雨の音、暗い部屋が月光に照らされる夜、突然インターホンがなった。あなたはスマホを伏せる。玄関にミシミシと音を立てながら近づき、ひんやりと冷えたドアノブに手をかける。
ドア越しに静かに耳を澄ますと、雨の音に混じって、誰かの息遣いがかすかに聞こえた。走ってきたのだろうか?インターホンはもう鳴っていない。しかし、確かにそこに「何か」がいる気配がする。
心臓が早鐘を打つ。スマホの画面は伏せられたまま、通知の光が静かに点滅している。ドアスコープを覗こうと、そっと背伸びをした。だが、外は暗く、ぼんやりとした人影が見えるだけだった。
そう思いながらも、なぜかドアノブを握る手に力が入る。指先が冷たくなり、汗ばんでいるのが分かった。もう一度、深呼吸をして、意を決して声をかける。
「どなたですか?」
しばらく沈黙が続いた。雨の音が一層強くなる。やがて、ドアの向こうから低い声が返ってくる。
「……忘れ物を、届けに来ました」
その声には、どこか聞き覚えがあった。何故だろう、少しだけ、心惹かれる声だ。しかし、思い出せない。胸の奥に、不安と期待が入り混じった奇妙な感情が渦巻く。
「忘れ物……?」
すると、静かな玄関に「ピコン」と通知音が響く。
もうすぐ明るくなりそうな夜中に通知が来ること自体あまり無いが、あなたは開けっ放しのドアの隙間からスマホを覗く。
そこまで目は良くないので内容は分からないが、たしかに誰かからメッセージが来たらしい。
すると、あなたは玄関のドア越しに人が居ることに気づいてハッとした。
あなたは待たせてはいけないと思い、とりあえずドアノブに手を掛け、少しだけ開けてみることにした。
ドアを開けた瞬間に、外のひんやりと湿った空気が流れ込んできた。そして、街灯に照らされ、だれかの人影が見えた。やっぱりさっきと同じ人だ。すらりと背が高い。
あなたは扉の隙間から顔を覗いた。
「…こんばんは。とりあえず…入りますか?何も無いですけど。」
あなたはドアを開けた。顔は影でなにも見えないが、雨で濡れている。傘を差さずにここに来たのだろう。
とりあえずあなたは「誰か」を部屋にいれた。
あなたは自分に驚いた。こんな夜中に、自分の所へやってきた誰かも分からない人を家へ入れたのだから。普通なら鍵を閉め、相手にしない。
むしろ、その「誰か」に興味を持っている自分がいる。
あなたはキッチンからカップラーメンと箸を持ってきて、机に置いた。
「はい、これ、食べてください。あと、これで拭いてください。風邪ひいちゃいますよ。」
あなたは昨日洗濯したばかりのふわふわのタオルを「誰か」に渡した。
白くて細い手があなたからタオルを受け取る。
あなたと「誰か」はソファに腰掛けた。
ソファに座ると、部屋の静けさが一層際立つ。雨音だけが規則正しく窓を叩き、月明かりが薄く床を照らしている。あなたはカップラーメンの蓋をそっと開け、「誰か」の前に差し出した。湯気がふわりと立ちのぼり、ほのかに温かい香りが広がる。
「どうぞ、冷えたでしょう?」
「誰か」はタオルで髪をそっと拭いながら、静かにうなずいた。その仕草はどこか懐かしく、しかし思い出せない。あなたの心の奥で、何かが微かに引っかかる。
「…ありがとう。」
その声はやはり、聞き覚えがある。けれど、思い出そうとすればするほど、霧がかかったようにぼやけてしまう。
あなたは勇気を出して尋ねた。
「さっき、忘れ物を届けに来たって言ってましたよね。…何を、届けに?」
「誰か」は少し黙り込んだ後、ポケットから小さな箱を取り出した。白い紙で丁寧に包まれている。あなたの手のひらにそっと乗せられたその箱は、どこか温かい。
「これは…?」
「あなたが、昔落としたものです。」
