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「ねえ、清ちゃん。これからどうなっちゃうのかな?」
扉越しに和美はそう呟いた。私は何も言わず黙ったまま、頭から布団を被り、じっと動かないでいた。痣が残って痛む頬をガーゼ越しに撫でる。
昌一が逮捕されてはや二日。由乃の敵討ちを果たしたはずなのに、私の心には暗い帳が落ちたまま、大切な物の輪郭すら見失ってしまう心地がしていた。
私は薄暗い布団の中で、スマホが発する淡いブルーライトに照らされる。そこに映っていたのは、二人並んで流行りのスイーツを頬張る真澄と私だった。 チクリと棘が刺さったような痛みが走って、私は枕に顔を埋めて泣いた。
しばらくそうしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。遠慮がちに扉を叩く音が聞こえて、私は目を覚ました。
まだちゃんと開かない眼をこすり、扉に手をかける。和美が訪ねて来てからもう数時間も経っていたから、彼女ではないと安心して私は扉を開けた。軽く開けた扉の小さな隙間から、隈を作った母が見えた。
「あら清香、起きてたのね。もう晩ご飯の時間だから降りてらっしゃい。今日は母さん、頑張ったんだから」
母は私と似て、よく考えすぎてしまう人だ。頬に大きな痣を作って帰って来たと思えば、それから学校に行かなくなってしまった娘を見て、また眠れなかったらしい。目元に浮かぶ隈が痛々しげだった。だが今はなぜか、その目はキラキラと輝き、どこか嬉しそうに見える。それが少し引っかかったが、さあさあご飯ですよ、と母が楽しげに急かすから尋ねることも出来ずに私は階下に降りる。
私がダイニングに入ると、既に床に座り込んでいた人影が、バッと一斉に振り返った。一人は私の兄で、いつも何も考えずニコニコしているような男なのだが、今日は若干引き攣った笑みを浮かべていた。もう一人は、私が眠りにつく前に扉を叩いていた少女だった。
「お、清ちゃん起きたー。ご飯食べよー」
私は目の前の兄と全く同じ表情をする。仮にも友人の手前、嫌そうな顔なんて出来なかったが、嬉しそうな笑顔を作るなんてそれこそ出来なかった。
「・・・・・・東條さん、何で居るの?」
「今ね外がめっちゃ吹雪いてて帰れそうにないってのと、あと今日はママが泊まりの仕事だから家に一人って言ったら、どうせなら泊まっていけばっておばさんが言ってくれたんだよね。てことで清ちゃん、今晩はよろしく!」
元気いっぱい、吹雪も晴れてしまいそうな笑顔で、和美は親指を立てた。とうとう私は表情を取り繕えなくなって、あからさまに顔を顰める。兄はアハハと乾いた笑い声をあげ、目線だけで助けを求めていた。
私はため息をつく。母が浮ついていた理由はこれだったのか。私はいつもご飯を食べるときの定位置である、和美が座る隣に腰を下ろした。彼女は横でお腹を摩りながら上機嫌に鼻歌を歌っている。
やがて、同様に上機嫌で鼻歌を歌うやけに張り切った母が、湯気の立ち上る鍋を手にダイニングへとやって来た。
机のちょうど真ん中に、ゆっくりとそれが下されて、和美はそわそわと落ち着かない様子で、身を乗り出し中身を覗き込んだ。わぁ、と頬を赤らめながら恍惚とした表情で彼女は声を漏らした。その瞳は子供のように輝いている。
私もその姿に釣られるように身を乗り出す。和美より少し体を伸ばして、やっと見えたのはすき焼きだった。母の言っていた頑張った、とはお値段の方らしい。グツグツと煮える音とともに、湯気に揺られたすき焼きのタレの甘い匂いが私のお腹を誘惑する。和美の前だというのに私の小さなお腹は恥知らずで、その小ささからは考えられないほど大きくファンファーレを奏でた。
恥ずかしくて、顔を見られないよう兄の方を見ていたら、母が生卵と小さな取り皿を持って戻って来た。母は晴路も手伝って、と兄を引き連れてキッチンへと戻っていく。その後すぐに、手に白米の盛られたお茶碗を持って二人は帰って来た。
人数分並べられたお皿を前にして、私たちは各々箸を手に持つ。和美は手を合わせていただきますと言うと、私が目をつけていた高そうなお肉に箸を伸ばした。
ギャーギャーと騒がしい食卓を前にして、清香の母は目尻に浮かんだ雫をこっそりと拭う。先ほどから、茶碗に盛られた少しの白米に全くと言って良いほど手をつけていない。晴路はその様子が気になったのか、常に細められている目で不思議そうに見つめると彼女に尋ねた。
「母さんどうしたの? せっかくのすき焼きなのに食べないの? 清香に全部取られるよ」
熱々の豆腐を器用に小さく切ると、フーフーと息を吹きかけてそっと口に運ぶ。その間も視線はチラチラと母に向けられていた。
「良いのよ、母さんは。美味しいのはみんなで食べなさいね」
そう言うと彼女は、少し冷めた長ネギと一緒に白米を頬張った。その頬が緩んでいるのは、長ネギが美味しいからだけでは無いのだろう。
噛み締めたすき焼きの味は、何だか塩っぱい。そんな事は素振りにも出さず、清香の母は食卓を見渡す。彼女はただ、温もりを感じて微笑んでいた。
