コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
【投稿が遅れてすみません。私事ですが多忙につき、以降の投稿は不定期になります。ご迷惑をかけますが完結できるよう努めますのでこれからもよろしくお願いします!】
9月も終盤になると、近づいてくるとある行事の実感に教室全体はどこか浮き足立っていた。
“林間学校”
それは誰もがきっと待ち望んでいた、この学校ではその年の5年生だけが参加を許されている小学生生活でも唯一無二の一大イベントだった。
「ついに来週か!カレー作りに栗拾いにキャンプファイアー!三日間みんなと一緒なんてわくわくするな!」
「そうだな!俺はナイトハイキングが気になっててよ、夜の山道を探検するなんて普段はめったにやらないから楽しみなんだ!」
「去年は肝試しだったんだっけ?たしかに夜にハイキングに行くことってないよな……。」
「ハイキングといえばさ、建物のどこかに幽霊が出る部屋があるって噂知ってるか?ナイトハイキングの最中に懐中電灯を落としたせいで迷子になって死んじゃった女の子の幽霊が夜になるとーー」
「やめろって!それ、もし俺たちの部屋だったらどうするんだよ?!」
「ははは、それはもう覚悟するしかないさ 」
笑いまじりに手首をダランとさせて幽霊のポーズを見せる彼に「写真にも写ってるかもしれないぞ?」と大野も便乗する。
林間学校の参加に伴い、大野たちは県外のとある山中の施設に泊まりに行くことになっていた。
なんでもこの幽霊の話は先輩から後輩に代々語られてきたものらしく、一般的には生前の少女が使っていたとされる当時の女子部屋に出ると噂されているものの「どこの学校の生徒かわからないせいでどの部屋に出るのかわからない」という嫌なおまけまでついていた。
つまり「ここは男子部屋だから現れないだろう」などと安心できることはなく、また泊まる建物が山の中に複数あるだけに「昔の話なら旧館の方に出るはずだ」とか「今の新館は幽霊が出るせいで改装することになったんだ」といった話がまことしやかに語られているのである。
おかげでナイトハイキングそのものを嫌がる人や、単純に「面倒くさいからやりたくない」という人が少なからずいるようなのだが、それはそれとして大野はナイトハイキングを楽しみにしていた。
「……そんなに気にすんなよ。もう部屋割りは変えられないし、普通に考えたらそんな部屋もうとっくに閉鎖されてるはずだろ?」
「そ、それもそうだな……。」
少し呆れ気味に笑って話す声に怖気付いていた彼もようやく落ち着きを取り戻したようだ。
大野は一瞬「下手に封鎖すると良くないことがおきるから今も渋々使われているかもしれない」という考えが脳裏をよぎったが、あえてそれを口にすることはなかった。
そんなわけで期待に胸を弾ませては怯えたり、はしゃいでは先生に釘を刺されたりを繰り返した一週間後、ついに念願の2泊3日の林間学校の初日が幕を開けたのである。
「これお願いします!」
バスの傍に立つ男性の一人に大野が荷物の入った重いボストンバッグを渡すと、それは他の荷物と同じように車体の下側にある収納空間に手際よく積み込まれていった。
秋の気配を感じる澄んだ青空が綺麗だった。
大荷物の入ったボストンバッグとは別に、しおりや筆記用具が入った持ち歩き用のリュックサックを背負った大野は運転手にも挨拶をしてバスの中に乗り込むと、席順を数えながら座席の間の通路を進む。
迷うことを覚悟してしおりはいつでも開けるようにしていたが、先に座っていた奴らのおかげもあって自分の席はすぐに見つけることができた。
普段は寡黙な奴さえも今日はどことなく嬉しそうな顔をしていてこっちまで嬉しくなるのがわかる。
「皆さんシートベルトは締めましたか?それでは出発します!」
点呼完了の先生の合図と、歓声。
校門までの道にそって立つこちらを見送る先生たちに手を振りかえすと、連なったバスは見知った道を抜けて高速道路へと進んだのだった。
「すごい、どんどん遠ざかっていくな……!」
「俺たちの学校とかあっという間に見えなくなったもんな。すごいよな!これがあればいつかは日本一周だって夢じゃないんだぜ?」
日本一周……考えただけでワクワクする響きだ。
窓際の席に座る大野は通り過ぎる標識に書かれた地名をよく見ることができた。
「日本一周か!それはいいな!飛行機もいいけど車で行くのはまたロマンがあるよなぁ……」
大野の視界の端でまた一つ看板が近づくと遠のいていった。
工事中の道路やこれから作られる道路を合わせれば、いつかはきっと叶えられることだろう。
どんな旅にもロマンがある……目的地が遠く壮大ならばなおさらだ。
「いいよなぁ……俺もいつか自分で車を運転してどこかに行くのが夢なんだ!綺麗な景色見て美味しいもの食べて、お土産をいっぱい買って帰るんだ。」
「結局お土産かよ!でもわかるぜ……そこでしか買えないものっていうのはやっぱり特別だよな。」
「わかってんじゃん!何気にサービスエリアの雰囲気とか見てるだけでも楽しいし、そこで食べるご飯もまた良いんだよな〜」
頷く大野の隣で彼は楽しそうに笑う。
いつの間にか二人が眺めていた景色は変わり、増えていく植木や畑は見慣れないものが多く占めるようになっていった。
まもなくして休憩のために立ち寄ったサービスエリアでは一切の買い物を許されることはなかったが、空腹を強く感じ始める頃にはバスは目的の施設へとついていて、バスから降りた大野たちは積まれていた荷物を一通り大部屋へと運び終えるとようやく昼食となった。
「よし、こんなもんか」
大人数がレジャーシートをしいて集まった一角で、大野たちは風で飛ばされないように背負っていたリュックサックをおろすとそれぞれのお弁当を取り出す。
ーーいただきます!