箱を開けると、中には小さな銀色の鍵が入っていた。それは、あなたがずっと昔――まだ子どもだった頃、どこかで無くしたはずのものだった。
「どうして、これを…?」
「誰か」は静かに微笑んだ。その顔はまだ影に隠れてはっきり見えない。でも、あなたはなぜか、涙がこぼれそうになる。
「ずっと、返したかったんです。」
あなたは鍵をそっと握りしめる。胸の奥で、何かがほどけていくような感覚がした。忘れていたはずの思い出が、雨音とともにゆっくりと蘇ってくる。
「…ありがとう。」
二人の間に、しばし静寂が流れる。外の雨は、少しずつ小降りになってきた。夜明けは、もうすぐそこまで来ている。
気づくとあなたはソファで寝ていた。隣には「誰か」が居た。どうやら2人で寝ていたらしい。
朝日が窓から零れる。部屋中が一瞬で明るくなり、窓に映る雨粒が光に照らされ、虹色になる。あなたは「誰か」の顔を覗いてみた。
彼はとても綺麗で、透き通るようなスラッとした顔、消えてしまいそうな儚い吐息、おもわず見とれてしまった。
あなたはふと我に返り、彼を起こそうと肩を優しく叩いてみた。
彼の肩にそっと手を添えると、その身体はふっと、空気のように軽く揺れた。
けれど、起きない。
もう一度、少し強めに肩を揺らすと――彼の身体は、音もなく、煙のようにゆっくりと消えていった。
タオルがぽとりと床に落ちる。まだほんのりと彼の体温が残っているような気がして、あなたは反射的に拾い上げた。
けれど、それ以外の痕跡は、何も残っていなかった。カップラーメンも、座っていた場所の沈みも、まるで最初からそこに誰もいなかったように。
夢だったのかと思った。でも、手のひらには、あの銀色の鍵がしっかりと握られている。小さくて、冷たくて、確かに存在する「過去のかけら」。
部屋の中には朝の光が満ち、雨の匂いだけが微かに残っていた。
あなたは鍵を見つめながら、静かに立ち上がる。
どこかに続いているはずの、その扉を探すように。
過去と現在の境目に立つ、あなたの物語は、まだ終わっていない。
――彼は、一体誰だったんだろう?
あなたは鍵を握りしめたまま、窓際に立った。朝日はもう完全に顔を出していて、雲の切れ間から差し込む光が部屋の隅々まで照らしている。けれど、部屋の中はどこかぽっかりと空虚で、心に残ったのはあの「誰か」の面影と、掌の中の冷たい金属だけだった。
――これは夢じゃない。
そう思えたのは、鍵の重みがあまりにも「現実」だったからだ。
タオルを畳んでソファに置き、テーブルの上を片付けながら、あなたはふと気づく。
玄関のドアの前、床に何かが落ちていた。近づいて拾い上げると、それは小さなメモだった。
古びた紙に、細いペンでこう書かれていた。
「その鍵は、開けるためじゃなく、思い出すためのもの。」
あなたは言葉を反芻する。
思い出すための鍵――記憶の扉を開ける鍵。
ふいに、心の中で何かがふっと灯る。
忘れていた景色、忘れていた約束。夕暮れの公園、誰かの笑い声、小さな手を繋いで歩いた帰り道…。
「……あの人は……」
思い出の断片が流れ込んでくる。けれどまだ、すべてがはっきりしているわけではない。
ただひとつだけ、確かなのは――もう一度、その人に会いたいという気持ち。
あなたはタンスの奥から古い箱を取り出す。そこにはかつての日記や手紙、そしてもう一つ、錆びかけた古い南京錠のついた日記帳があった。
鍵穴は、小さくて銀色。
震える手で、あなたはその鍵を差し込んだ。
「カチッ」という小さな音とともに、長い時間閉ざされていた扉が、ようやく静かに開いた。
* * *
ページをめくると、そこに残されていたのは、子どもの字で書かれた、ある一つの約束だった。