お風呂から上がると、ちょうど皿洗いの終わった清香の母と、ばったり顔を合わせた。ウチはニコリと微笑むと彼女に明るい調子で話しかける。
「お風呂ありがとうございました! すき焼きもとっても美味しくて、今日は本当に最高です!」
まだポカポカと冷めない頭で、私は心に浮かんだことをそのまま言葉にした。すると彼女はほろりと目から涙を溢したので、ウチはギョッとして駆け寄る。
「え、どうしたんですか? 体調悪いんですか?」
首からかけていた髪を乾かす用の小さなタオルで、彼女の目元を拭う。それでも後から後から溢れてくるので、ウチは彼女の首にタオルを掛けると、誰か居ないかとおろおろ辺りを見回した。
「・・・・・・ありがとうね東條さん、あなたは本当に優しい子なのね。私が急に提案したお泊まりも嫌な顔せず了承してくれるし、あなたのおかげで清香も笑うようになったし、本当にありがとう」
清香の母は首にかけたタオルで両目を押さえると、鼻を啜り途切れ途切れながらもそう言った。ウチはお礼を言われるようなことをした記憶が無くて、頭にハテナを浮かべながらもとりあえず頷いた。 すると彼女は次第に笑顔になって、二人分のアイスを冷蔵庫から取ってくれる。
「これ、清香と二人で食べてね。好きな方選んじゃって良いから」
ウチは渡されたアイスが溶けないように急いで二階に上がると、扉越しに清香を呼んだ。どたどたと慌てて駆けてくる音がして清香は扉を開ける。ウチは顔を覗かせた彼女にニンマリと笑いかけると、両手に持ったアイスを見せる。
「・・・・・・私はチョコが良い」
ウチが入れるように扉を大きく開けると、清香は右手に持っていたチョコアイスを手に取った。ウチは左手に持っている苺味のアイスの袋をビリっと開けて、その先端を齧る。まだ遠い春の香りがふわっと広がり、舌先に蕩けるような甘さが弾けた。清香はチョコアイスを小さな口で食むと、ベッドの上に座り込む。空いた方の手で手招きしていた。
彼女の隣に腰を下ろすと、柔らかいベッドに体が沈み込む。そのまましばらく二人は何も言わずにアイスを食べていた。アイスの棒に張り付いた最後の一欠片を飲み込むと、それを見計らったかのように清香は口を開く。
「・・・・・・心配してくれて、ありがとうね」
俯きがちにそう言った清香は、顔を逸らして、絶対にその表情を見せないように振る舞う。だけど、短い髪の隙間に見える小さな耳は、白いウサギのまん丸な瞳のように真っ赤で、顔を見なくてもどんな表情をしているのかは容易に想像できた。
「良いよー! ウチが会いたくて清ちゃんの家に来てただけだしね」
親指と人差し指でオーケーマークを作ると笑って清香に見せる。すると彼女はほっとしたように息を吐いて、少し悲しそうに眉を寄せた。
「私が学校に行かなくなった理由、知りたい?」
ベッドの上でアイスの棒を咥えたまま、清香は体育座りをして顔を隠しながらそう言った。声が震えていて、勇気を振り絞ってその言葉を発したのがよくわかった。
聞かせてほしい、そう言うと清香は体育座りの姿勢からゆっくりと頭を起こして不安そうな視線を送ってくる。
「私、彼氏が居るって言ったじゃない。その彼氏って真澄なんだ」
触れたら壊れてしまいそうなほどか細い声は、確かに空気を震わせてウチの心を揺らす。目の前の彼女は瞳に薄い水の膜を湛えながら、ただじっと何かに耐えるように自身の体を抱いていた。
「あの日、向井くんは言ったよね。”真澄が僕より先に由乃さんと付き合い始めたんだ”って。最初はそんなわけないって信じてたけど、気づいたんだ。最近真澄が私を避けるのは、私が飯島さんを脅した犯人だと思っているから。そして、次は自分が標的なんだと考えているから。きっと、向井くんの言葉に嘘は無いんだと思う。だって、そうじゃなきゃ真澄が私を避ける理由は無いもんね。ねえ、東條さん、私はいったい何度裏切られれば良いの?」
清香は臆病な子だ。今も、こんなに自分の胸の内を明かしてしまって、ウチに嫌われてしまいやしないかを考えて、怖くて泣いている。彼女がこうなってしまった背景には、ある男の存在があった。
清香がまだ、何も汚れを知らぬ純真無垢な子供であった頃、その男は彼女と同じクラスに居て、クラスを面白おかしく牽引するリーダー的存在だった。
彼はある日、放課後の校舎裏に清香を呼び出した。まだ中学生になって半年を過ぎたあたりの事だ。彼は下駄箱に入っていた手紙を見てノコノコとやって来た清香に、真剣な眼差しでこう言った。
『清香さん、好きです! 付き合ってください!』
やけに恭しく、まるで結婚を申し込むかのような緊張した面持ちで突き出された彼の右手を、清香は可愛らしくポッと染めた頬で見つめていた。やがて清香は恥ずかしげに長い髪をいじりながらその手を握る。
『・・・・・・こちらこそ、よろしくお願いします』
その瞬間、彼はバッと顔を上げると笑い出した。それは願いが叶った喜びの表れと言うより、バラエティ番組でお馬鹿キャラの芸人の失敗で笑うような、そんな見下した笑い声だった。彼の笑い声に釣られて、茂みに隠れていた友人たちも一斉に笑い始めた。清香の幸せそうな表情が一転して、絶望に塗れていく様子を、周りの彼ら彼女らはゲラゲラと醜い顔で笑っていた。
