それは、乾いた音とともに彼女の耳に届いた、くすんだ灰色の街を離れるときに捨てた二度と呼ばれることはないと思っていた名前だった。
人が行き交う階段の上、声の方へと顔を向けた彼女は、まるでスローモーションの様に己目掛けて飛んでくる何かを認識し、ああ、危ないとだけ感じるもののどうすることも出来なかった。
顔のすぐ傍を強い風を受けたときのような衝撃が走って身体が揺れ、隣にいる夫の腕を掴もうと手を伸ばした彼女だったが、赤く染まった視界が急に傾いだかと思うと、驚愕に染まる人々の顔や今まさに悲鳴を発しようと開け放たれた口が見え、最後に初夏の夕刻といってもまだまだ青く明るい空が飛び込んでくる。
その空は彼女が忘れ去ったと思っていてもふとした拍子に顔を出す過去へと一瞬にして連れ去ってしまい、その恐怖に口を開いて悲鳴を発するが、実際に己の口から流れ出た言葉を彼女は耳にすることは出来なかった。
彼女の視界が赤い血で染められたあの日との違いは、それが彼女のものかあの男のものかというだけだった。
一気に時が遡った視界であの日と同じように驚愕と興奮に目を瞠りながら己を見つめる夫に向けて彼女はもう一度手を伸ばすが、その手は彼に届くことはなく、己の身体が赤い絨毯にそれよりも濃い赤い血を撒き散らしながら倒れてしまうのを止めることは出来なかった。
「……ウィル……」
時を超えても己はあの時と同じ顔をして愛する人へと手を伸ばしているのだろう。そうしてその手を取った彼が己の名を叫ぶことも過去の経験から理解出来ていた彼女は、地獄を垣間見たあの日を生き延びた自分達だからきっと今回も大丈夫、だから安心してと告げたつもりだったが、出来たのは口の端を小さく持ち上げることだけだった。
赤が闇色に染まりだし、あぁ、もっと彼の顔を見ていたいと強く願った彼女だったが、不意に封印してきた過去の扉がゆっくりと開きそこから小さな白い手が見えたことに気付くと、恐怖に顔を歪めながらも扉が開き切るのを阻止するように手を伸ばすが、その手は赤い絨毯の上に力なく落ちてしまうのだった。
小さく動いた口をどこか遠い世界の事のように見ていた彼は、愛している妻がレッドカーペットに倒れるまでの動きも遠くの世界のように感じていた。
脅迫状が届き警察が警備をするので大丈夫だ、せっかくの映画祭を楽しもうと笑っていたばかりだったのに、その言葉を発した彼女が脅迫状の通りに狙撃され、血を流して倒れてしまったのだ。
その現実すらも受け入れられずに彼女の横に震える膝をつき、彼女の名を呼びながら血に染まるブロンドを撫でようとする。
その時、最も近くにいた女性が甲高い悲鳴を発し、それを切っ掛けに周囲に悲鳴が文字通り波のように伝わっていき、犯人を取り押さえたぞ、死なせるな、皆その場に伏せて動くなと言った怒声が頭上を飛び交う。
その声に背中がびくりと揺れて危うく彼女の上に倒れ込みそうになるのを堪えた彼は、止まらない血に顔面を蒼白にしてしまうものの、普段ならば出来るだろう止血の為の行動を取ることも出来ないでいた。
まるでついさっき歩き出した子どものように何も出来ずに蒼白な顔で自分と同じように青ざめた周囲の有象無象を見上げた彼だったが、視界に勢いよく飛び込んできたタキシード姿に気付いて一瞬で我に返る。
「ノア! マリーが、マリーが!」
あぁ、どうしよう、マリーが撃たれた、マリーが死んでしまうと覚えたての言葉のように繰り返す彼の隣にしゃがみ込んだ息子がジャケットを脱ぐと同時に血に染まったブロンドをそれで覆った事に気付き、自らも同じ事をしようとするが、救急車を呼べと叫ばれたことで今度は救急車の影を求めて周囲を見回してしまう。
己でも驚くほどの狼狽ぶりだったが息子は特に何も言わずに傷を負った頭部を他者の目から遮るようにジャケットで包んで少し力を込めて頭部を押え、血に汚れることも気にしないで腿の上で彼女の身体を支えていた。
あぁ、本当に頼りになる息子だと安堵した彼だったが誰かが名を叫ぶ声を聞いて顔を上げ、蒼白な顔で名を叫びこちらに向けて手を伸ばす息子の姿を発見する。