「ぼくが大人になっても、きみを忘れないよ。
いつか、この鍵を持って、会いに行く。」
あなたの目から、静かに涙がこぼれ落ちた。
あの夜、インターホンを鳴らした「誰か」は、
――きっと、あなたが約束を忘れかけていた、過去の「彼」だった。
あなたは鍵を外したその日記帳を、そっと胸に抱きしめた。
ページの端には、色あせた押し花が挟まれていた。――小さな白い花。名を思い出そうとすると、やはり記憶の霧が立ちこめる。でも、何か、とても大切なものだった気がした。
部屋の中には朝の光が差し込み、少しずつ、今日が始まろうとしていた。
けれど、あなたの心はまだ、あの夜のまま立ち止まっていた。
“いつか、この鍵を持って、会いに行く。”
あれは、約束だった。あなたが忘れていた。
でも、彼は忘れていなかった。
あなたは日記帳を閉じ、手に取った鍵をもう一度見つめる。小さな銀の鍵が、朝日を反射して優しく光っていた。
そのとき、机の上のスマホがまたひとつ、通知音を鳴らした。
画面には短いメッセージ。
「次は、覚えていてくれますか?」
送り主の名前は表示されていなかった。
けれど、あなたはもう知っていた。
――彼は、また来る。
今度はもう、夢じゃない。
もう一度会うために、あなたは「鍵」を手に、新しい扉を探し始める。
記憶の先にある、あの人との再会を信じて。
* * * * *
それから数日が過ぎた。
あの夜の出来事を誰かに話すことはなかった。話しても、きっと信じてもらえない。
でも、あなたの中には確かな実感があった。
あれは“夢”じゃなかった。――“約束”だった。
ポケットの中には、今もあの小さな銀の鍵がある。
冷たいけれど、不思議とあたたかい。
ある朝、あなたは急に、どうしても行きたくなった場所があった。
ずっと行っていなかった、幼いころ住んでいた街。
駅前の小さな公園、古びた図書館、そして坂道の途中にあった、あの小さな、木造の秘密基地。
電車に揺られながら、あなたは窓の外を見つめた。
胸の奥がずっとざわついていた。何かが近づいてくる予感。
駅を降りると、冷たい風が頬を撫でた。街の景色は少し変わっていたけれど、匂いだけは昔と同じだった。
坂道を登っていくと、懐かしい家が見えてきた。
誰も住んでいないようで、庭は雑草が生い茂り、扉には南京錠がかかっていた。
あなたはゆっくりと近づき、ポケットから鍵を取り出した。
――まさか、と思いながらも、錠前に差し込む。
「カチリ」
鍵が回った。
ドアが軋んだ音を立てて開いた。
その瞬間、あの夜と同じ雨の匂いが、ふっと鼻をかすめた。
家の中は薄暗く、けれど埃ひとつない。不思議と懐かしい空気に満ちていた。
リビングに入ると、そこには、見覚えのあるソファと、色褪せた絵本が置かれていた。
あなたは一歩踏み出し、目を細めた。
「…来てくれたんだね」
声がした。振り返ると、そこに彼が立っていた。
影の中に立っていたはずなのに、今度ははっきりとその顔が見えた。
「あなたが来るまで、ここでずっと待ってた。あの日の約束、僕は…ずっと忘れなかったんだ。」
あなたは思い出した。小学校4年になった時。この小学校の生徒として転校してきた時。あなたは黒板の前で自己紹介を終え、1番後ろの窓際の席に座った。外は蒸し暑く、セミが鳴いている。
隣の席の男の子は、あなたが転校してきて1番最初に話しかけてくれた友達。彼といると不思議と安心できて、2人でいればなんでも出来るような気がしていた。
転校してきて1週間、2人はすぐに仲良くなった。最近は一緒に登下校したり、放課後は小さな駄菓子屋で冷たいアイスを買って、笑いあったり。