『あ、もう良いよ高嶺。俺らさー、賭けてたんだよね。どのレベルまでなら告白がオーケーされるのかなって賭け。やっぱり高嶺はいけたわ、ありがと』
そう言うと、彼は満足して友人の元へと戻っていった。清香の手は、先ほどまで彼の手が差し出されていた虚空を掴んだまま動かない。
彼は友人からスマホを受け取ると、やばめっちゃおもろい、などとふざけたことをぬかして、撮影したばかりの動画を大音量で再生する。
『・・・・・・こちらこそ、よろしくお願いします』
放課後の部活生たちが奏でる喧騒では、到底隠しきれない恥が、肌寒い校舎裏にこだました。おもろすぎストーリーに上げようぜ、と彼らはそれを各々ふざけて投稿する。清香のポケットからスマホの通知音がなった。それは彼の投稿の通知で、彼女自身もその内容を目にする。そこには先ほどと全く同じ光景が画面の中で再上映されていた。
清香の視界がジワリと滲む。もう彼らを見ることができなくて、彼女は踵を返して校舎裏を出る。そのボヤけた視線が、ある少女を捉えた。
『清ちゃん、大丈夫?』
少女は左腕を押さえて、何とも居心地が悪そうにそう言った。清香はキッと彼女を睨みつけると、無視して抜き去っていく。和美は俯いたまま、清香を追うことはなかった。
あの時から変わらない小さな背中と、過去を切り捨てた短い髪が、目の前に映っている。彼らを見つめていた瞳のように、その目は潤んでいて、いつ涙が溢れたっておかしくなかった。
「清ちゃんがこの先、誰にも裏切られないなんて、無責任な慰めは言えないけど、少なくともウチはずっと清ちゃんの味方だから」
震える体を包むように、清香を抱きしめる。あの時言えなかった言葉が、せめて彼女の抱える闇を溶かす温もりになるように、なんて願いを込めながら。
啜り泣く彼女が落ち着くまで、しばらくそうしていた。
「・・・・・・ごめん」
小さな震えが収まる頃、不意に清香はそう呟いた。ウチは気にしないで、と同じような声量で答える。
「せっかく飯島さんの敵討ちが終わったのに、私なんかのために本当にごめんね」
頬を濡らした涙は乾ききり、レンズの奥の瞳は赤かった。それを覗き込んだまま、戯けたように笑うとベッドに背中から倒れ込んだ。
「別に良いよー、気にしてないもの。それより、作戦成功の打ち上げでしょ」
フフッと笑った清香はウチの隣に倒れ込む。ボフッとフカフカのマットレスが跳ね上がり、彼女の小さな体はその上で弾んでいた。勢いがなくなりそれが止まるまで待つと、ウチはスマホを取り出す。打ち上げをするには一人足りないと思ったからだ。
最近教えてもらったばかりの連絡先に電話をかける。プルルルルと間抜けな電子音が部屋の中に鳴り響いていた。
「誰に電話してるの?」
清香は体を捻ると上目遣いにこちらを見てくる。その愛らしい姿に一瞥して、スマホの画面を見せつけた。そこには菊川紗世の名が書かれていて、数秒ののちに彼女と繋がる。
『・・・・・・もしもし』
やけに暗い声に一瞬面食らうけれど、ずっと寝てたりしたのかな、なんて考えてあえて指摘せずにいつも通りのハイテンションで答える。
「もしもし紗世ちゃん、今大丈夫かな? 今ねー、たまたま清ちゃんの家に泊まることになってさ、作戦成功の打ち上げしようって思ってるんだけど」
紗世のローテンションを塗り替えるように明るくそう言うと、彼女は乾いた笑いを発した。その小さな違和感に気づいていないのか、隣の清香も先ほどとは打って変わって明るい調子で声を張る。
「そうそう作戦成功の打ち上げするの。今日は紗世がいないから、ちゃんとしたのはまた今度ね。今夜は通話しながら犯人逮捕について語り合おうぜ」
いつも通りどころか、それ以上におちゃらけた様子の清香は何だかおかしくて、ウチは顔を背けてプッと吹き出した。その横腹を彼女は笑いながら膝で小突いてくる。
『犯人は平良くんじゃないよ』
不意にスピーカーから流れ出た言葉は、その熱を冷ますのに充分すぎる物だった。まるで死ぬ間際の虫を見るかのような憐れみと侮蔑を混ぜ込んだ冷たさが、首に押し当てられている感覚がした。ウチら二人を絶望の淵の更に向こうに突き落とすことが、今の彼女には容易に出来てしまう、そんな気がした。
『私も犯人は平良くんだと思っていたんだけどね、どうやら違かったみたい。本当にごめんなさい』
「・・・・・・じゃあ、誰なの?」
震える声でそう尋ねる。紗世は何も答えなかった。スピーカーから聞こえてくるのは、ゴウゴウと過ぎ去る風の音だけで、彼女が今屋外にいることだけが確かだった。
『今までありがとうね。私はこれからその犯人と一緒に地獄に行くから、みんなとは一緒に居られないと思う』
抑揚のない死んだ声だった。ただひたすらに冷淡で、凍えてしまいそうなほど。
ウチはバネで飛び上がるように、ベッドから跳ね起きる。その拍子にベッドの横に置いてあったゴミ箱を蹴飛ばしてしまったけれど、気にする余裕は無かった。
「どこ行くの!?」
そんなウチの姿を追って清香は階段を駆け降りる。あまりに急いでいたから、最後の一段で足を踏み外して、彼女は体を強かと打ちつけた。悶える清香が心配だったけれど、ウチはチラリとそちらを見たっきり振り向かないで玄関の扉に手をかける。その時、鋭い声で彼女は待って、と叫んだ。
