この町を訪れて西に東にとカメラを片手に歩き回って発見したハーロルトのひまわり畑を今日もまた撮影した後、トラムの周遊チケットをフル活用して少し遠出していたノアは、前夜祭で両親と待ち合わせている時間が近づいていることに気付き、慌てて己が宿泊しているホテルに戻るためにトラムに乗っていた。
ひまわり畑から少し街中へと戻った辺りをトラムが通り過ぎたとき車窓に小さな教会らしき建物を見かけたが、最寄り駅の停留場やその周囲の壁などに乱雑な落書き-決してそれらはグラフィティとは呼べない低レベルなもの-がなされていて、目にするだけでも不愉快だとサングラスの下で目を細めていたノアだったが、その停留場の横を何事もない顔で落書きを一瞥する事なく路地の奥へと進んでいくシスターの背中に心が惹かれてしまい、トラムの車内から見かけた教会の関係者だろうかと思案し、時間があれば教会へ足を向けてみようと決め、通り過ぎたばかりの停留場の名前を地図で見つけて印を付ける。
トラムの中は映画祭を心待ちにしていることが誰の目にも分かる程で、映画祭を記念して様々な企業が協賛セールをしていたり、映画館ではオールディーズと称される映画の上映をやっていたり、所謂単館でしか上映されないようなものも彼方此方の映画館で上映している広告などが車内に貼られ、通り過ぎる停留場の風防パネルにも広告が流れていた。
前夜祭では両親の友人達とも久しぶりに会えることも楽しみだと顔がにやつくのを何とか堪え、ホテルの最寄り駅に到着したことに気付いて慌ててトラムから降りる。
ホテルでタキシードに着替えて何があっても手放せないカメラバッグを肩に担いだノアは、ドアの横の姿見の前で身だしなみを確認し、特段褒められないが貶されることもないと己に囁くと招待状をバッグに入れたか再確認し、伸び放題になっている母親譲りのくすんだ金髪を一つに束ねて前髪を掻き上げ、よしと気合いを入れてホテルの部屋を出る。
そして、映画祭の熱気に充てられた人達が行き交う特設会場近くにまでタクシーでやって来た彼は、レッドカーペットと彼方此方で光るフラッシュや盛り上げてくれる音楽を聴きながら受付を探すと、セキュリティの警備員に求められるままに招待状を見せ、空港などとは比べられないほど簡単なセキュリティチェックを受けて中に足を踏み入れる。
そこは己が職場にする自然界からはかけ離れた人工的な美が溢れる世界で、少し前までの彼ならば敬遠していた場所だった。
だが、今回母が長年望んでいた助演女優賞にノミネートされたことから両親と久しぶりに食事をしたりと一緒の時間を過ごしていたが、映画祭までの間の余暇を利用して小さな仕事をいくつかこなしていた。
映画祭が終わり自宅兼スタジオに戻ってからの作業を終えれば納品できるまで仕事を進めていたノアは、今日と明日は純粋に己のため、両親のために楽しもうとも決めていた。
どちらかと言えば人工物よりも自然を愛する彼だが、目の前に広がる光景にはただただ目を奪われてしまう華やかさがあり、人物の写真を滅多に撮らないはずなのに思わずカメラを構えてしまう。
報道陣の許可証を得ていないノアがカメラを構えていると当然ながらスタッフの目にとまり、撮影を遠慮して欲しいと注意を受けるが、近くにいた売れ出しつつある俳優がそんなノアに手を差し伸べるように笑顔で彼の両親の名をそのスタッフの耳に囁きかける。
「……助かったよ、クルト」
「どういたしまして」
お礼ではないが今度一緒に飲みに行こうと若手俳優の中では母に可愛がられているクルトのウィンクに力なく返した彼は、両親はどこにいるのかと周囲を見回すものの姿を見つけることは出来ず、一緒にいた女性と談笑し始めたクルトに断りを入れて母を見なかったかと問いかけると、間も無く到着することをさっき小耳に挟んだと教えられ、おざなりに礼を言って背伸びをしつつ再度周囲へと目を向ける。
その時、特設会場の壇上に見慣れた背中を発見して声を掛けようとするが、一瞬のうちに人の波に飲まれてしまい、その背中を見失ってしまう。
「ウィルだったよな……?」
ノアが声を掛けようとしたのは父の背中だったが父にしてはがっしりとしていた事、髪も己と同じように首筋の上で一つに束ねていた事から父ではなく良く似た他人だったのだろうと己を納得させる。
それにもしあの背中が父だとすれば、隣に必ずいるはずの母の姿がないことも不思議だった。
己も驚くほどの仲の良い両親がパーティーなどの華やかな場所に二人でいるときに一人きりになるとは思えず、そのことからもやはりさっき見たのは別人だろうと結論づけたノアは、肩を叩かれて振り返り、そこに一時期父のスタジオでスタッフとして働いていた先輩カメラマンが笑顔を浮かべている事に気付いて手を差し出す。
「久しぶり」
「そうだな」