2人の家の近くの坂道を登ると小さな家があった。だれも住んでいなかったので2人は「ここを私たちの秘密基地にしよう!」と決めたのだった。
2人はそれぞれの家から自分の好きなものを持ってきて、休日はいつも秘密基地であそんでいた。
しかし、あなたは家の事情によって、あと三日後には引っ越すことになったのだ。あなたと彼は酷く落ち込んだ。まだ会ったばかりなのに。あんなに仲良しなのに。離れ離れになってしまう。それに、子供だけでは逢いに行くことも、電話することもできない。そして、あなたと彼は、約束した。「大人になったら、また2人で絶対に会おう。そのときは、あの秘密基地で。」と。
引っ越すまであと1日。最後にまた遊ぶために、
あなたはいつも通り学校で秘密基地へ集合する約束をし、秘密基地へ向かった。秘密基地への道のりは、家を出て、交差点を進み、小さな道を進み、坂道を登る。といった、少し疲れるルートだ。
でもあなたは、彼と会えることを思えば、そんなことはどこかに消えていった。
あなたは小さなリュックに持ち物を入れ、赤い靴を履いて家を出た。家をでて5分。大きな交差点で信号を待っていると、横から悲鳴が聞こえてきた。
あなたはハッと振り返った。 見ると、車道に飛び出した小さな影―― そして、迫りくるトラックのライト。 時間がスローモーションのように歪む中、あなたの目に映ったのは、あの男の子――彼だった。
彼は、あなたをかばうように手を伸ばし、代わりに――
――ガシャーン――
鋭い衝撃音と、誰かの悲鳴。 あなたは何が起きたのか理解できないまま、立ち尽くしていた。
次に覚えているのは、大人たちに囲まれ、泣きながら彼の名前を呼ぶあなた自身。
あの日、彼は、あなたをかばって、――
あなたの中で、全ての記憶が一気に押し寄せる。 どうして忘れてしまったのだろう。 どうして、あの夏の日の続きを、心の奥深くに閉じ込めてしまったのだろう。
目の前の彼――もう大人になった彼は、ただ静かに微笑んでいた。
「やっと、思い出してくれたんだね。」
涙が止まらなかった。 あなたは震える手で、彼に触れようと一歩踏み出した。
けれど、彼の体は、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、またふっと、薄れていく。 あなたは必死で声を上げた。
「待って――!行かないで!」
彼は最後に、あなたの方へ微笑みかけ、こう言った。
「もう、大丈夫だよ。 君はちゃんと、僕との約束を思い出した。 それだけで、僕は――」
彼の声も、姿も、光に溶けていく。 けれど、今度は怖くなかった。
胸の中に、確かなものがあったから。 たとえもう触れられなくても、彼はずっと、あなたの中に生き続ける。
あの小さな銀の鍵と、交わした約束と共に。
* * *
あなたは古びた家の中で、そっと目を閉じた。 心の中に、もう迷いはなかった。
ゆっくりと扉を閉め、鍵をかける。 そして、その銀の鍵を首に下げた。
これからの日々を、過去と共に、彼と共に、生きていくために。
外に出ると、朝の光が一層眩しく、世界は昨日より少しだけ優しく見えた。
あなたは深く息を吸い込み、坂道を一歩ずつ、降り始めた。
――もう、迷わない。 ――もう、忘れない。
「また、いつか。」
小さく呟くと、風がそっとあなたの髪を撫でた。
そして、どこかで、懐かしい笑い声が、確かに聞こえた気がした。
コメント
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あっ、ちなみに。小説と言ってもちゃんと考えたものでは無いので、ただの私の"趣味"として認識して貰えたらうれしいです'ᢦ'