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専業プウタ
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2,027
歌番組の生放送を終え、美夏がマンションに戻った頃には、時計は夜の十時を回っていた。彼女の住まいの外観は、ごく普通の単身者向けの賃貸マンションだが、実際のところは芸能事務所Dream Gateの所有するタレント寮。ワンルームの部屋は必要最低限の家具しかなく、生活感もほとんどない。売れっ子になれば豪華なタワマンに引っ越すことができるというが、回帰前の記憶にはこの部屋の光景しか残っていない。
美夏は玄関で靴を脱ぎ、バッグを床に置く。それだけで全身の力が抜けた。疲れた。しかしベストを尽くした実感はある。
美夏は冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出そうとした。
そのときスマートフォンが震えた。画面には『母』の文字。
──またか。
胸の奥が重くなる。回帰前も、同じタイミングで母が電話をかけてきた。
うんざりする。しかし出ないわけにもいかない。美夏は一度だけ目を閉じてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『美夏? 見たわよ、今日の歌番組』
開口一番、母は言った。
喜びの声ではない。何かを期待している様子もない。上から何かを叩きつけるような口調だった。
『あんた。全然目立ってないじゃないの。せっかく親戚中に「うちの娘がテレビに出るの」って連絡したのに、どこにいるのか全然分からないって言われたわよ』
「……そう」
『そう、じゃないでしょう? もっとカメラに映らなきゃ、アイドルになった意味ないじゃない』
母の声は次第に苛立ちを帯びていく。
『美夏、あんた、やる気あるの? あの真ん中にいた子ばっかり映ってたじゃない』
真ん中にいた子。朝霧舞白(あさぎりましろ)のことだ。彼女はセンターなのだから、目立つのは当然だ。しかしそれを説明する気力など、美夏にはなかった。
『親戚のおばさんなんて、「本当に出演してたの?」なんて言うのよ。あんたのせいでお母さん、恥かいたわ』
恥をかいた。その一言が胸に刺さる。
母にとって、美夏は娘ではない。周囲にマウントを取るための道具だ。
回帰前のこの日、母は電話でこう言った。──『センターになれるように、もっと頑張ってもらわないと』──あの頃の自分は、本気で信じていた。センターになれば、もっと目立てば、母は自分に苛立ちをぶつけてこなくなるのだと。
だから必死になった。不機嫌な母から逃れたくて、誰よりも前に出ようとした。誰かに自分を見つけてほしくて、誰よりも人気を集めようとした。そしてついに新曲のセンターに選ばれた。その結果、寿志清純(ずしきよすみ)に目を付けられ、あのようなことになった。しかし母は何一つ変わらなかった。目立てば目立ったで、もっと上を求められる。仕事が減れば、努力不足だと罵られる。どこまで行っても終わりはない。母が満足する日は、永遠に来ないのだろう。
『……ちょっと、美夏。聞いてるの?』
「聞いてる」
『だったら次はもっと頑張りなさい。美夏が売れないと、お母さん、困るのよ』
その一言で、何かがぷつりと切れた。
「……疲れた」
『え?』
「もう疲れたから」
それだけ言って、美夏は通話を切った。
すぐに着信音が鳴る。美夏は電話に出なかった。しばらくすると電話は切れ、そしてまた鳴り始める。美夏は無視した。何度かかってきても、無視し続けた。やがて電話は静かになった。部屋に残ったのは、冷蔵庫の低い駆動音だけ。美夏はその場に座り込む。
惨めな気分だった。今回は、回帰前とは違う。自分のためではなく、White Noiseというグループのために歌った。目立つことより、支えることを選んだ。その選択に後悔はない。それなのに、帰ってきて最初に浴びせられた言葉は『全然目立ってない』──
視界が滲む。涙が一粒、床に落ちた。止めようとしても止まらない。誰もいない部屋で美夏は声を殺して泣いた。悔しくて仕方がない。回帰前のあの世界で、自分が無惨に殺されたあとも、母は娘の死を悲しむことはなかっただろう。嘆くことがあるならば、それは世間体が傷つき、マウントを取れなくなることに対して。『こんな事件の被害者になるなんて、みっともない。お母さん、恥ずかしくて外を歩けないじゃないの』『今までかけてきたお金がみんな無駄になった。産んで損した』──平気でそんなことを言う。母はそういう人だ。娘が被害を受けると罵り、加害者に頭を下げる。