「マリー! 母さん!!」
「ノア……?」
自分と同じような狼狽ぶりで今にも転けてしまいそうな前のめりの姿勢で人を掻き分けてノアが駆け寄ってくるが、それならばジャケットで彼女の頭を包んでくれたのは誰だと漸く気付き、隣で膝をつく男の顔を覗き込む。
彼のぼやける視界に飛び込んできたのは年の頃ならばノアよりは上だろうが年齢を感じさせない不思議な雰囲気を持った顔で、心配そうに見つめてくる蒼い双眸と同じ色のピアスが両耳に控え目に日に照らされていて、妻そっくりな金髪を首筋の上で一つに束ねていたが、ノアが彼とは反対側に回り込んで母の顔を覆うジャケットを奪い取ろうとするのをマリッジリングが光る手が制止する様を壊れたロボットの様にぎこちない動きで追いかけてしまう。
「……止めろ」
「うるさい! 母さん、母さん!!」
制止する男の手を振り払うようにノアが叫んで尚もジャケットを取ろうとするが、その時、遠くの空に救急車とパトカーのサイレンが響き始める。
救急車が来たと誰かが叫び、その声を皮切りに地面に伏せていた人々が身体を起こそうとするのを制止する警察の呼びかけがむなしく響き、招待客や観客がちりぢりに逃げだそうとする。
「……逃げると手間になるだけなのにな」
茫然自失の彼とその息子の前でぼそりと呟いた男はジャケットを脱いだことで丸見えになっているホルスターから銃を抜き取ると、慣れた手つきで安全装置を外し銃口を空に向ける。
会場中に響いた再度の銃声に立ち上がろうとしていた人達は慌てて地面に伏せ、その様子に肩を竦めた男は彼女の身体を鄭重にカーペットに下ろして立ち上がり、狙撃体勢に入っている警察に向けて再度の発砲の意志はないと両手を挙げる。
「これで少しは落ち着くでしょう、警部」
立ち上がった男の顔を呆然と見上げた彼は、男が不敵な笑みで警察関係者と親しげに話す様を聞いているが、目の前で今にも泣きそうな顔で救急車を早くと呟く息子の顔を見て再度男の顔を見上げ、その横顔が自宅リビングや寝室に飾ってある、ノアが生まれた記念に二人で撮した写真の己とそっくりである事に気付く。
「……きみは……誰、だ」
彼の低い呟きに男が見下ろしてくるが彼の問いに対する返事は男の口からではなく、その場にいる者総てを竦み上がらせる力を持つ声によって背後からもたらされる。
「この馬鹿者! お前は何をしているんだ、リオン!」
「……親父、救急車が来る」
リオンと呼ばれた男は名を呼んだ威厳のある声にも全く恐れる素振りもなく、それどころかこの事態を楽しんでいるかのように聞こえる陽気な声で救急車が来るまでその場を動かないでくれ、ムッティを守っていてくれと返すと、再度しゃがみ込んで今度は彼と視線を合わせる。
「救急車が来る。頭を撃たれてるから出血が多い。救急隊員と一緒に病院へ行け」
「あ、ああ、それはもちろんだが……」
妻は、マリーは大丈夫なのかと男の白いシャツを血に汚れた手で掴んで揺さぶると少し落ち着けと苦笑されてしまうが、己と同じように蒼白な顔でこちらを見つめている息子の存在を思い出して顔を向け、ヴィルヘルムの視線につられたように男も顔を向け、蒼白な顔のノアと男が顔を合わせてどちらも瞬間絶句してしまう。
「!?」
「……マジかよ」
一方は事態の深刻さに少しだけ緊張を覚えているような顔でもう一方は蒼白な顔になっているが、年齢の差こそあれ良く似た面立ち、瓜二つと言っても良いロイヤルブルーの双眸、くすんだ金髪といった自分達を形作るパーツがそっくりなことに気付いて三人の男が呆然としてしまう。
「……もしかして、お前……ノア・クルーガー?」
「!?」
男が低く呟いた名に驚いたノアがあんたは誰だと返そうとするが、今までの飄々とした表情からは想像も出来ない顔で己が被せたジャケットを睨み付ける。
「……じゃあこれは……ハイディ・クルーガー?」
男のその呟きから彼とノアは誰が撃たれたのかを知らずに男が駆け寄り手助けをしてくれた事に気付き、ああと掠れる声で返事をする。
