さすがにこの状況は想定外だったのだろう。
社員のほとんどがわらわらとひしめき合う四階フロアの廊下を見回しながら、仕立てのよいスーツを着た五十代にいくかいかないかといった風情の男が、岳斗の方へ近づいてくる。
その男が歩を進めるたび、まるでモーゼ現象で海がパックリ割れて道が出来るかのように、人波が左右へ分かれて彼を通した。
それで難なく岳斗と杏子の元へとたどり着いたその男は、岳斗を真正面からひたと見つめてくる。
岳斗は自分より年配の――しかも地位がありそうな男を前にしても微塵も怯む様子なんてなくて……そればかりか
「近衛社長、ご無沙汰しております」
まるで対等か、もしかしたらそれ以上の立場ででもあるかのように不適に笑い掛けて手を差し出すのだ。
皆が注目する中、〝近衛社長〟と呼ばれた男が、恭しく岳斗の手を握り返した。
近衛社長は岳斗の後ろで小さくなっている杏子へ視線を移すと、
「えっと……そちらはうちの経理課の?」
「はい、美住杏子さんです」
などといきなり名指しにしてくるから、杏子はどこか緊張した面持ちながらも丁寧に会釈をせざるを得なくなる。
「岳斗お坊ちゃん、今日は花京院様の命でうちの社員らを集めていらっしゃるのでしょうか?」
普段はその名を冠した男の息子だということを微塵も認めたくない岳斗だったけれど、今回だけは否定せずに利用させてもらおうと心に決めた。
「いえ、父の指示というわけではありませんが、こちらで僕の大事な女性がいわれのない誹謗中傷を受けているのを知りましてね」
岳斗の口からさらりと出た〝大事な女性〟という発言に近衛社長のみならず、杏子も息を呑んだのが分かった。だが当の岳斗は素知らぬ顔のまま続けるのだ。
「パワハラ・セクハラまがいのことまで起きているようでしたので急いで駆け付けてみたのですが……思いのほか状況が悪くてどうにも看過できなかったのです」
「そ、それは……」
「近衛社長の監督不行き届きとも取られかねない事態ですしね……場合によってはあの人に報告を上げねばならないかな? とも思っています」
にこやかに微笑む岳斗に、近衛社長が明らかに動揺したのが分かった。
「そ、それはどのような問題でしょうか? よろしければわたくしにお聞かせ頂けませんか? もしかしたらお父様の手を煩わせずとも対処できるかも知れません」
岳斗の不遜とも取れる態度を咎めもせず、そればかりかどこか下手に出ているようにさえ見える自社の社長の態度に、岳斗に食ってかかっていた安井がオロオロと視線を彷徨わせ始める。
近衛社長はそれを見逃さなかった。
「キミ……えっと……」
「経理課のヤスイアヤナさんです」
わざとらしく安井の所属とフルネームを示唆した岳斗に、安井が一瞬だけ恨みがましい目で岳斗を見たけれど、岳斗はしれっとしたものだ。
「あー、そう、経理課の安井くんだ。キミ、なんだか岳斗くんと揉めているように見えたんだが……気のせいかな?」
「あ、あのっ、私……」
安井は縋るような目で岳斗を見たあと、周りにいる社員たちにも助けを求めるみたいに視線を投げ掛けた。けれど皆とばっちりを食いたくはないのだろう。そそくさと視線を逸らした。そうしてそれは、これまでならばいつも安井を守ってくれていた取り巻き二人にしても同じようで、今や安井は完全に孤立無援に見えた。
(ま、こういう体質の会社だよね)
岳斗はそれを見て心の中で密かに嘆息する。土恵商事に全く問題がないとはいわないけれど、ここまで腐ってはいない。それを誇らしく感じると同時に、やはり花京院岳史が関わっている会社はろくなものじゃないなと実感する。
岳斗は小さく吐息を落とすと、「そもそもの原因を作ったのはそこで呆けている営業課のササオユウスケさんなんですけどね」と近衛社長へ報告した。
ある意味安井に助け舟を出したみたいになってしまったが、まあこのぐらいで彼女の罪が軽くなることはないだろう。
「……笹尾くんが?」
笹尾雄介は社のエースと謳われている男だ。さすがに彼まで断罪対象なのだと言われるとは思っていなかったのだろうか。近衛社長が小さく息を呑んだのが分かった。
コメント
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ワクワク☺️