「ごめんね、杏子ちゃん。そんな顔見せられたら……お願いされても手、離せないや」
岳斗が吐息交じりに告げた言葉に、杏子は思わず彼の方を見上げて……その動きで辛うじて落ちないでいた涙がポロリと頬を伝った。
「……歩ける?」
そのことに少なからず動揺した杏子は、続いて投げ掛けられた岳斗の言葉に上手く反応することが出来なくて、返事に間があいてしまった。それを〝否〟だと受け取られてしまったのだろうか。
「じゃ、仕方ないか」
ふわりと微笑んだ岳斗に、あっという間に横抱きに抱え上げられて、杏子は余りのことにアワアワしてしまう。
そのままスタスタと経理課を出て廊下へ歩みながら、
「ごめんね? 僕も目立つことはなるべく避けたかったんだけど……」
岳斗はそう謝罪してくれたのだけれど、どこか嬉しそうにクスッと笑い混じりに言うから、本当に悪いと思っているのか怪しいなと思ってしまった杏子である。
そんな岳斗に向かって、杏子は「あ、あのっ、私……」〝歩けます!〟と続けようとしたのだけれど……。口を開きかけたと同時に岳斗の舌打ちが聞えてきて(え?)と言葉に詰まる。
「――何の用?」
今までの語り口とは全く違う、どこか冷え冷えとする声音は、本当に岳斗から発されたものだろうか?
ほんのちょっとの間に、何か彼を怒らせることをしてしまったのかとオロオロと岳斗を見上げた杏子だったけれど、彼は自分の方を見てはいなかった。
「……岳斗さん?」
戸惑いながらも岳斗の視線の先を見詰めた杏子は、息を呑む。
いつの間に経理課から出てきんだろうか?
岳斗のことで頭がいっぱいで全然気付けなかったけれど、二人の行く手を阻むように、木坂、古田、安井の三人が立ちはだかっていた。
「どこのどなたかは存じませんけれど……貴方の腕の中の彼女、優しくすると損をしますわよ?」
ややして、岳斗の変化にも気付かないみたいに、そう告げたのは安井で。それに同調するように「そうよ、そうよ! その人はいい男とみると色目を使う淫乱女ですもの!」と告げたのは古田、「その足だってわざとらしく引きずってますけど……実際は自業自得なんですよ?」と鼻で笑ったのは木坂だった。
それでも杏子を降ろそうとしない岳斗に苛ついたのか、安井があからさまに溜め息を吐いた。
「貴方、お綺麗なお顔をしてらっしゃいますけど、女性を見る目がないみたいですね!」
杏子は自分のせいで岳斗まで悪く言われてしまったことがただただ申し訳なくて、ギュッと身体をちぢこめるようにして「岳斗さん、お願い。降ろして?」と声を震わせるしか出来なくて――。
いまさら杏子が岳斗から離れたからといって、彼女らがすんなり立ち去るとは思えなかったけれど、少なくとも現状のままよりは非難の矛先が自分に戻ってくるだけマシだろう。
だが、岳斗は杏子の言葉を黙殺すると、「何の根拠があってそんなことを言うの? 仮にも君たちは彼女の同僚だよね? 僕よりずっと長く一緒にいるはずなのに見る目がないのはどっち? 少なくとも僕は彼女のことをとても誠実で素敵な女性だと思ってるんだけど?」と三人に問い掛ける。
岳斗に顔向け出来なくてオロオロと震える杏子を支える岳斗の腕は、何の迷いもないみたいにガッチリと杏子を包み込んで離さない。
杏子はこれ以上安井たちから岳斗に酷い言葉を投げ掛けられたくなくて、消え入りたい気持ちになった。
どうせ三人は、笹尾とのことを持ち出して、杏子が如何にしたたかな女かを説明するはずだ。それが事実とはかけ離れた情報だとしても、彼女らにしてみれば、笹尾から聞かされた話こそが真実なのだから容赦はないだろう。
そんな杏子を擁護し続ければ、きっと岳斗だって攻撃対象にされてしまう。
「岳斗さん、私、一人でも大丈夫なので」
それで懸命に岳斗へ語り掛けたのだけれど……。
「杏子ちゃんは何も悪いことなんてしてないんだから、堂々としていればいい」
岳斗は安井たちに掛ける声とは全然違う、柔らかな口調で杏子に語りかけてくると、「僕に任せて?」と杏子を抱く腕にほんのちょっと力を込めてきた。そうして杏子の足を気遣いながらそっと床へ降ろしてくれると、「悪いけどちょっとだけここに立っていてくれる?」と小首を傾げてみせた。その上で念押しするように「いーい? 絶対に僕の後ろから出ちゃ駄目だよ?」とウインクをするのだ。
杏子は岳斗に降ろして欲しいと望んでいたけれど、いざそうされるとちょっぴり心許なくて、同時に岳斗に甘えるようなことを思ってしまった自分がイヤになった。
杏子を手放してフリーになった岳斗は、まるで気持ちを切り替えるみたいにふぅっと息を吐き出すと、杏子を庇うように安井らとの間に立ちはだかる。
その上で、彼の背中を見詰めるしか出来ない杏子が、思わず身をすくませてしまうくらい冷え冷えとした声音で安井に問い掛けるのだ。
「さて、三人の中のボスはキミだという認識で合ってる?」
***
岳斗は偉そうにワンワンまくし立ててきたクールビューティー風の女性にターゲットを定めると、あえてニコッと微笑みかけた。
「ぼ、ボスだなんて、わ、私はただ美住さんから大事な彼氏が酷い目に遭わされた当事者ってだけで……べ、別にそんな大それたものじゃ」
ちょっと笑い掛けただけでこれ。さっきまでの勢いはどこへやら。頬を染めながら岳斗を見つめてくるその女の態度は、呆れてしまうくらい精彩を欠いていた。
「ふーん。大事な彼氏が、ねぇ」
岳斗が意味深に〝大事な彼氏〟のところを強調したら、「な、何よ、貴方! 安井さんと笹尾さんを侮辱するつもり!?」と、配下の一人が果敢にも岳斗へ盾突いてくる。
(こっちのは杏子ちゃんに足を掛けたヤツじゃないな。名前は知らないけど)
杏子をわざと転ばせようとしたのはもう一人の方だが、岳斗にとってはどちらでも変わりはない。正直同じ人間として捉えるのも虫唾が走るし、そんな三人の名前なんてどうでもいい。だが、主犯格の〝ヤスイ〟とやらのフルネームを明確にしておくことだけは、今からすることに必要だった。
「そっか、キミがヤスイさんか。ひょっとして下の名はアヤナ?」
岳斗が白々しくそう告げると、安井が瞳を見開いた。
「どうして私の名前を知っていますの?」
本人は動揺を隠しているつもりだろうが、黒目が所在なく揺らめいている。
「あー、それはね――」
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