「俺の母でウィルの妻、マリー・クルーガーだ」
芸能活動はハイディ・クルーガーで通しているが自宅ではマリーと呼んでいると場違いになりそうなことを呟いたノアは男の名前を聞き出そうと呼びかけるが、人垣を掻き分けて救急隊員が担架を押しながらやって来たことに気付き、今は己に良く似た男の素性を確かめている余裕はないと救急隊員の傍に膝をついて動きを見守る。
「……リオン? お前がジャケットを?」
「お? ハリーか。久しぶりだな。女優なんだ、怪我してる所なんて写されたくねぇだろ?」
だから必要最低限の手当をここで済ませたらすぐに病院に運んでやって欲しい、この二人は彼女の家族だから車に二人も乗せていってくれと、背後でまだ呆然としている彼とノアを指さした男、リオンは、二人のその向こうを肩越しに振り返るが、クランプスも裸足で逃げ出しそうな顔で睨まれている事に気付いて首を竦める。
「とにかく、早く手当を頼む」
「ああ」
顔見知りの救急隊員に事情を手短に説明したリオンは二人の顔を交互に見た後、彼の指示に従って病院に一緒に行ってくれと伝えて手を上げると、恐ろしい形相で睨みつけている男の元に血に汚れた服のまま戻っていく。
その背中をぼんやりと見送った二人は、救急隊員の呼びかけに我に返り、彼女が狙撃されたときの様子を覚えている限り話し、着飾った紳士淑女が恐る恐る起き上がるのをただ見ているのだった。
警察の屈強な男に地面に押さえつけられる痛みの中、男が己の凶行の結末を見届けようと何とか頭を持ち上げる。
血を撒き散らしながら赤い絨毯の上に倒れこんだ彼女の姿をしっかりと脳裏に焼き付け、脳裏で降っていた粉雪が止んだことに気付いた男は、己がしでかした出来事の重大さに恐怖を覚えるよりも、粉雪が舞う長い夜がようやく明ける安堵につい笑みを浮かべてしまう。
何がおかしいと銃把で頬を押さえつけられて苦痛に顔を歪めるが、長い長い夜から漸く解放される、彼らが己の欲望だけを優先させた結果他者の人生をも破滅させたがようやくこれで溜飲を下げることができると、押さえつけられる痛みを感じていない顔で笑い声をあげた男は、後ろ手に手錠を掛けられると同時に引き立てられて蹌踉てしまうが、前後左右を防弾チョッキの人の壁に囲まれ、目的を達した為に抵抗するつもりなど一切無かった為にただ大人しく引きずられるように歩いていくが、防弾チョッキの壁の隙間から背後を振り返ったときに拳銃の発砲音が再度響き、男も驚きながら音の中心にいる長身の男を見つめる。
「!?」
そこにいたのは遥か時の彼方から姿を見せたかのような親友で、懐かしさと何故という疑問が男の脳裏を駆け巡る。
その発砲音に警官達が色めき立つものの中心にいるのが顔見知りの男だった様で、狙撃態勢を解除し両手を挙げて抵抗しない意思を示している男と話し始める。
過去から突如現れた様な男の顔をもっと良く見たいと思い、足を引きずりながら何度も振り返るが、それをさせない強い力に引きずられてしまい、警察のバンにいつかの出来事を彷彿とさせる扱いで乗せられた男は、サイレンを鳴らしながら走り出したパトカーの中で俯いているが、己の目的を果たせた安堵についつい肩を揺らしてしまうのだった。
女優の狙撃という凶行に及んだ犯人が連行されるのを見送った人々だったが、己がたった今経験した出来事が夢ではないのかと思い、またそうであって欲しいと願うが、あちらこちらでスマホやら携帯やらを取り出す人の行動から不安に駆られた人達が次々と何か情報がないかと探し始める。
現場に居るのに外からの情報の方が分かりやすいというのは変だと思いつつも、己が抱えた不安を解消するためにはとにかく情報が欲しい一心で機械を操作するのだった。
そんな周章狼狽の人々や慌ただしく指示を飛ばす警察の一連の動きを、前夜祭の様子を中継していたカメラが一部始終を放送しているのだった。
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