そんな人の理想のために、自分はアイドルになった。そして廃遊園地のバックヤードで殺された。そんなことも知らずに母は、同じことを繰り返そうとする。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。母に認められたいと思う段階はとうに終わった。それでもこうして涙が出るのは、いつか分かってくれるのではないかと心のどこかで期待していたからだろう。
◇
美夏は涙を拭い、洗面台で顔を洗う。
鏡に映る自分を見て、なんてひどい顔なんだろう、また泣きたくなる。
「……明日には戻さないと」
アイドルが腫れた目で仕事に行くわけにはいかない。美夏は冷たいタオルを目元に当てた。そのとき、スマートフォンが再び震えた。……またか。ため息をつきながらタオルをずらし、画面を見る。次の瞬間、美夏の全身が凍りついた。画面に表示された名前は『天導隆一』──一瞬で記憶が蘇る。廃遊園地、夕焼け、笑顔、そしてあの声。
──『君にはスターになってもらう。後世に語り継がれる伝説のアイドルにね』
心臓が早鐘を打つ。天導からの着信は、記憶にはない展開だ。いったい何が起きたのだろう。歴史はどこに向かっているのだろう。震える指を押さえ込みながら、美夏は通話ボタンを押した。
「……はい」
『お疲れ様、美夏さん』
耳に届いた天導の声は、驚くほど穏やかだった。低く落ち着いた声音に、部下を気遣う理想的な上司の口調。廃遊園地での出来事はただの悪い夢だったのだと錯覚しそうになる。そんな気の迷いに根拠を与えようとするかのように、スマートフォンから天導の優しげな声が聞こえてくる。
『生放送、見ていたよ』
「ありがとうございます……」
『緊張しただろう? 初めての全国生放送だったからね。本当によく頑張ったね』
言葉も口調も、あまりにも優しかった。裏の顔を知らなければ、誰もが「面倒見の良い社長」だと思うだろう。実際、美夏もかつてはそう思っていた。父親のように自分を支えてくれる人だと信じていた。だからこそ、あの笑顔の裏に潜む本性を知ったとき、絶望した。
電話の向こうで天導の声が少し弾む。
『実はね、いい知らせがあるんだ。美夏さんに映画の出演オファーが来た』
「……映画、ですか?」
『知ってるかな。寿志清純(ずしきよすみ)監督の『君が消えた世界はまだ続いている』という作品だ。原作のWeb小説も、ものすごく売れているらしい』
美夏の胸が大きく脈打つ。
もちろん知っている。先日読んだばかりの、No.404の小説。駅前の街頭ビジョンで映画化が発表された、あの作品。回帰前の世界では、作者は寿志に訴訟されて命を落とした。しかしその未来は、おそらく訪れないだろう──
天導は嬉しげに話を続ける。
『美夏さんには、ヒロイン役として出演してほしいそうだ』
「……私がヒロイン役、ですか?」
『そうだ。しかも驚いたことに、原作者のNo.404先生が直々に君を指名されたらしい』
美夏は息を呑む。運命が大きく動いているのを感じる。
『もちろん正式な契約はこれからだけれど、かなり前向きな話だよ。詳しい話は事務所でしよう。明日の午後、時間を空けておいてくれるかな』
「……分かりました」
『今日はゆっくり休むといい。また明日』
通話はそこで切れた。部屋が静まり返る。
美夏はスマートフォンを握ったまま立ち尽くしていた。
映画の主演。しかも、原作者No.404本人の指名。それは新しい未来の到来を意味している。自分の内面の変化と、それに伴うほんの僅かな行動の変化が、どこかの誰かの選択を変え、歴史の流れを変えたのだ。そして何より──
──社長が……あの男が、こんな話を断るはずがない。
美夏はゆっくりとスマートフォンを置く。
胸の鼓動だけが、誰もいない静かな部屋にいつまでも響いていた。
コメント
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第7話読み終えたわ…美夏の母親の電話、めちゃくちゃ胸に刺さった。あの「疲れた」の一言に全部の諦めと決意が詰まってる感じがして、自分のことじゃないのに泣きそうになった。それでいてラストの天導からの連絡で一気に物語が動き出す感じ、続きが気になりすぎる。タイトルの「小さな蝶の羽ばたき」がまさに今回のエピソードを表してるなって思った。次回も楽しみにしてる📖