「こんな吹雪の中に一人で行ったって、死んじゃうだけでしょ! 前みたいに刑事さんを呼ぶべきだよ!」
「前回とは勝手が違うんだから、すぐに来てくれるとは限らないじゃない! ならウチが今から走った方が間に合うかもでしょ!」
「だから! 死んじゃうでしょ! せめて車でも無いと無理だって!」
ぶつけた箇所を押さえて、喘ぎ喘ぎ清香は叫んだ。それがいくら正論であったとしても、動かなければ紗世は今にでも犯人の所へ行ってしまうだろう。今まで見てきた彼女は、真面目で、優しくて、誰よりも強い、そんな人だからだ。だからこそ、それをさせてしまうわけにはいかないのだ。
「・・・・・・行くよ、ウチは。車が無くったって、死んじゃったって、大切な友達を助けれるなら」
清香は愕然として口をパクパクと何度も開閉していたが、やがて諦めたようにキッと瞼を固く閉じた。数瞬ののち、彼女は覚悟を決めたように目を開く。ゆっくりと、怪我した体でウチの隣までやって来ると清香はドアノブに手をかけた。
「私も行くから。私だって大切な友達を救えるなら、命賭けたって良い」
ついさっきのことだというのに、先ほどの蹲っていた彼女が遠い昔のように思える。そう感じるほど、今の清香は強い光に溢れていた。
頷くと二人で扉を開く。強い風が小さな隙間から吹き抜けて、二人から体温を奪っていく。それでも止まるわけにはいかず、力一杯扉を開けた。
「うわっ、びっくりした。どうしたの二人とも? って、そんな薄着じゃ風邪ひくよ? 」
強風で開かない瞼を無理やり持ち上げて声の主を見ると、そこに立っていたのは清香の兄、晴路だった。困惑した表情で目を瞬かせる彼はキョロキョロと細い目で二人を交互に見つめていた。
「コンビニ行くなら乗せてくけど」
そう言うと晴路は左手の親指で隣を指す。そこに有ったのは一台の軽自動車だった。ウチらは互いに顔を覗き込む。
「持つべきは大学生の兄だったか・・・・・・」
凍てつくような吹雪の中、パッと花が咲くような小さな温もりが、雪中に広がっていた。
決着をつけるなら、あそこが良いななんて思って扉に手をかけたとき、ピンポーンとインターホンが鳴った。誰だろうと思って扉を開ける直前、その向こう側から大きな声が家中に響き渡る。
「すみませーん、菊川紗世さんはいらっしゃいますかー?」
鍵に触れていた指先を、音を立てないようそっと離す。あの太陽のような明るい声は、つい最近見たばかりの警官の声だろう。私は扉に背を向けると階段を上っていく。こちらに引っ越してきたときに建てたばっかりの我が家は、いくら階段を踏み締めたって音を立てたりしない。
自室に入ると中から鍵を閉める。そのまま扉を背にして私はゆっくりと座り込んだ。体育座りの姿勢で私は顔を自身の腕に埋めている。
「・・・・・・もう、ここしかないかな 」
吐き出した言葉は小さな部屋の中に溶けて消えた。窓は先ほどから更に強くなった風の影響で、ガタガタと悲鳴をあげていた。その向こうには分厚い雲が広がり、太陽を覆い隠している。冷え切った世界を包み込むように、後から後から降り落ちる雪が、町を真っ白に染め上げていた。
窓を開けてバルコニーに出ると、強烈な風が吹きつけて、せっかく整えた髪の毛が無様に乱れる。由乃もこんな感じだったのかな、なんてもうどうだって良いことを考えていたらポケットに入れていたスマホが鳴り出した。
『もしもし紗世ちゃん、今大丈夫かな?』
上の空のまま私は和美の言葉を流す。聞こうと思っても頭に入ってこなかった。しばらくそんな調子のまま適当に相槌を打っていたら、不意にもう一人の声が聞こえてきて、なぜかそちらは容易に理解できた。
『今夜は通話しながら犯人逮捕について語り合おうぜ』
キュッと胸が締め付けられるような感覚が走る。声の主はきっと清香だろう。彼女が今口にした”犯人”とはきっと昌一のことなのだろうが、私は彼が犯人ではないことを知っている。いや、知ってしまった。
「犯人は平良くんじゃないよ」
自分でもびっくりするぐらい感情の籠っていない声だった。本当は泣き出してしまいたいほどにぐちゃぐちゃな想いを抱えているはずなのに、それを出すことができないほどに、私の心にもとめどなく雪が降っていた。
「今までありがとうね。私はこれからその犯人と一緒に地獄に行くから、みんなとは一緒に居られないと思う」
犯人は誰なの、と尋ねる和美にそれだけ言うと、私は電話を切った。それを最後に私の世界から誰かの声音は消え去った。和美も清香も優しくて、誰よりも大切な友達だけど、私が聞きたい声は彼女らどちらの物ではなかった。私は朧げになりつつある記憶の奥底から、あの木漏れ日みたいな声音を掬い上げる。
「菊川さんは、ここに来る前はどこに住んでたの? 聞かせてほしいな」
最初に話しかけてくれたのは由乃だった。中学三年生というとても大事な時期に転校してきた私はこの町では異物扱いで、誰も話しかけてくれなかったから、それだけで心が浮ついた。
「えっと、東京の郊外の辺りなんだけど・・・・・・」