母のノミネートを祝う為にここにやって来たが、己に関係する人達とも久闊を叙すことが出来る意外な幸福に素直に顔を輝かせたノアは、先輩の問いに色々と答えながら特設会場の壇上前に肩を並べて向かう。
「今日は先生や奥様は?」
「ああ、もうすぐ来るって聞いた」
「そうか」
二人に会うことが出来れば彼女のノミネートの祝いと己のそれも祝って欲しいと笑う先輩カメラマンにノアの蒼い目が丸くなるが、彼の姿に気付いた女性が遠慮がちにノアに笑いかける。
二人揃って今回の映画祭に招待されたこと、彼女が監督した映画がショートムービージャンルでノミネートされた事を自慢げに教えられたノアだったが、先輩が自慢したくなる気持ちも理解出来た為に嫌味ではなく素直な気持ちからほぼ同時に顔を赤らめる二人に祝福の言葉を伝え、撮影の苦労などを聞きながら両親と会うまでの時間を何とか過ごすのだった。
ノアに少し遅れてホテルからタクシーで前夜祭の会場にやって来たのは、警察から脅迫状についての話を聞かされ、今日と明日の警備についての説明を受けて浮かれ気分が沈んでしまっていたヴィルヘルムとハイデマリー夫妻だった。
観客と招待客とそれらを一目見たいと集まる野次馬の中を何とかくぐり抜け、少し離れた場所から警備している私服刑事へと視線だけを向けたヴィルヘルムの口から溜息が零れるが、ハイデマリーがそんな夫の腕をぎゅっと掴んで視線を己へと向けさせる。
「マリー?」
「せっかくのお祭りよ、ウィル。楽しみましょう」
警察が教えてくれた脅迫状の事など忘れても大丈夫、ちゃんと警備してくれるからと、警察もただの税金泥棒ではないだろうと少女の顔で笑う妻に夫も己を納得させるように一つ頷く。
夏の日はまだまだ上空に留まっていたが前夜祭が本格的に始まる時間になり、特設会場を数え切れないほどの照明が照らして足下のレッドカーペットを重厚なものに見せ始める。
太陽の下では安っぽく見えるそれも照明効果で高価な意味のあるものに見えるのか、野次馬がひっきりなしに会場を取り囲んでいる特設のフェンスから中を覗き、見知った芸能人を見つけては顔を紅潮させて立ち去ったり、彼や彼女が移動するのに合わせてフェンスの外から移動していた。
その様子に感心していたヴィルヘルムだったが、視線をスポットライトが集中する会場の壇上へと向け、そこにメディアを通して見知った人達や直接顔を合わせる人達を発見し、なんだか奇妙な安心感を抱いてしまうと苦笑するとその気持ちは理解できると妻に返され、己だけではないそれについつい安堵の笑みを浮かべる。
赤い絨毯が敷かれた階段をいくつか登った先の特設会場、その入口付近で見慣れた背中を発見したヴィルヘルムは、安心感を抱くと言いつつも緊張に頬を紅潮させている彼女の腕を突いて注意を向けさせると見慣れた背中を指差す。
「あそこにノアがいる」
「……本当ね。いつ来たのかしら」
この会場で待ち合わせをしているが一体いつここに来たのかと訝りつつも息子が先に会場入りしている事に安堵の笑みを浮かべ夫を見上げたハイデマリーは、あの子の横にいるのは女王じゃないのかと夫が囁いた事に首を傾げて夫の蒼い双眸を覗き込む。
「女王ってどこかの国の?」
「いや、バルツァーの会長夫人だ。あの横にいるのは彼女の夫と息子だろう」
「バルツァー? ノアったらいつバルツァー夫人と知り合ったのかしら?」
人の山の向こう、階段の上とはいっても大小さまざまな頭の向こうに見え隠れする為にはっきりと顔を見ることは出来ないが、それでもそこで話をしているノアが親しげにしていることから、女王とまで称される稀代の実業家の夫人やその伴侶と一体いつ知己を得たのかと感心してしまう。
「バルツァー会長夫妻とも知己となれば色々お仕事が増えるかもしれないわね」
「そうだね……でもあの子はコネを嫌うからね」
だから自分の力で頑張るといってバルツァーの援助は断るかも知れないと息子の気性を良く知る父が苦笑すると、それ以上に知る母が微かな自慢を込めて大きく頷く。
「そうよ。あの子は人のコネなんて使わないわ。使う子だったら今頃あなたの名を使ってもっと悪どいことをしているわ」
実力で勝負をするのではなく他人を蹴落として己の地位を確保するような卑怯な男などではないと、己の息子が自慢だと言う代わりに笑みを浮かべる妻の頬にキスをしたヴィルヘルムは、映画専門雑誌の記者が取材を受けて欲しいとマイクを向けた事に気づき、妻の仕事に支障が出ないように一歩引いてその様子を見守っているのだった。
警備員やハイディ・クルーガーに送りつけられた脅迫状の存在からピリピリしつつ警備をしている警察や映画祭のスタッフが何事も起こらないように願いつつ有名人見たさに集まる野次馬を整理していたが、その中にステッキをついた盛装の初老の男がいて、人集りに四苦八苦しながらもなんとか会場の入口付近へと近付いていた。
「セキュリティチェックをしています」
