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会長邸1階にある吾妻家専用のレストラン。
朝食がずらりと並んだテーブルには沈黙が流れていた。
いつも家族6人で囲むテーブルには、たった3人だけが座っている。
「美憂ねえさん、顔色がよくないですね……。本当に大丈夫ですか」
朝食の席につくのは、2番目に生まれた「ジョー」。
パンプアップされたような筋肉をもった、運動能力に長けた吾妻勇信だ。
「あまり気にしないでください。私のことなんかより勇信さんのほうが心配です。今日から仕事復帰なさるんでしょ?」
吾妻美優(あづまみゆ)は夫である勇太を亡くしてから、はじめて朝食の場に姿を現した。
薄い化粧で顔を覆ってはいるが、目もとや頬にはうっすらと黒い影が浮かんでいた。
「どちらかというと、はやく会社にいって仕事に忙殺されたい気分です」
ジョーはそう言ったが、心の中にはべつの思いがあった。
――仕事はビジネスマンがいるから心配ない。俺はとにかく朝のトレーニングに没頭したい。
「ねぇねぇ、パパはいつ帰ってくるの? あと、おばあちゃんはいつになったらいっしょにゴハンたべれるの」
勇太の娘、さくらが尋ねた。
「さくら。おばあちゃんはずっとおねんねしてて、よくなるまでもう少しかかるの。それと何度も言ってるけど、パパは――」
吾妻美優はそれ以上言葉をつなげることができなかった。
ジョーがすばやく補足する。
「さくら。朝ごはん食べたら、おばあちゃんのところに行ってみよっか。さくらが会いにいけば、きっと喜んでくれるよ」
さくらは浮かない表情で、「うん」と答えた。
もうすぐ5つになる歳だ。死というものについて詳しくわかってなくても、無邪気に笑ってもいられない年齢になったのだろう。
父がもう帰ってこない。そう理解はできても、次の瞬間にはまた父を探す。
姪っ子の純真無垢な姿を見るたびに、勇信の心は針で刺されたように痛んだ。
今勇信にできるのは、たとえ短い時間であっても姪っ子の興味を他へと逸らすこと……。
「さくら、朝ごはんちゃんと食べるんだよ。クリームスープにパンを浸して食べたらすごくおいしいからね。あとがんばってサラダも食べようね。お肌がツルツルになって、今よりもっともっとかわいくなるんだよ」
「さくらはいまでもかわいいんだよ?」
吾妻さくらが堂々とした顔で言った。
「今もかわいいけど、もっともっとかわいくなれるよ。そしたらいつか王子さまがやってきて、結婚してくださいって言われるかもしれないよ!」
「王子さまはテンゴクに行きました」
さくらの何気ない言葉にテーブルが凍りついた。「パパは王子さまなんだよ」といっていた彼女の言葉が浮かぶ。
「さあ、さくら。勇信おじさんは会社に行かなくちゃいけないから、急いで食べなさい」
吾妻美優はスープをすくい上げて、さくらの口に運んだ。
ジョーもスープを一口飲み、ほうれん草のソテーを食べた。
兄のことがあって食欲はあまりなかったが、それでも忙しいスケジュールを考えるとできるだけエネルギーを蓄えておかなければならなかった。
そのとき、携帯電話にメッセージが入った。
[使用人に見つからないように、ちゃんと朝食を持ってきてくれよ]
朝食の席につけない別の勇信からのメッセージだった。
ジョーはすぐに返信した。
[二日酔いのくせに空腹を訴えるのか]
しばらく返信を待ったが、それ以上メッセージはこなかった。
ジョーは父の本邸で朝食をとりたいといったビジネスマンを押しのけて座っている。
早朝のトレーニングを終えて強い空腹を感じていたことと、さらなる筋肉を作るための栄養素をないがしろにしたくないからだった。
8人掛けのテーブルには、ナイフとフォークの音だけが鳴り響いていた。
吾妻美優もどうにか食べようとサラダを口にしたが、ほとんど機械的に咀嚼しているだけだった。この場に彼女の魂は存在しない、そんなふうに思えてならない。
食事を終えたジョーは、さくらを連れて母のいる部屋へと入った。
母、吾妻恵の腕には点滴が刺さっている。
恵は次男と孫娘がきたのを確認すると、ゆっくりと半身を起こした。
「お母さん、無理せず横になっててください」
「息子と孫がきたのに寝てばかりいられないわ。それと少しでも動かしておかないと体が固まっちゃうから」
母の姿が不憫でならなかった。
吾妻グループの会長であり夫である和志が植物状態になって久しく、今度は長男の勇太まで失った。
思いもよらない苦悩の連続に、彼女の体は異変をきたしたのだろう。
「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
さくらが点滴の管を見ながら言った。
「さくら、おばあちゃん少しずつ良くなってるから心配ないよ。何日かしたら一緒に散歩に出かけて、遊園地にも行こうか」
「ゆうえんち!? いくいく! でもどうして前にいったとき、ゆうえんちには誰もいなかったの? おともだちがたくさんいるほうがたのしいのに」
「お友だちが多いと、乗り物に乗るのにたくさん待たないとならないわよ?」
「うーん……まつのは好きじゃない」
「そう。だから貸し切るほうがいいのよ」
「さくら、ちょっとおばあちゃんとお話があるから、そっちのソファでテレビ見ててくれるかな。」
「うん、わかった」
吾妻さくらはソファに座り、朝のこども番組を見はじめた。
まだカタカナが読めないため、画面上のひらがなだけを目で追っている。
母・恵(めぐみ)は幼くして父を亡くした孫娘を、哀れみの目で見つめた。
母の表情だけでは正確な情報を読みとれなかったが、少なくとも肯定的な要素はひとつもないように見えた。
「勇太がもういないだなんて、いまだに信じられないわ」
母は窓から見える松の木を眺めながら言った。
「でもお母さん、今はとにかく体調を回復させることだけ考えてください。さらに頬がこけてるじゃないですか。もしこのまま病気にでもなったらどうするんですか」
「わかったわ」
恵は腕に刺さる点滴に目をやりながら言った。
「勇信、あなたのほうこそどうなの。どこかに異常が出てたりしない? あなたこそ絶対に病気になっちゃいけないのよ」
「ええ、ぼくは大丈夫です。今日から仕事にも復帰しますし。グループ全体をこれ以上混乱させるわけにはいきませんので」
「あまり無理せず、とにかく健康第一でね。あなたまでこの呪われた運命に巻き込まれたら、私は耐えられないわ」
彼女はそう言ってベッドに横たわった。
「心に留めておきます。では会社に行きますので、あまりふさぎ込まずにいてください」
ジョーは本邸を出て自身の家に戻った。
他の勇信のためにもってきたパンをポケットから取り出す。
そのとき、何か粘りつくような不快感がジョーの頭にまとわりついた。
「呪われた運命だって? どういう意味だ……」