私が東京の話をするたびに由乃は瞳をキラキラと輝かせて、その綺麗な黒髪を揺らすから、上手く彼女を見れなかった。私の話をこんな楽しそうに聞いてくれる人がいるなんて、あそこでは考えられなかったから、それだけで嬉しくて頬が熱くなったのを強く覚えている。
私は唯崎町では異物扱いだったけれど、東京ではまた違って異端者を見る目でみんなが私を見ていた。私が東京で、一人の少女に恋をしたからだ。彼女は由乃に似て、黒い美しい髪を靡かせて笑う、神話に現れる女神のような少女だった。私はみんなと同じように恋に落ちて、友達との恋愛相談を経て、ちゃんと段階を踏んで想いを伝えた。彼女は一瞬驚いたように目を見開くと、笑いながら後頭部を掻き、ごめん、とそれだけを言い残して去っていった。いっぱい泣いた次の日、私の机にはひっくり返された花瓶が転がっていて、教室の隅から汚物を見る視線を向けられた。その視線の主は例の少女と、そして私が恋愛相談をしていた友人たちで、私の小さなハートは簡単に崩れ落ちた。
それからはあっと言う間だった。私は同性好きの異端者で、彼女は異端者に好かれてしまった可哀想な被害者、それが私たちの関係だった。移動教室のとき、すれ違いざまに彼女が吐き出した”気持ち悪い”という言葉を、私はこの先も忘れることはないだろう。
東京はこの日本の中で、最も人が多い場所だ。だからこそ、エラーを起こす形のおかしな部品は社会の歯車から弾かれてしまう。私は父の転勤を機に、この町から逃げることを決めた。
私はそのトラウマから、人と関わることが恐ろしくなっていた。どうせ私は異端者で、みんなとは違って歪な人間なのだと、そう思っていた。それなのに、あの子は私のことを大好きだと、そう口にした。あの日、私の心は確かに救われた。いつの日か消え去ってしまった心に灯る炎が、再点火するのを確かに感じたのだ。
私はあの日、飯島由乃に恋をした。
私はバルコニーの柵に手をかけたまま、しばらく空を、その先にある過去を見ていた。やがて、それが冷めていく。私の視界は、色彩溢れる思い出から、色を失ったどうしようもない現実へと引き戻された。ただ、寒かった。
バルコニーに出てから、はや数分が経っている。その間に体は冷え切っていてまるで死体だな、なんて思ったけれど今から本物になるのだから、あながち間違いでもないのかもとおかしくて一人で笑っていた。
私が柵に手をかけてその上に立ったとき、眼下に広がる銀世界の中に二つの人影が見えた。
「危ないよ! 馬鹿なことしてないで下りて!」
石嶺は大きな体を震わせてそう叫んだ。それもそのはず、二階とはいえ東京で稼いだお金で建てた豪邸だ、かなりの高さがある。警官である彼が焦るのも無理はなかった。
「馬鹿なこと? これは正しいことですよ、刑事さんたち。私は飯島さんを死に追いやった張本人、生きてて良い人間じゃないの」
私は温度のない声でそう呟く。その声は吹雪にかき消され、彼らに届いたかわからない。けれど、今ここに居るということは、その事実にたどり着いているのだろう。そう、犯人は私だ。私は先日覗いてしまった由乃へのメールを思い出す。
あの日由乃へ届いたメールは、一枚の画像だった。彼女が校舎裏で煙草を吸っている写真。私はあの日、たまたま旧校舎に居た。一緒に帰ろうなんて声をかけるのは怖いから、由乃から誘ってもらえないかななんて考えて、彼女が教室に戻ってくるまで時間を潰していたのだ。だから、それを見つけたのは本当に偶然だった。
恋は盲目なんて言うように、私は好きな人の嫌な部分なんて見たくなかったのだ。私はその姿を、ガラケーで撮影した。これを見せて、彼女に煙草を辞めてもらうために。だけど、これを見せて嫌われてしまうのが怖くて、その日は何も考えられないまま一人で帰宅した。
その決心がついたのは翌日のことだった。随分と早い心変わりに見えるかもしれないけれど、友人が次の日には敵になるように、人の心なんて簡単に変わってしまう、そんな物なのだ。
何故かあの日、母は私に言った。
『紗世は、スマホがほしいの?』
母はよくヒステリックを起こす人だったから、今日は朝からの日か、なんて思って私は中途半端に濁した。案の定、母はヒステリックを起こして、そんなにお母さんの言うことが信じられないのなら買ってあげるわよ、と叫び私をこの町一番のショッピングモールへと連れていった。母はヒステリックを起こすと随分とアグレッシブになるのだ。
私はその日、念願のスマホを手に入れた。しかし母は終始不機嫌で、一緒に居るのが辛くて仕方なく、私は一人で町を散策していた。みんなが学校に行っている時間だったため、私は当てもなくフラフラと歩いていた。そのとき、私はふと昨日のことを思い出して、由乃にメールを送ってみることにした。件名は特にない、ない方が由乃は驚くと思ったから。唯一の誤算は、メールアドレスが変わっていたこと。私はそのことが頭の中からすっかり抜け落ちていて、それを送信した。これを見た由乃が、自身の過ちを後悔してくれると願って。
その日、飯島由乃は死亡した。
「私は、クズだから。好きな人を傷つけることしかできない最低な人間だから、こうした方が良いんですよ、刑事さん」
私は眼下の刑事を見据えてそう叫ぶ。彼らの必死の説得も、私には届かない。私は一面に広がる銀世界に向けて、一歩踏み出した。