入口で招待状をチェックするスタッフの声に頷きクラッチバッグを開けて中を見せる準備をした男は金属探知機のチェックを上手く躱せるかに鼓動を早めていたが、男の番になった時、バイトのスタッフらしき青年が他のスタッフに呼ばれてそちらに意識を向ける。
関係者や招待客など多くの人々をチェックしている為気が緩んだのか、それともそもそもやる気が無かったのか、男の前後数人がチェックを素通り出来てしまう。
その運の良さに胸を撫で下ろし、悠々とセキュリティを通り越して人だかりの中から少しだけ離れた壁際に向かうと、忍ばせた黒光りする拳銃をジャケットの上から撫でて溜息をこぼす。
この後己の目的を果たした時、あのバイトの青年はきっとセキュリティチェックをしなかったことでお咎めを受けるだろうが、すまないと思いつつも己の計画を実行する為には誰かが辛い思いをしなければならない、それが人生だと男が生きて来た中で得た厳然たる真理を口の端に皮肉げに浮かべた笑みで表し、どうかこの先の人生が幸多からんことをと、荷物か何かのように車から投げ出された夜に粘着性のある声が囁いた言葉を脳裏で蘇らせながら呟くと、赤い絨毯とその上を歩くことが許された人たちを守るための柵の外から何食わぬ顔で彼女らを見ながらターゲットの姿を探す。
そして男の視界にインタビューを終えたばかりのターゲットの背中が飛び込み、その隣に常に付き従うような男の背中も発見すると、遠い昔の粉雪が舞うクリスマスイブの夜の景色が一瞬で目の裏に浮かび上がる。
「――!」
あの夜、己の前で仲良く腕を組んでミサに参加する顔で教会に入っていった二人だったが、いつまで経っても姿を見せず、日付が変わって夜が明けても戻って来なかった。
クリスマス休暇が開けた頃、特徴の無い顔の警官が話を聞きたいと言って驚く男を無理矢理バンに乗せ、どこをどう走っているのかすら分からなくなるほど街中をぐるぐると回った後に連れ込んだ施設のリノリウムが貼られたあの部屋で、思い出すだけでも怖気が走る拷問のさなか、二人の行き先を知らないか、二人が亡命する事を教わっていなかったのかと質問を受けたことが自然と甦る。
その、男の目の中に宿っている澱の根源が一瞬にして目の裏から脳裏に広がり、男の身体が周囲の人が気付くほど震え始める。
「大丈夫ですか?」
そばにいた若い女性が心配そうに男に声を掛けるが男の意識はその声を捉えることができず、体を震わせながら少し離れた場所で華やかな世界に身を置く二人を睨みつける。
彼女が夫と腕を組んでレッドカーペット上を移動し階段を登り始めた時、男の目が懐古と憎悪を呼び覚ます二人から少し離れた場所に時を遡ったかのような錯覚を覚える懐かしい背中を捉え、身体の震えを忘れて呆然と目を見張ってしまう。
男が捉えたのはくすんだ金髪を首筋の上で一つに束ねてタキシードを着て楽しそうに笑っている背中で、それはいなくなることなど想像もしていなかった、あの頃毎日一緒に笑っていた在りし日の友の背中そのものだった。
あの夜、自由を手に入れたいからと古くからの友人ではなく付き合い出したばかりの彼女の手を取って物心両面で分断していた壁を乗り越えた二人が望み通りに自由を手にし、己が決して得ることの出来なかった地位や名声を手に入れて光り輝いている。
この差は一体なんだ。
粉雪が舞うあの夜を境に己の人生は朧気ながらに想像していたものから一転したのに、それを作った彼らは地位と名声という華燭で着飾り、過去に何もなかった、自分たちの行動の結果親友を苦しめたことなど一度もないと言いたげな顔で人生を謳歌しているのだ。
親友だと思っていた彼から何も聞かされず、付き合い出して日の浅い女に親友を奪われたにもかかわらず、秘密警察の聴取で足を悪くしてまで彼を庇った己は一体何なんだと、あの夜以降考えたくは無いがどうしても考えてしまう疑問を脳裏に浮かべた男は、人生の半分以上をかけて蓄積させたドス黒い感情が一瞬で胸に溢れるだけではなく、出口を求めて体内を駆け巡って脳味噌や視界を血の色に染めたことに気付く。
視界を血の色に奪われた感覚的なものが衝動となって全身を駆け巡った結果、突き動かされた手がジャケットの内側に潜り込んで素早くそれを引き抜くと同時に、一体どこからそんな声と力を出せるのか振り返った時に己でも理解できない力に突き動かされて大声で叫ぶ。
「ハイデマリー!」
階段を今まさに登り終えようとしているターゲットの名を叫んだ男は、周囲の喧噪や驚愕が一瞬で静かになるだけではなく、レッドカーペットに象徴される遥か天上から地上を睥睨している――様に男は感じた――世界から、粉雪の舞う夜と直結する視線で見つめられ、震える手で取り出した拳銃を構えるとどこか冷静な頭で安全装置を外す。
そして、男の脳裏に広がる世界を終わらせるように引き金を引くのだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!