倍相岳斗の姿を見た杏子は、中村経理課長に少しだけ離席する旨を相談しに行ったのだが、杏子の思いに反してすぐさま退社することを強く勧められてしまった。『さっきも言ったけど私がうまくやっておくから。有給の手続きは後日で構わないよ』とさえ言われてしまっては取り付く島もないではないか。
笹尾との一件以来、社内に身の置き所がなかったのは事実。
最近は書類の回り方もおかしくて、本来ならば周知されているべきはずのことが杏子の耳にだけ入ってこないということもままあるのだ。何とか自分でフォローを入れて仕事に大きな穴をあけることだけは未然に防いできた杏子だったけれど、今のままだといつか必ず大きなミスをしてしまうだろう。正直それがとても怖い。
課長の、臭いモノにはふたをしてしまえと言わんばかりの事なかれ主義な態度に、杏子は小さく吐息を落とした。ひょっとして、先程課長の〝不埒な提案〟を突っぱねたからいけなかったんだろうか。
でも……どう考えても妻帯者の課長と変な関係にはなりたくない。
(やっぱり私、辞め時……なの?)
杏子としては例え結婚したとしても出産の直前までは身体が許す限り仕事をしていたいと思っていたのだけれど、このままでは寿退社ですら危うい。
日々、他の社員らからの自分への当たりが強くなってきているのを感じている杏子である。
男性社員の中での人気ナンバーワンの笹尾と、女性社員の中での人気ナンバーワンの安井から敵認定されてしまったのだ。恋人同士としても社内公認の彼らに憧れる人たちから、〝お似合いのふたりの関係に水を差す悪者〟として杏子が制裁を加えられるのも致し方ないことなのかも知れない。
もちろん、杏子としてはやってもいないことで責められているのだからたまらないのだけれど、真実が必ずしも正しくて、それが立証されるとは限らないのだということを身をもって実感させられた。
世の中は、周りからの支持を得たものが正義なのだ。
今や社内での杏子の評価は、〝非モテ女子のくせに無謀にも社内人気ナンバーワンの笹尾さんに言い寄った末、断られて逆上した挙句、彼に怪我をさせた愚かな女〟以外の何者でもない。
杏子としては笹尾は自分の好みのタイプではなかったし、そもそも相手のいる男性に言い寄る趣味だってないのに。
(そんな人間だったら私、笹尾さんなんかじゃなくてたいちゃんに言い寄ってるよ)
よっぽど笹尾なんかより屋久蓑大葉の方がハンサムだ。
それに……もっと言えば最近は――。
そこで自分へ向けてニコッと微笑みかけてくれる岳斗の方をちらりと見遣った杏子はトクンと心臓が跳ねるのを感じた。
たまたま出会って優しくしてくれるようになった倍相岳斗は、最初のうちこそ大葉とは全く違うタイプのイケメンで……。凄く整った顔の人だなと思いはしたけれど、正直微塵も興味はなかった。
杏子は基本的には軽いノリの男性は好きじゃなかったし、どちらかというと大葉のように口下手で……だけどその実ちゃんと優しさをくれる男性の方が好みなのだ。
ハッキリ言って岳斗の第一印象はヘラヘラした軟派男のイメージで、杏子の好みとは真逆だった。でも、彼の強引さに負ける形で何度か会っている内に、意外にも誠実な人なのかも知れないと認識を温めるようになって。
自分みたいな売れ残りの非モテ女子にも優しくしてくれて、なおかつ自分の美貌をひけらかそうとするような態度も一切にじませない。
絶対にモテるタイプの人だろうに、それを鼻にかけた態度を見せないところにも好感が持てた。
何より、杏子に対して彼はいつもとても紳士的で、すごく優しくて……。恋人や奥さんがいるわけでもないと明言してくれたのも、杏子としては安心して一緒に出掛けることが出来る要素だったのだ。
(笹尾さんに言い寄るくらいなら私、岳斗さんに……)
無意識にそこまで考えて自分の思考回路の愚かさにハッとした杏子は、フルフルと小さく首を振った。
少し親切にされると、相手に好意を抱いてしまうのは自分の悪い癖だ。それで勘違いをして大葉にこっぴどくフラれたことを思い出した杏子は、〝友人〟に過ぎない自分をわざわざ心配して会社まで出向いてくれた岳斗の心遣いに、心の底から感謝をする。
そんな優しい岳斗だ。杏子が足を怪我していることを悟られたりしたら、余計に心配を掛けてしまうだろう。
そう思ってなるべく足を引きずっているのを気取られないように歩いたつもりだったけれど、どうやら上手くいかなかったらしい。
視線の先、岳斗がハッとしたように杏子の方へ歩み寄ってこようとしているが見えて申し訳ない気持ちになった。
そんなことに気を取られていたからかも知れない。
突然立ち上がった木坂にすれ違いざま「あら、ごめんなさーい♪」という意地悪な声掛けとともに無事な方の左足を引っ掻けられた杏子は、咄嗟のことに慌てて痛む右足で踏ん張ろうとしたのだけれど無理で。
このまま岳斗の前で転んだりしたら、また心配を掛けてしまうと泣きたくなった。初めて居間猫神社で出会った日、岳斗が自分でも気付いていなかったひざの傷を手当してくれたのを走馬灯のように思い出しながら、杏子は衝撃に備えてギュッと目をつぶった。けれど、思ったような痛みがこない代わりに、ふわりと誰かに抱き留められて――。
「杏子ちゃん、大丈夫?」
それと同時に聞こえてきたのは杏子を気遣う優しい声と、心地よい鼓動。そうして自分を包み込む温かなぬくもりとともに鼻腔をくすぐってきたシトラス系の爽やかな香りに、杏子はやっとのこと状況を把握して、どぎまぎした。
社内では孤立無援。誰も杏子をこんな風に気遣ってはくれなかったから余計に嬉しくて、泣いちゃ駄目だと思うのに鼻の奥がツンとして視界が水の膜でゆるゆると滲んだ。
でも、このままでは岳斗に迷惑が掛かってしまう。
「あの、岳斗さん。私、もう大丈夫なので……」
そう思い至ってやっとの思いで紡ぎ出した声は、情けないくらいに震えていた。
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