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鍵を差し込む手が震えていた。指の関節が、うまく回らない。肋骨のあたりが痙攣するように痛み、わずかな呼吸のたびに身体が軋んだ。
部屋に入ると、暗闇が出迎える。カーテンを開ける気力もないまま、靴を脱ぐ。
と、その瞬間――玄関のチャイムが鳴った。
“ピンポーン”
あまりに早い。後ろにいたのかと思うほど。
反射で背を向け、もう一度鍵をかけようとしたその刹那、扉の向こうから低い声が落ちてくる。
「……悠翔。いるんだろ?」
――陽翔だ。
間違えようもない。あの声は、骨に染みついている。
鍵をかけたまま、無視する。答えない。
だが数秒の沈黙のあと、扉のノブが回される音がした。
“……合鍵、まだ返してなかったよな”
その言葉とともに、鍵が開いた。
玄関の隙間から、陽翔の影が入ってくる。
スーツのジャケットを無造作に脱ぎ、鞄も持たず、まるで“家”に帰ってきたような顔をしていた。
「なに、そんな顔してんの。兄貴が来たくらいで」
言葉は穏やかだった。
けれど視線は冷たい。感情が凍った湖面のように、一切の揺らぎがない。
悠翔は後退る。リビングの床の上に膝をついたまま、距離をとる。
「……用、ないなら、帰って」
喉から出た声は、ひどく細かった。
陽翔はそれを聞くと、軽く笑った。
「へえ。強くなったつもり?」
革靴の音が、床に爪を立てる猫のように静かに近づいてくる。
「ゼミ室の話、聞いたよ。あの“自白文”、けっこうよくできてたな。俺が昔書かせたの、思い出したわ」
ソファの肘掛けに腰をおろし、陽翔は煙草を取り出した。
火をつけ、匂いだけを部屋に染みこませる。
「懐かしいな。あの頃、お前さ……ベッドの下で震えてたろ。母さんに連れてこられてさ、俺の部屋で」
言葉は断片的で、淡々としていた。
「”あいつが悪い子なんです”って泣きながら母さんに言わせてさ。お前、どういう気分だった?」
悠翔は何も答えられなかった。
自分の膝が、勝手に揃っていることに気づく。姿勢がまるで“叱責の体勢”になっている。
陽翔はそれを見て、ふっと鼻で笑った。
「大学行っても、変わらねえな。どこでも、お前は“そうなる”んだよ。わかるか?」
支配は、空間じゃない。存在に染みつくものだ。
「母さんも言ってた。『やっぱあんたたち三人が必要みたいね』って。お前が壊れないように、ってさ」
陽翔はそう言って立ち上がると、ふいに悠翔の顔を覗き込む。
「泣いてないの、偉いじゃん。……でも泣いたら、楽になるかもよ?」
そして、右手を伸ばした。
頬に触れるでもなく、殴るでもなく――ただその形だけを作って、止まる。
「次は、蒼翔が来るってさ。あいつ、今すげえイライラしてるから」
言い終えると、陽翔は何も言わずに玄関へ向かった。
再び扉が閉じる音。だが、空気は元に戻らない。
残された煙草の匂いだけが、部屋の中に“過去”を満たしていた。