外には強烈な風が吹いていて、今も車を揺らしている。私たちは兄の運転で紗世の家へと向かっていた。目的地を指定したのは和美だった。
『当てもなく町中を駆け回ったって意味ないから、一旦紗世ちゃんの家に行くべきだと思う』
そう力強く言い切った彼女は誰よりも格好良く見えた。困惑気味の兄を急かして車に乗り込むと私たちは吹雪の中走り出す。
紗世の家はかなりの豪邸だ。それもそのはず、彼女の両親は東京でバリバリ稼いでいた人たちで、この田舎町の安い土地くらいなら簡単に買えてしまうから。そのおかげで、彼女の家はすぐにわかった。
一面の吹雪の中、微かにその輪郭が見えた。和美は目を瞑ったまま祈るように手を組んでいて、私はその細かく震える拳に手を添える。彼女は一瞬驚いたけれど、すぐにふっと柔らかい笑みを浮かべた。
もうすぐで到着というのに、突然車はその歩みを止めた。兄は焦ったようにガチャガチャと何かを動かしている。
「・・・・・・ごめん、動かなくなっちゃった」
申し訳なさそうに兄はそう言った。細めた目は、右に左にと揺れ動き、丁度良い言い訳を考えているようでもどかしい。
「大丈夫です、後は走ります」
直後、和美はドアを開けて吹雪の中へと駆け出す。唖然とする兄をよそに私もその後を追った。彼女はとても優しい人だから、紗世のために自身の犠牲を厭わず走り出してしまう。そんな優しい人だから、私は彼女を一人にすることが出来ない。それに二人は、私なんかを仲間だと言ってくれたから。
体から感覚がなくなる頃、私たちは遂に紗世の家へとたどり着いた。キンと突き刺す寒さが肺を襲って、息を吸うことすら上手くできなかった。
「紗世ちゃん! 居る!?」
和美はドンドンと玄関の扉を叩いている。その手は真っ赤になっていて、とても痛々しかった。しかしどんなに訴えかけても、中からは誰も出てこない。やがて力なく頽れた和美の隣で、私は聞き覚えのある声を耳にした。
「危ないよ! 馬鹿なことしてないで下りて!」
あの日私たちが助けを求めた警官の声は、太陽が遍く大地を照らすように、離れたこの場所にも響き渡る。彼は一体、誰と話しているんだろう。一瞬の逡巡ののち、私は弩に弾かれるように駆け出した。
「和美! 紗世はこっち!」
その言葉に和美は立ち上がると、足に力が入らず上手く走れない私を追い越していく。その先で和美は不意に立ち止まった。
「私は、クズだから。好きな人を傷つけることしかできない最低な人間だから、こうした方が良いんですよ、刑事さん」
そう言うと紗世は、一面の銀世界に向かって一歩踏み出す。和美の背中越しに見た光景に、私は動けなくなるが、それを受け止めようと走り出す人影があった。
石嶺は紗世を受け止めようと駆け出す。しかし、踏み出した一歩が雪に取られて大きくバランスを崩した。紗世の体が宙に投げ出されるのを、彼は呆然と見つめている。
和美は石嶺が走り出すのよりも一瞬速く駆け出した。その石嶺よりも二回りほど小さな体が、紗世とぶつかり派手に雪の中へと沈んだ。時間ごと凍りついてしまったように、暫時は息をすることすら忘れていて、私は数瞬遅れて二人に駆け寄る。 雪に溺れている二人はまるで人形のように真っ白な姿で目を閉じていて、生きているのかすらわからない。その体に触れても、そこに温もりは感じられなかった。
「今救急車呼んだから、二人を出来るだけ暖かいところに運ぶぞ!」
松浦は和美を軽々と持ち上げると、石嶺にそう檄を飛ばした。石嶺はしばらくポカンとしていたけれど、もう一度名前を呼ばれることで緩やかに再起動する。彼は紗世の体を担ぎ上げると、風の当たらない場所へと移動した。
私もそれを追って走り出すが、雪で滑って顔から倒れ込む。前を行く彼らが振り返るのがよくわかった。大丈夫です、と言って立ちあがろうと手足に力を込めたけど、また体を雪に埋める。力が入らなくなってきていた。
降りしきる雪が、私から更に体温を奪ってゆく。だんだんと、私の視界は白く染まって消えていった。
私が目を覚ますと、知らない白い天井が眼前に広がっている。私は痛む体を起こしてぐるりと周囲を見渡す。白い部屋の中には等間隔に並べられたベッドが、私の寝る物の他に三つあった。そのどれもに人影はなくて、なんだか私だけが取り残されたかのような気分になる。
私はゆっくりとベッドから立ち上がると、近くにある窓から空を見上げた。分厚い雲が果てしなく広がった空は、どこまでも暗く、私の気分まで落ち込んでしまう。私がガラスに手を触れると、ただ冷たい感覚が伝わってきて、私からじんわりと温度を奪っていった。冷たいガラスから手を離すと私は景色ではなく窓を見つめた。そこには私の姿が映っていて、ああ、私は死ねなかったんだ、なんてぼうっと考えた。
ガチャリと扉が開く音がして、次いでガラガラとスライドする音が一人の部屋に響いた。私がそちらを振り向くと、そこに居たのは和美と清香の二人組だった。和美は手に持っていた紙袋を落とすと、それがガサッと音を立てる間に私に向かって駆け出す。ギュッと力強く抱きしめる彼女の目から温かい雫が流れ落ち、私のわずかに冷えた体に温度を与えた。
「刑事さんから、全部聞いた。紗世ちゃんだったんだね。犯人は、紗世ちゃんだったんだね」
