◻︎着る服がない!?
四畳半の和室は、私の部屋だ。最初は来客用の部屋として空けておいたけど、泊まりでくるお客なんて、ほとんどいなかった。だから、光太郎のいびきが気になり出した頃から、この部屋を私の部屋にした。
来客用の布団は、何年も使わなかったから処分してしまった。もしも誰かが泊まりたいと言ったら、運良く近所に温泉もあるしビジネスホテルもある。いっそのこと私たちもそこに泊まれば、旅行みたいだし料理も掃除も布団の用意もしなくて済むから、こんなに楽なことはない。
私の手紙を一通だけ大事にしている光太郎を見ていて、思い出したことがあった。私も光太郎からもらったものを一つだけ、大事にしまっていたのだ。
___えっと、あれは確かここらへんに……
小さな机の引き出しに入れておいたつもりが、見当たらない。普段使わないけど、なくしたくないものだから、どこかに大事にしまったはずなんだけど。
いざ探して見つからないと、意地でも探したくなってしまう性格だ。クローゼットの扉も開けて中をまさぐる。
「わっ、やだ、もうっ!」
無造作に積み上げられたトレーナーやセーターやジーンズがどさっと雪崩れのように落ちてきた。
「もうっ、誰だよ、こんなにしたのは!私だよ!」
自分で自分にツッコミを入れながら、上の棚のバッグ類も取り出す。こうなったら、何がなんでも探し出してやる、と意気込む。バッグの中にはポーチがいくつか入っていた。その中の一つに、それはあった。光太郎がカセットテープに録音してくれた、あの頃流行りの曲。10曲のうち、最初の曲が“僕の気持ちにピッタリだったから”と言って渡してくれた。
『I love you だけどサヨナラ……』
そのタイトルを見た時、私は光太郎への気持ちを確信したんだっけ。サヨナラしたくないと強く思って、それで予約していた式場をキャンセルして、その彼には何度も何度も謝って別れてもらった。思い出すと、きゅんとせつなくなる、なんてことはもうないけど、このカセットテープが私の人生を変えたんだよなぁとしみじみ考える。少し古びたレーベルには、光太郎のクセのある文字が並んでいて、あの頃のことを思い出した。
「お母さん?どこ?」
思い出に浸っていたら、伊万里の声が聞こえてきた。
「ここだよ、二階の私の部屋!」
トントントンと階段をかか上がってくる音がした。
「こんなとこにいたの?…って、なに、これ!」
畳に座り込んでいる私の周りは、崩れてきた洋服の山やバッグが散らかって、足の踏み場がない状態だった。
「ちょっと探し物してたんだけど、ひどいね、コレ」
自分でも呆れるほどの、散らかりだ。
「最近片付けを始めたって言ってたのに、洋服はまだだったの?」
「そう。やらないといけないよね」
「まぁ、やったほうがいいね。だってこの前出かける時言ってたじゃん?“着ていく服がない”って。こーんなにあるのにさ」
「そうだね、おかしいね」
「あれは、“着ていきたい服がない”ってことだったんだね。服ならこんなに持ってるのに」
伊万里に言われて気づいた。
___そうだ、こんなに服があるのに、どうして“着ていく服がない”と言ってしまうんだろ?
「どうしたもんかねぇ」
どこかのおばあちゃんみたいな口調になってしまう。このおびただしい洋服の山を見ると、一気に気持ちが重くなる。整理整頓はできているほうだろう。収納棚を増やし、上着は畳んで立てて収納しているし、冬物と夏物は分けてあるから衣替えの時も、衣装ケースごと入れ替えればいい。
___にしても
◇◇◇◇◇
伊万里に言われた通りだった。先月だったか友達にランチに誘われた時、着ていくものに悩んで約束の時間に遅れそうになったことがあった。ちょうど休みで家に来ていた伊万里がその時の私の様子を見ていた。
「お母さん、時間に遅れるよ」
「うん、だけどなかなか着ていく服がなくて」
「まだ悩んでるの?」
「そう、ね、これでどう?」
チュニックというやつにワイドパンツ、小花柄のスカーフ。
「ん?んー、スカーフが合ってないかも?お母さんは顔がぼんやりしてるから、大きな花柄か鮮やかな単色のスカーフがいいと思うよ。小花柄って、乙女のイメージがある」
「ぼんやりで悪かったわね。お気に入りなんどけどな、コレ」
「お気に入りなら、別にそれでいいんじゃない?」
「えーっ、そんなテキトーな!」
「街行く人達は、お母さんの服装なんてたいして気にしてないから。ほら、時間、時間」
なんとなく、伊万里の言うことにも納得した。私の服装なんてファスナーが開いたままとかでもない限り、特に誰も気にしないんだろうなと思う。けれど、久しぶりに会う友達だからオシャレしたいと思うんだけど。
ちょっと考えたけど、伊万里が言うように、鮮やかな紫の長方形のストールを首にかけた。巻かずにひっかけただけ。
「じゃ、行ってくるね」
「お?お母さん、それいいよ、ビシッとしまって見える」
「ホント?よかった」
伊万里のアドバイスの甲斐があって、友達にもセンスがいいと褒められた。私にしてはちょっとチャレンジしたコーディネートだったけど、思いのほか評判がよくてうれしかった。
ランチの後、ちょっとぶらぶらしようと通りを歩いた時、お店のウィンドウに映った自分の姿を見て“へぇ、こんな感じなんだ”と思った。
「あ、そういうことか!」
「え?どうしたの?涼子」
「ねぇ、みんなは家に全身が映る大きな鏡ってある?」
「うちは玄関の靴箱のドアにあるよ」
「私、持ってないな。それがどうしたの?」
「私も持ってないんだけど。全身映る鏡で確認したほうがいいと今気づいたから。いつもメイクする鏡くらいしか見ないからね、これからはちゃんと全身を確認しようかな?と」
あの大量の洋服たちを、そうやって着るヤツ着ないヤツで分けてみよう。全身で見れば、また違う感覚にもなるかもしれない。
「よし!姿見、買うわ」
「さすが、涼子。思い立ったが吉日な性格は変わらないね」
そのまま家具店に行き、姿見を買って配達を依頼した。
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