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朝の校門をくぐると、ことはは昨日とは違う種類の音を耳にした。ささやきが、驚くほど細くなって廊下を流れている。足音が一つ二つ増え、視線が交差するたびに空気が小さく震える。学校という器が、いつの間にか少しだけ歪んでしまったのをことはは直感で感じ取る。日常のパーツは同じだが、組み直されて別のものになっている──そんな感覚だ。
教室に入ると、机の上に新しい痕跡があった。黒いマジックで書かれた細い文字が、誰の机の表面にもない位置に置かれている。ことははそれを拾い上げると、文字は短く、冷たい。一行だけ「見ている」と書かれていた。書体に特徴はなく、誰かが急いで走り書いたように見える。ことはは唇を噛んだ。メモがまた一つ、クラスの空気に沈む。
昼休み、屋上へ向かう道すがらで、ことはは真白と偶然に並んだ。真白の表情はぎこちなく、いつもの流れる笑顔がところどころ崩れている。「ことは、昨夜のグループに変なの入ってなかった?」と真白が小さな声で訊く。ことはは携帯を見せてもらうと、匿名のアカウントが増えており「証拠は回収した」「お前らの後ろに立っている」といった無作為で脅しめいた書き込みが並んでいた。誰がやっているのか。目的は何か。真白の手が震えているのをことはは見逃さなかった。
放課後、ことはは仲間たちと教室を巡回することにした。ことはの提案で無作為に班を組み、二人一組で校内を細かくチェックする。図書室、音楽室、理科準備室、体育倉庫、屋上の植え込み──見落としやすい死角を埋めるのが目的だ。綾川兄妹も校内を回り、瑠衣は非常に淡々と時間と場所の記録を取り、瑠璃は生徒への聞き取りを続ける。彼らの存在は、表向きには安心材料だが、同時に「外部の視線」がかき乱す効果も持っていた。観察されることが、人を防御的にする。
最初の発見は女子トイレの個室だった。扉の内側に貼られた紙片。そこには無数の小さな線で何かが塗りつぶされていた。目を凝らすと、赤いインクのような点が一つ、淡く滲んでいる。血か、インクか。匂いを嗅いでも決定的な手がかりはなかった。ことはは手袋を借りてそれを慎重に封印し、職員室へ持っていくことを決めた。職員室の空気は重く、佐久間先生の顔にも疲労の色が濃い。「こんなことが続くとは」と、彼は呟いた。だが彼が聲を絞るほどに、ことはの中の責任感は大きくなる。
次に見つかったのは、体育館の裏手にある自転車置き場の脇だ。そこに置かれていた二台の自転車のハンドルに、古い絆創膏がひっかかっていた。絆創膏には小さな土と黒い線が付着しており、ことはの記憶のどこかにある誰かの傷跡を想起させる。だが誰のものかはわからない。五十嵐は見つけた瞬間にふざけ半分で笑い声をあげたが、その笑いはすぐに消え、顔色を変えた。笑いの後にはいつも不穏が残る。
クラス内では、口論が小さな火花のように散り始めていた。飯田が誰かの発言を大きく引用し、別の生徒がそれを聞き違えたと反論する。真白が「そんなこと言ってない」と抗議すれば、花北が「いや、そう聞こえた」と返す。矛盾が重ねられ、議論はやがて感情的な非難へと変わる。ことははその間で仲裁に回るが、言葉はもはや冷却効果を持たない。誰かの視線が痛い。誰かの裏返った声が更なる裂け目を作る。
夜になっても事態は沈静化しない。SNSでの矛先は、特定の個人に向けて整理されることが多くなった。ある匿名アカウントが、双子の美架と舞優の写真を加工して「嘘つき姉妹」とだけ書き込んだ。写真にはありもしない証拠が貼り付けられており、炎上の火力は瞬く間に強まる。双子は登校するたびに人の視線に晒され、互いに寄り添う以外選択肢がないかのように見えた。仲間同士の結束が、いつしか個人の孤立へと変換されていくのだ。
綾川瑠衣は専門的な機器を持ってきて、学校の防犯カメラの映像をチェックし始めた。だが校内のカメラには死角が多く、決定的な足取りを捉えられていない。夕方の映像には、長い影が一瞬だけ廊下を横切るシルエットがあるのみで、それが人間なのか物なのかも判然としなかった。瑠衣は画面に集中し、ゆっくりと再生速度を落として確認する。ことはは彼の横顔を見つめ、画面に映る無言の影が自分たちの不安を増幅していくのを感じた。
