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「おはようございます、常務……」

「常務、お元気でしたか……」

 

5日ぶりに出社すると、全社員が沈鬱な表情で勇信を出迎えた。

 

彼らが心に抱くのは、副会長の死に対する悲しみではない。

間もなく自分たちに降りかかるかもしれない、改革という名の変化。トップが変わることによる、大規模な組織再編を恐れているのだ。

 

スーツに身を包んだのは、「ビジネスマン」吾妻勇信。

兄を失った痛みを深くに押し込め仕事を再開する。副会長亡き今、自分がトップとなって未来を創っていかなければならない。今後グループをどう率いるべきか。勇信の肩にはすべての社員の命運がのしかかっていた。

 

――勇信、何も心配する必要はない。俺が必ずグループを守るから。

父が植物状態に陥ったときに言った兄の言葉だった。

 

執務室の椅子に座りパソコンをつけると、魚井玲奈秘書がお茶を持って入ってきた。部屋に茶葉の香ばしいにおいが漂った。

 

「昨日結構飲まれたようですね。熱い緑茶を用意しました」

 

「魚井秘書。まず最初に、業務の改変を指示しておく」

勇信は緑茶に目もくれずに言った。

 

「はい、何でもおっしゃってください」

 

「今日をもって、私の家の秘書室を全面廃止とする。本日の業務が終わり次第家にきて、荷物をまとめてくれ。他の秘書のものもすべてだ」

 

「はい。承知しました。ただ……」

ビジネスマンの指示に驚きはしたものの、魚井玲奈は冷静だった。

 

「ただ?」

 

「今後の業務に支障がでませんか? 週末の会議や緊急な事案が発生した際に、混乱が起こりそうな気がするのですが……」

 

「少し、楽にしてやりたくてな」

 

「はい?」

 

「いつも秘書たちには苦労をかけてばかりだったからな。プライベートな時間を過ごせるようにしてあげたいんだ」

 

「常務。そんなことを考えてらっしゃったのですか」

 

「俺も人間だからな」

 

「ありがとうございます。ですが本当に決定事項でしょうか? 見直しの可能性はありませんか」

 

「どうしたんだ」

 

「常務のご提案には感謝しております。また配慮に感動もしました。ですが私は常務を完璧にアシスタントするという義務があり、秘書室の閉鎖によって支障が出ないか心配しております」

 

「決定事項だ」

ビジネスマンはお茶に手をつけ、ゆっくりと一口飲んだ。

「今日をもって秘書室は閉鎖する。また今後私の許可なく邸宅への出入りも禁止とする。他の秘書だけでなく、魚井秘書も同様だ。それと昨日伝えたように、当面は使用人たちの立ち入りも禁じてくれ」

 

「はい。承知しました」

 

ふぅ、とビジネスマンはため息をついた。

「副会長が亡くなってから、いろいろと考えたんだ。私には経営陣としての責務もあるが、少しは自分の時間も確保する必要があると感じた。人はいつどのような形で終りを迎えるかわからないからな」

 

今朝、組んでおいたシナリオに合わせたセリフだった。

起業家としてバリバリ働きたいビジネスマン勇信と、肉体のさらなる鍛錬を望むジョー。家から出るのを禁じられた母体、キャプテン。

吾妻勇信がこの世に3人もいることが世間に露呈しないためには、誰も家に入れるわけにはいかなかった。とにかく人の出入りを厳しく管理し、生活をひとりでできるよう学ばなければならなかった。

 

「承知しました。指示に従います。本日の仕事終わりにすぐ荷物をまとめます。ただ主治医の那須川先生はお呼びしておいてもよろしいでしょうか。常務の顔色がよくありませんので、一度先生に診てもらってください。あと使用人については吾妻常務の出勤時間に合わせて出入りするよう通達しておきます」

 

「いや、ダメだ。先生も使用人も含め、とにかく誰も家に入れないでくれ」

 

「えっ? となると生活に不便が生じてしまいますが」

 

「それでいいんだ」

 

「……はい」

魚井玲奈が不審な表情を浮かべた。

 

「魚井秘書。それとひとつ聞きたいことがあるんだが」

 

「はい、何なりと」

 

「昨日紹介したトレーナーについて、正直に答えてくれ。本当に俺より良い肉体美を誇っていたのか?」

 

「そんなことを気にされていたのですか」

 

「いいから答えるんだ」

 

「……えっと、ほんの少し」

 

「ひと目見ただけでどうやって違いがわかった」

 

「違いですか?」

 

「俺は彼に比べ、そんなにも劣っていたのか? 正直に話してくれ」

 

「す、すいません。ただなんとなくのイメージで話しただけです。常務のトレーナーさんであり、現役のプロ格闘家だとおっしゃってたので、イメージが先行してそう見えたのかもしれません」

 

「どのみち俺の負けだということだな。わかった。さらに鍛える必要がありそうだ」

 

「その必要はありません。常務はスポーツ選手ではなく、じきに最高経営者となるお方です。企業家の中では群を抜いて立派な肉体美をお持ちだと言えるでしょう」

 

「ふん、うまく逃げたな」

 

「逃げたなんてそんな……」

 

魚井玲奈は副会長の死については一度も触れることがなかった。普段は無駄口の多い彼女であったが、今日はやるべきことだけに集中しているようで、その行為はビジネスマンにとってむしろありがたいものだった。

 

「午前中は緊急案件の処理を進める。今から誰も入ってこないよう頼む」

 

「はい。あと企画室から連絡がありました。副会長の就任式は来月一日を予定しているとのことです」

 

「ああ、問題ない」

ビジネスマンはためらいがちに言った。

兄が死んだために生まれた仕事は、まるで気が進まないためだった。

 

「またご指示をいただいた通り、本日吾妻建設企画部の堀口ミノル課長との昼食会もセッティングしておきました」

 

「もうこっちには着いてるのか」

 

「今どちらにいらっしゃるかはわかりませんが、約束に遅れるような方ではないと考えます」

 

「そうか、ならそれまでに処理すべきものを終えておかないとな」

 

魚井秘書が扉を閉めると、ビジネスマンは最高速でキーボードを叩きはじめた。

俺は一億人 ~増え続ける財閥息子~

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