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「ロキソニンと、こないだの送迎のお礼。……ここ、ランチならそんなに高くないし、美味しいのよ」
午後一時。オフィス街の喧騒から逃れるように潜り込んだ一軒家の隠れ家イタリアンは、俺にとって完全な「異世界」だった。
社内にいるときは社員食堂、外回りのときはコンビニで済ませる俺にとって、真っ白のテーブルクロスは直視できないほど眩しかった。ジャケットを脱ぎ、ブラウス姿になった雨宮主任が、慣れた様子でコースを注文した。
「そんなに固くならないで。王子谷はまだ若いんだから、こういうお店を知っておくのはデートの練習にもなるでしょ?(笑)」
メニュー表を見つめる彼女が、悪戯っぽく微笑む。その軽やかな言葉に、冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。
「……そんな相手、いないっすよ」
「あら、もったいない。王子谷みたいな『いいお兄ちゃん』なら、女の子が放っておかないと思うけどな」
――まただ。「お兄ちゃん」。
彼女の中で、俺は最初から恋愛の土俵にすら上がらせてもらえていない。苦いコーヒーを流し込み、込み上げる黒い感情を無理やり胃の奥へ押し戻した。
「あ、これ美味しい……っ」
食後のデザートに届いたアフォガード。
バニラアイスに熱いエスプレッソがとろりと溶け出すそれを一口食べ、主任がにっこりと微笑んだ。
「……ん、幸せ……」
ポツリと漏れた独り言。それは、オフィスで見せる冷徹な上司の仮面を完全に脱ぎ捨てた、子供のように無防備な笑顔だった。
(……っ、反則だ)
スプーンを咥えたまま、少しだけ首を傾げて微笑む彼女。
今、このまま手を伸ばして、その白い指先に触れてしまったら。「部下」という安全な立場を捨ててしまえたら。
「ごちそうさま。さて、午後も頑張りましょう」
主任がスマートに会計を済ませる。
篠原愛紀
#独占欲