その夜、ことはは家に帰る途中で村田咲希が働くコンビニに立ち寄った。店内の蛍光灯は明るいが、ことはの心には疲れが募っている。カウンターの向こうで静かにおにぎりを握る村田の手は、変わらず丁寧だった。村田はことはを見ると柔らかく微笑んだが、その微笑みの裏にも気配はあった。「最近、学校のことで噂が多いですね」と村田が囁くように言った。「おにぎり、いつもより売れるんですよ。みんな、落ち着かずに何か食べたがるんです」ことはは小さく笑ったが、その笑いは自分の中の焦燥を消せなかった。
翌日、事態は更にエスカレートする。教室の掲示板に誰かが貼り付けた紙が見つかった。その紙にはクラスメイトの名前と、短い断片的な文章が並んでいる。「嘘つき」「見張り」「黙れ」――黒い文字がそこかしこに羅列され、ランダムに線が引かれている。誰が作ったのか。有志の誰かのいたずらか、それとも誰かが意図して仕組んだ挑発か。佐久間先生は掲示板を即刻撤去したが、紙はすでに写真に撮られ、SNS上に拡散していた。スクリーンという鏡は、嘘も真実も同じ色で照らす。
ことははグループチャットのログを確認し、誤解や捏造がどこで生まれているのかを洗い出そうとするが、偽アカウントや編集された画像が巧妙に介入していることに気づく。情報の信頼性は地に落ち、何が真実で何が演出なのかを判別するのは容易ではない。ことはは自分たちの言葉が人を傷つける刃になるのを、初めて恐れた。言葉は刃だと、今までの軽やかな冗談とは別次元の危険をはらんでいる。
クラス内の会議で、保護者の代表が冷たい口調で問い詰めた。「学校はどうしてこのような状況を把握できないのか」と。佐久間先生は懸命に説明するが、保護者の不安は止まらない。外部の目は厳しく、校内の小さな失敗も拡大解釈される。綾川瑠衣は大人たちに向かって淡々と報告した。確定的な手がかりは未だ掴めないが、匿名の書き込みや掲示物、そして物的証拠の手繰りを続けていると述べる。その冷静さが却って不安を増幅させる。保護者たちは顔をしかめ、学校に対する不信感と怒りを混ぜ合わせながら帰っていった。
深夜、ことははノートに今日見つけたものと疑わしい人物の動線をまとめた。紙と写真、動画の断片がひとつのページに散らばる。その中でひとつだけ妙に目を引くところがあった。図書室のリボンと、廊下の窓ガラスに残された曖昧な指紋と、匿名アカウントの投稿時間が微妙に重なっている。時刻は放課後から夕方の間に集中している。ことははペンを置き、深呼吸した。線は引ける。だが線をつなぐ先にあるのは、人の意図なのか、それとも偶然の連鎖なのか。
ことはは眠りにつく前、窓の外に浮かぶ桜の影を見つめた。風が吹くたびに葉が擦れ合い、カサカサと小さな音を立てる。その音が、今日と同じように誰かのささやきと重なる気がした。ことはは自分の胸にある違和感を見つめた。恐怖は刻々と、しかし確実に人を変えていく。疑念は誰かを悪者にしようとする。だが果たして、悪者とは誰なのか。その定義がぶれればぶれるほど、街全体が揺らぐ。
翌朝、校門には小さな集団ができていた。誰かが朝早く来て、黒い紙を貼っていったらしい。そこには一言「次は君」とだけ書かれている。文字は大きく、周囲の空気を引き裂くように冷たい。ことははその紙を見つめ、息が止まるような感覚を覚えた。脅しは、もはや遊びではない。玩具のように投げられたメッセージは、確実に現実の重さを帯びている。
クラスは一斉にざわめき、誰かが叫び声を上げる。ことははゆっくりと手を伸ばし、紙を剥がした。指先に残る紙の繊維の感触は冷たかった。ノートのページがまた一枚、疑念の記録で埋まっていく。ことはは胸の奥で誓う。連鎖を断ち切るために、自分ができることを全部やると。だがその誓いは、同時に自分をさらに危険な場所へと誘うことになるのを彼女はまだ知らなかった。
窓の外、朝の光が薄く差し込む。校庭の石段に座る子供たちの影が長く伸びる中、ことはは自分の足元にあるものを見つめる。リボン、紙片、匿名メッセージ、そして誰かの視線。怪事件の連鎖は、まだ終わっていない。むしろ、始まったばかりだ。次の一手が何かを決める。その手は誰の手だろうか。ことはは深く息を吸い込み、今日という日に向き合う準備をした。