僕は体が別段丈夫な訳では無い。だと言うのに条件に当てはまる子供が僕だけだった。だから選ばれてしまった、村を守るための人間に。
5日間の不愉快な禊を頭痛の中で耐え抜いた。翌日、山の中にて試練の神を下ろす儀式が行われる。神に対して自身の身体を神のものだと思って扱うと誓わされた。瞬間に僕の体は軽くなったように思う。無事に神が降りてきたようだ。
僕は教会とは反対側の区域に住むようにと言い渡されたので従う。衣服や食品は教皇がおおよそ決めて配達を頼んでいるようだ。だと言うのに肉料理を毎食分、送られる。ということは愛の神として祀っている訳では無いということか。
時折、信者が戸を叩いて接待を要求してくる。それに応えるのが試練の神を下ろした僕の役割なのだとか。5日間の不愉快な行為は禊のみが目的ではないようだ。それが要求と重なる、または重ねることを伝統としていたか。試練と名乗るほどだ、起源は誘惑に負けぬようにと教育することだったのだろう。しかし、今となっては夜の憩いの場だ。予約制であり、回数が過ぎれば教会にお金を払う事になる。本来の教えでは婚姻している男女のみが許される行い。だが、それ以外と1度だけ行い、2度目を行ってはならない、欲望に従ってはならないという試練を与える役目だった。これでは淫売婦と何ら変わらない。
伝統というのは全く信じられない。古きものを伝え、後世に続けさせるものであろうに、ニュアンスや様式が時代に合わせて移り代わってしまう。この村も同じくだ。古きを重んじずして何が伝統なのか。やはり人間は口ばかりだ。
試練の神のおかげで軽くなった体も、他者の陰を癒すためだけのものとはなんと悲しいことか。是非とも自分のために使わせて頂きたいものだ。例えば、時々手紙をくれる僕の兄を名乗る人間に会いに行くとか。1度、母に聞いたことがあった。一人称が僕と同じで、僕の生みの父にストレスの捌け口にされているとか。しかし、それも本人の友人が招いたことで、そんな友人を持った本人も悪いと母に言われていた。兄という人間は母に嫌われているようだ。
「Armer Bruder, willst du, dass ich dich tröste?」
(可哀想なお兄さん、僕が慰めてあげようか?)