冷たく澄んだ空気が
裏庭を静かに包み込んでいた。
伐採された桜の木が地に横たわり
残された幹からは
ねっとりとした赤黒い樹液が滲み
僅かに鉄臭い匂いが立ち込めていた。
「では、ソーレンさん。
残りの伐採も
よろしくお願いしますね。
僕は、残りの仕事を終わらせて来ます」
時也はそう言い残し
薄く微笑みながら裏庭を後にした。
彼の背筋は真っ直ぐに伸び
静かで凛とした歩みがその余韻を残す。
煙草の匂いが僅かに漂い
レイチェルの鼻腔をくすぐった。
「綺麗な桜なのに⋯⋯勿体無いね」
レイチェルは
伐採された桜の木を見つめ
ポツリと呟いた。
その声は自分に言い聞かせるような
寂しさを滲ませていた。
「⋯⋯あ?
こんな〝奴ら〟は
暖炉の薪になるのが丁度良いんだよ」
鋭い声が返ってきた。
斧を担いだソーレンが
桜の若木を、まるで人のように
侮蔑するような口調で言い放つ。
「こんな⋯⋯奴ら?」
ソーレンの言葉に引っ掛かりを覚え
レイチェルは思わず問い返した。
なぜ〝奴ら〟なのか。
なぜ
まるで桜に憎しみをぶつけるような
言い方をするのか⋯⋯。
「さっき言ったろ?
別の意味での〝特別ゲスト〟だって」
ソーレンは斧を持ち直し
桜の根元に刃を突き立てた。
鋭い音が響き
さらに赤黒い樹液がどろりと流れ出す。
まるで血そのもののように
嫌に生々しい。
「⋯⋯別の意味での特別ゲストって
⋯⋯なんなの?」
レイチェルは
確かめるように問いかけた。
胸の奥が冷たくざわつき
背筋が不快に粟立つ。
ソーレンの言葉は
彼女が知りたくない真実を
無理やり突きつけようとしているように
感じられた。
「狩人さ」
ソーレンは
斧を投げ捨てるように地面に突き立て
ポケットから煙草を取り出した。
咥えた煙草に火を点け、目を細める。
「アリアの不老不死の血と
奇跡を呼ぶ涙の宝石を狙った⋯⋯な」
「ハンター⋯⋯?」
レイチェルは
胸の奥に重たい鉛が落とされたような
感覚に襲われた。
アリアの
不老不死の血とその涙の宝石は
彼女の苦しみを知らない者には
垂涎の存在なのだと
漸く理解した。
「そ。
だから、アイツが始末したんだよ。
アリアの敵は⋯⋯
俺たちの敵だからな」
煙草を燻らせながら
ソーレンは静かに言った。
その声には
何の感情も込められていなかった。
まるで〝それが当然〟だと
言わんばかりの
冷ややかさがあった。
視線を下げると
伐採された桜の切り株から
まだ赤黒い樹液がじわじわと滲み出し
滴り落ちていた。
ー⋯⋯穢らわしいー
不意に
時也が吐き捨てるように言った言葉が
耳の奥に蘇った。
あの優しい笑顔の裏に潜んでいた
氷のように冷たい声音。
その言葉が、耳を離れない。
風が吹き
桜の花弁が、ひらりと舞った。
紅く染まった花弁が
まるで散っていった命の残滓のように
ゆっくりとレイチェルの足元に落ちた。
鈍い音が響き
桜の幹に深々と斧が食い込んだ。
湿った木肌が割れ
赤黒い樹液が再び滲み出る。
その液体が足元に垂れ
土に染み込む度に
何とも言えない不吉な気配が漂った。
「この店には
二種類の特別ゲストがやって来る」
咥えた煙草を
僅かに口の端で揺らしながら
ソーレンが低く呟いた。
口元から昇る煙が
伐採された桜の間を静かに漂う。
「一つは、俺らみてぇな『転生者』
不死鳥を倒す為に
保護して集めなきゃなんねぇ。
しかし⋯⋯〝ハンター〟は別だ。
何が何でも始末しろ 」
斧を振り上げ
さらに力強く幹に打ち込む。
刃が深くめり込み
桜の木が僅かに傾いた。
花弁がふわりと宙を舞い
レイチェルの足元に散る。
「──っ、始末って事は⋯⋯」
レイチェルの声が掠れる。
答えは、薄々分かっていた。
それでも口にするのが恐ろしく
震える声はかろうじて言葉を紡いだ。
「皆殺しだよ」
ソーレンは煙を吐き出しながら
当然のように答えた。
その声に迷いは無く
斧を振るう腕にも
躊躇い一つ感じられない。
最後の桜を見上げる彼の目には
冷たい琥珀色の光が宿っていた。
「じゃねぇと
情報を持って帰られて
此処にアリアがいる事を
広められても困るからな」
「⋯⋯⋯⋯」
レイチェルの背が僅かに震えた。
「⋯⋯お前にまでやれとは
時也は言わねぇさ」
ソーレンが続けた。
煙草の先の火が赤く光り
灰がぽとりと土に落ちる。
「血腥い事は俺達に任せとけ。
ただ⋯⋯」
「⋯⋯ただ?」
「お前がハンターに遭遇して
身に危険を感じたら
迷わず俺か時也に擬態しろ」
ソーレンの声が
急に真剣味を帯びた。
彼はレイチェルの顔を
真っ直ぐに見つめ
普段の軽薄な態度とは違う
仲間を守る為の
鋭い眼差しを向けていた。
「時也から
お前の能力は聞いた。
30分、お前は誰かになれるし
思考も性格も
完全にソイツになるんだろ?
俺も時也も、体術は得意だからな。
危険を避ける事はできんだろ」
「⋯⋯わかったわ」
小さく頷いたレイチェルの目には
不安が色濃く浮かんでいた。
それを悟ったのか
ソーレンはふっと口元に笑みを浮かべた。
その瞬間
再び斧を打ち付けられた最後の桜の木が
音を立てて倒れた。
地響きと共に
伐採された桜の幹が崩れ
残っていた花弁が宙に舞った。
紅く染まった花弁が
まるで血飛沫のように散る。
ソーレンは斧を土に突き立て
煙草を咥え直した。
ふと、思い出したように顔を上げ
レイチェルに尋ねた。
「⋯⋯なぁ?」
「⋯⋯⋯?」
「その擬態能力って
例えば俺の重力操作もコピーすんのか?」
突然の問いに
レイチェルは目を瞬かせた。
「え?
私以外に能力を持った人に
会った事なかったから
⋯⋯分からないわ」
「ふーん。
なら、試してみようぜ?」
ソーレンは煙草を吐き捨て
地面で火を踏み消した。
ゆっくりと立ち上がると
琥珀色の瞳に鋭い光が宿る。
まるで試合前の闘士のような
猛々しい気配が
その大柄な体から漂った。
「⋯⋯え?」
レイチェルは咄嗟に
言葉を詰まらせたが
ソーレンの笑みはもう
戦いに飢えた獣のように歪んでいた。
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完全な擬態が生む、静かな狂気と緊張。 ある者へと変貌したレイチェルと、獣の本能を剥き出しにするソーレン。 咲き乱れる桜の下、激突する二つの力と心。 本物すら惑う、命懸けの戯れが今、幕を開ける──