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矢嶋の後を黙々と歩きながら、私は彼の背中をにらんでいた。
仕事場では、彼も社会人として真っ当な態度で接してくるだろうと思っていた。それなのに、あのおかしなあだ名で呼んだりするなんてと、私の胸の内は怒りでいっぱいだった。いつもならばその場で言い返したりするのだが、辻の前では恥ずかしさの方が勝り、黙っていた。しかしやはり、文句の一つも二つも、いやそれ以上に言ってやらないと気持ちが収まらない。
その一念が届いたのか、私の前を歩いていた矢嶋が不意に立ち止まった。先程までの不機嫌さはいったいどこへ行ったのか、振り返った彼は私の顔をしげしげと見て、にやりと笑った。
「いつにも増して、ますますいい感じに、大きなたこ焼きが乗っかってるじゃないか」
この前、あの夜は、無駄にいい声で私の名前を呼んだりしたくせにと、その涼しい顔にますます怒りが湧いてくる。
「いい加減に……!」
言いかけて、その先の言葉を飲み込んだ。廊下のあちら側から、局内の人と思われる一団がやってきたのだ。彼らはすれ違いざまに矢嶋と挨拶を交わしていく。
その中に、ぽうっと熱に浮かされたような目をして矢嶋を見ている女性がいた。通りすがりに彼女は私に怪訝な目を向けたが、そこにあったのは敵意か、あるいは嫉妬だった。
そういった類の視線を向けられたのは、その時が初めてではなかった。ここまで来る間に出会った妙齢の女性たちのほとんどが、矢嶋の後ろを着いて歩く私に訝し気な目を向け、顔をしかめていった。その顔にはこう書かれていた。
―― どうしてあんなのが矢嶋さんと一緒にいるのかしら。
その度に私は心の中でふふんと嗤った。黙っていればかっこいい人だけれど、実はとっても性格が悪いのよと、心の中で思いながら、彼女たちの悪意ある視線をやり過ごした。
徐々に人とすれ違うことが減って行き、しばらく進んだとある一画で矢嶋の足が止まった。
「たこ焼きちゃん、着いたぞ。ここだ」
「私、そんな名前じゃありませんってば!」
「そんなに怒った顔するなよ。俺がいじめてでもいるみたいじゃないか」
「人が嫌がることを言ったりするのは、れっきとしたいじめですよ」
「ふぅん」
「ふぅん、って……」
飲み会の席でしかしないようなやり取りを、まさか職場でもする羽目になるとは思いもしなかった。手応えのない彼の反応に呆れている私の前で、矢嶋は見るからに重たそうなドアを開ける。
「入って」
「は、はい……」
矢嶋に促されて、私は薄暗い部屋に恐る恐る足を踏み入れた。
後に続いて入って来た矢嶋は扉を閉め、私のすぐ後ろの壁際にあるスイッチを押した。
ぱっと明るくなった部屋の中を、私はきょろきょろと見回した。
彼は私の傍を通り抜け、もう一枚の扉を開けて、さらに奥の方の部屋へと進む。
「こっちだ」
彼の後に続いて入った部屋は窓が大きく切られていた。そこから外の景色が見える。楕円形のテーブルがあり、その周りには座り心地の良さそうな椅子が数客置かれていた。廊下側の壁の一部には分厚いガラスが入っている。その向こう側から、スタジオの様子を見ることができる造りになっているらしい。
「ここがスタジオ。そっちがマスタールームだ。あそこにある機材を使って放送するわけだ。あれは技術スタッフの仕事だ。ディレクターもあの場所から色んな指示を出したりする。仕事内容は、もう辻さんから聞いてるんだよな。バイトの子と二人でやってもらうから、ま、大丈夫だろう。何か分からないことがあったら、その場でバイトの子か辻さんに聞いてくれ。さて、マスタールームの方に戻るぞ」
つらつらと説明の言葉を述べてから、彼は私の先に立ってスタジオを出た。
マスタールームの機材を背に立ち、彼は説明を続ける。
「ここでリクエストの電話を取ってもらって、メモしたそれに、辻さんが目を通す。で、あとはアトランダムに選んで流すって感じだな。何か質問はあるか?」
辻の説明を聞いた時もそうだったが、矢嶋の説明もやはり大雑把だった。実際にやってみるしかないと思いながら、私は首を横に振る。
「今のところは特にありません。とりあえずは、よろしくお願いします」
私は真面目な顔で彼に頭を下げた。いつもこれくらい普通に話して接してくれれば、彼に苛立つこともないのにと、こっそりと思う。
「ところで、今日はこれでもう終わりでしょうか?私、もう戻ってもいいですよね?」
「まぁ、そう言わず、もう少し話そうぜ」
「話?」
私は眉根を寄せた。二人きりなのをいいことに、いつもの調子で私をからかうつもりなのかと警戒する。
「仕事の話ですか?」
「仕事以外の話はだめなのか?」
「仕事以外の話なら、飲み会の時にでもしてください。あ、でも、先輩の傍には近寄らないよう、十二分に気を付けるつもりですけど。それでは私はこれで失礼します」
私は彼に背を向けて、出入り口の扉に手をかけた。重たい銀色の取っ手を動かそうとした時、矢嶋が背後に立った。
#海辺の町
#ワンナイトラブ