啜り泣く和美に痛いよ、と伝えるのは気が引けて私は黙ってそれを受け入れた。しばらくそのままにしていると、ゆっくりと後からやって来た清香が和美の体を引き剥がす。
「気持ちはわかるけど、そろそろ紗世が潰れちゃうから」
そう言いながらも視線は常に私に向けられていた。キッと睨みつけるように細められた目からは怒りの感情が読み取れて、私はそっと目を伏せる。
「ごめん、死ねなかった」
ボソッと呟いた言葉に、清香は目を閉じて大きくため息をつくと、勢いよく私の頬をぶった。バチンと大きな音がして私は尻餅をつく。突然のことに驚いた私は清香を見上げた。
「ふざけんなよ! 何が死ねなかっただ! 私も和美もアンタに死んでほしいなんて思ってないわ!」
目元にじわりと涙を浮かべて両手をブンブンと振り回す清香を、和美は後ろから羽交締めの形でなんとか押さえている。やがてボロボロと清香の目から水流が生まれた。落ちた雫が床を濡らす。
「私たちがどれだけ心配したと思ってんのよ!」
羽交締めを解かれた清香の体がゆっくりと頽れる。その手は顔を押さえて、必死に涙を堪えているようだった。
「私なんて、心配するほどの人間じゃないよ」
そう言い放つと清香は手をどかしてもう一度私を睨みつける。その目はもう怒り以外の色が見えなくて、私は少し悲しくなりつつも、それで良いと思った。私は大切な友人を死に追いやった外道で、それが当然の反応だと考えたからだ。
またぶたれるのを覚悟して私は目を瞑るが、いくら待っても頬が痛むことはなかった。和美が押さえているのかも、と思って恐る恐る目を開けるとそこに居たのは和美で、ただ悲しげに私の手を取った。
「心配するよ。大事な友達で、共に戦った仲間で、何にも変えられない紗世だもの。だから、そんなこと言わないで」
静かに、されど芯の強さを感じる言葉は私の心を震わせる。私は彼女の真っ直ぐな瞳を見ることが出来なくて、そっと目を逸らした。
「紗世ちゃんは、自分がよっちゃんを追い詰めてしまったことに責任を感じているんだと思う。もちろん、悪いことだったことは間違いないけど、それがとっても優しい紗世ちゃんが死ぬ理由にはならないと思うんだ。ねえ、紗世ちゃん。辛いの全部、ウチと清ちゃんにも分けてほしい。ウチら三人は仲間でしょ?」
悲しげに揺れる瞳の奥に、決して揺らがない彼女の優しさを見て、胸が苦しくてしょうがなかった。私は和美の手を振り払うと窓を背にして立ち上がり、目の前の二人に向かって叫んだ。
「うるさい! 私は最低のゴミクズなの! 飯島さんを殺した犯罪者なの! お願いだから、私なんかに優しくしないでよ!」
突き放すように私は再度伸ばされた和美の手を叩き落とす。彼女が一瞬痛みに顔を歪ませるのを見て私は胸が痛み、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「もう、私なんか放っておいてよ」
必死に取り繕っていた表情が、この言葉を機に崩れ出す。私の本音を隠して美しく彩る雪化粧は、弱音と共に溢れ出した涙で溶け出した。
「私は飯島さんが好きだったのに、彼女を傷つけてしまうような最低の人間で、気持ち悪い人で、みんなと一緒には居られないんだから」
涙と混ざり合い、かろうじて言葉になったそれを紡いで何とか吐き出した想いを、目の前の二人にぶつける。私を落ち着かせようと和美に代わって清香が手を伸ばすが、その手でさえ振り払った。その勢いのまま尻餅をついた彼女の頬からガーゼが落ちる。その姿を見て言葉を失う私をよそに、一つの人影が病室に入って来た。
「・・・・・・犯人って、菊川さんだったんだ」
血走った目の薄汚い男は、掠れた声でそう言った。あまりに醜いその姿に私以外の二人は恐怖を示すけれど、私だけはその正体に心当たりがあって、尻餅をつく清香を守るように前に立った。
「散々犯人は昌一だと言っておいて自分が犯人だとか、面白い冗談だね。それに、女のくせに由乃が好きだったって? 気持ち悪い」
吐き捨てるようにそう言い放った彼の言葉を、私は黙ったまま受け入れる。”気持ち悪い”なんて言葉、とっくに慣れたつもりだったけれど、私は自分が思っていた以上に弱い人間だったようで、簡単に心が悲鳴をあげた。
その時、俯いた私の視界の隅で、何かが動いた。私がその正体を確かめようと顔をあげると、視線の先に立っていたのは清香に胸ぐらを掴まれる薄汚い男、真澄の姿だった。彼女はすぐ近くで顔を見たことでその正体に気づいたらしく、可愛らしい顔が泣き出しそうなほどに歪んでいる。 あまりに突然のことに頭が追いつかないでいる私の耳に、清香の鋭い言葉が響いた。
「うるさい! 何にも知らないくせに! 私がお前なんかを好きになったみたいに、たまたま好きになっただけなんだよ! 紗世は女の子が好きなんじゃなくて、飯島さんが好きだっただけなの! いつからお前は人を見下せるほど偉くなったんだこの二股野郎!」
ゼエゼエと肩で息をしながら清香は強く真澄を睨みつけている。依然として胸ぐらを強く掴んだまま、今にも殴りつけてしまいそうで、一体何が臆病な彼女をここまで駆り立てるのか不思議だった。私はその答えを求めて胸に手を当てる。
