふと立ち止まった暁さんが、眩しそうに、けれど慈しむように目を細める。
朝焼けの淡い光に照らされた彼の横顔は
これまでのどの瞬間よりも人間らしく、そして、どうしようもなく美しかった。
「暁さん。……これから、私たちはどうしましょうか」
「そうだね……。江戸にはもういられない。鬼としても、人間としても、僕たちの安住の地はどこにもないかもしれない」
暁さんは困ったように、けれどどこか楽しげに笑った。
そして、私の手を、あの日初めて江戸の町で繋いだ時よりもずっと優しく
壊れ物を扱うように強く握りしめた。
「それでも、僕は君と一緒にいたい。……たとえこの先、何が待ち受けていたとしても。どう、かな、あざみちゃん」
「……私も、あなたと居たいです…私…暁さんのこと、出会ったときからずっと…っ」
私は、溢れそうになる涙を堪えて、彼の広い胸に顔を埋めた。
「…薄々気づいてた、あざみちゃん…僕も、同じ気持ちだよ……ずっと、夢見ていたんだ、君を抱きしめられる日を」
私はもう、組織のために鬼を狩る「あざみ」という名の道具じゃない。
彼はもう、誰との約束のために孤独に耐える「最凶の鬼」じゃない。
私たちはただ、互いを想い
同じ歩幅で未来を歩むだけの二人になったのだ。
昇り始めた朝焼けの光が、二人の足元に長く
一つに重なり合った影を伸ばしていく。
繋いだ手を離さず、一歩ずつ。
偽りの名前も、縛られてきた過去も
血塗られた宿命もすべてを夜の中に置いて。
私たちは、まだ誰も知らない
本当の自由が待つ光の向こう側へと、静かに消えていった。
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