「・・・・・・私は私みたいな根暗な人間を、友達だとか仲間だとか言ってくれるあの子たちが、とっても大事。だから、そんな仲間を傷つけるやつは許さないから」
ガーゼが剥がれたことで顕になったのは、頬に浮かぶ黒い痣だった。その姿がいつかの和美の姿に重なる。
『一緒に、その痛みを背負わせてよ!』
そう言って自身の頬を強く殴りつけた和美を思い出す。頬に残った黒い痣は、同じ痛みを背負う仲間の証だった。
パチンとメロンソーダの泡が弾けるように、今まで和美と、清香と過ごした短い記憶が蘇る。涙で視界が歪んで、上手く前を見ることが出来なかった。
自身が犯した過ちに対する後悔と、そんな私を仲間だと言ってくれる友が居る喜びが混ざり合って流れ続ける小川は、それから騒ぎを聞きつけた刑事二名にその場を治められても止まらなかった。和美も清香も真澄も、松浦も石嶺も、誰もかも居なくなってしまった病室で、私は一人窓の外を見ている。随分と静かになってしまったけれど、私はもう一人取り残されたなんて気分にはならなかった。
看護師さんに無理やり追い出される前に、和美は一つの写真立てを置いていった。前に和美の家を訪ねたときに見た写真立ては、どうやら彼女の手作りだったようで、細かいところまで意匠の凝らしたそれは今まで見たどれよりも可愛らしかった。その中に入れられた写真はあの日三人で撮ったあの写真だ。
私は写真立てを持ち上げて窓から差し込む光にかざす。いつの間にか雲は晴れて、そこから太陽がのぞいていた。キラリと煌めく光は、可愛らしい写真立てと相まって、美しく写真を彩っている。
写真の向こう側で笑顔の私たちは、この先様々な困難に見舞われるだろう。それでも、大丈夫な気がした。私は窓際に写真立てを置くと、そこに向かって右手を突き出す。
「・・・・・・”仲間”だもんね」
待ち合わせは紗世の病室の前だ。まだ時間には随分と余裕があるというのに、彼女は既にそこに居て、ソワソワと落ち着かない様子で足踏みを繰り返している。
「清ちゃんお待たせ! 待った?」
ウチがそう声をかけると清香は、パッと花が開くような明るい笑顔を浮かべた。数ヶ月前と比べると、かなり明るくなっていて、内心胸を撫で下ろす。今日は大事な日で、そんな日まで暗い顔をしているわけにはいかなかったから。
スマホで時間を確認すると、予定より数十分は早くて、二人ともせっかちだと笑い合った。やがて時計の針は時間を示す。ウチと清香は深呼吸を二、三度繰り返すと扉を引く。ガラガラと音を立てて、閉ざされた視界は開けた。
荷物をまとめてながら石嶺と談笑していた紗世は、その音を聞いて振り向いた。肩の辺りで切り揃えられた短い髪が揺れる。
「あ! 二人とも久しぶり!」
紗世はその精神の危うさと、本人に加害意識が無かったことが主な理由で少年院への送致は無く、しばらくの入院と退院後の保護観察所分で決定した。そして今日がその退院の日だった。
紗世はまるで子犬のようにニコニコと笑顔で駆けてくると、ギュッとウチら二人を抱きしめる。その顔にはもうかつての不安定さは無くて、自分のことではないのに心の底から嬉しくなった。
石嶺は抱き合う三人を一瞥すると、勝手にどこかに行かないこと、と言い残して煙草を吸いに出て行った。どうやら彼なりに気を遣ってくれたらしい。
背中に回した手をどけて紗世は一歩分距離を取る。その顔は少し寂しげだったけど、それを指摘するのは無粋だと思ったから何も言わずに彼女の言葉を待つ。
「・・・・・・言いたいこと、伝えたいことがいっぱいあるけど、それはまだ言葉にしない。いつか、自分で自分が罪を清算できたと思える日がきたら、改めて謝りに行くからね。また、友達だって言ってもらえるように」
いろんなことを思い出して、泣き出しそうになるけれど、精一杯の笑顔でそれを誤魔化したままウチは頷いた。
「・・・・・・うん、待ってるから」
紗世の保護観察は、ここから少し離れた田舎町で行われるらしい。そこは向日葵が名所のようで、来たるいつかの日には三人で見に行こうと約束を交わした。
他愛ない話をして、残り少ない時間を味わいながら病院の外に出ると、空は晴れ渡り雲一つない。果てしなく広がる青空は、きっとどこまでも続いているのだろう。
石嶺の運転する車に乗り込む直前、紗世はこちらを振り向いた。
「ばいばい、またね」
必死に我慢していた涙が、堰を切ったように溢れ出す。頬を濡らす雫は熱く、その温もりを強く感じていた。
紗世の目元にも涙が浮かんでいて、彼女は前腕でそれを拭う。薄く広がった水滴は、紗世の顔に張り付いた物を溶かしていった。
黒い車は二人を残して遠い遠い場所へと旅立った。ウチは額を流れる汗を拭う。とっくに受験は終わり、やがて春がやってくる。その後は暑い暑い夏だ。季節が変わり、あの全てを凍てつかせる寒さは終わりを迎える。雪はもうとっくに溶けていた。 あの日、追い詰められた紗世が顔に張り付けた雪化粧も、触れ合った温もりで涙へと変わり、すっかり流れ落ちている。
「さて、清ちゃん。帰ろうか」
唯崎町に立ち込めていた闇は晴れた。この町には純白の光に満ちていて、その行先は誰も知らない。
空は青々と、ただひたすらに晴れ渡っていた。