三人の声が重なると、談笑はわいわいと賑わう周囲の声に溶け込んでいく。
途中でこちらにまわってきたカメラマンに向かってピースをして、昼休憩の終わりがけにクラスごとに集まって交代で集合写真を撮ると、大野たちは早くも夕食の準備が迫っていた。
……一日目の夕食は特別だ。
写真を撮り終わったクラスから班ごとに分かれて整列した生徒たちは、先生の引率のもと木々の茂る森の中へと入っていく。
道のりにそって斜面を登ると開けた場所に出て、一箇所に集合するために歩くうちに連なる水道の蛇口と大型の机が集まる屋根つきの作業場や、石で作られた釜戸のようなものがだんだんと目に入ってきた。
「えー、ではいよいよですね、今から皆で夕食のカレー作りを始めます。各班ごとにそれぞれ係を決めてもらったと思いますが、くれぐれも危険がないように、各自これからいう注意事項をしっかり頭に入れて作業してください。」
あぁ、いよいよだ!
ワッと上がりかけた歓声が瞬時に静まると、多岐にわたる注意事項をマイクで話す先生の声がよく聞こえてくる。
大野の担当する係の役割は、鍋で煮込む直前までのカレーを作ることだった。
大野の班の構成としては、男子は大野とともに先ほど一緒に昼食を食べた梅林と竹田、女子は月岡と松本、花浦の計6人なのだが、自分と同じ係になった竹田以外は誰が何の係を担当しているのかは思い出せない。
「じゃあ俺たち『かまど係』だから行ってくるわ。」
一通りの注意と説明が終わっていよいよ分担作業が始まろうとしていたその時、かまど係の召集に合わせて立ち上がったのは梅林と花浦だった。
そういえば二人とも係決めの時に真っ先に立候補していた気がする。
あぁそうだ……かまど係になることが決定した時には「俺焚き火みたいに薪をつかって火を起こすの夢だったんだ!」とあんなにも嬉しそうに話していたじゃないか。
残りの皆で彼らを見送るも、カレーと飯盒炊飯の召集もすぐに始まって班は敢え無く一時解散となった。
「ーーっ、やっぱり水冷たいな」
「さすが山って感じだな……。寒いしパッパとすませようぜ!」
「そうだな!」
二人は鍋やボウルを一度洗い、先生の指示に従って受け取ってきた野菜一式の下処理をテキパキと進めていく。
水で濡れないように袖をまくったせいで、露出した腕が少し肌寒かった。
山の上は気温が低いのと真夏ではないこともあって長袖を着ているが、日差しが雲と屋根によって届かないせいで寒さはより増しているように感じる。
冷たい風で背筋がゾクリとするたびに、チラチラと火元に目をやる視線の数が増えるのを大野は見逃さなかった。
「大野、これうまく切れないだけどー」
「え?」
竹田の声に大野はじゃがいもを切る手をとめて顔を上げる。
隣を見ると、包丁で切ろうにも上手く切れずまな板の上に引き伸ばされた豚肉の塊が目に入った。
「何回切っても切れなくてさ……どうしたらいいと思う?」
「そうだなーーこう、左手で上から動かないようにガッシリ押さえて切るのがいいと思うぜ。あとはしっかり肉を一ヶ所に集めて……」
大野の声に合わせて竹田は手を動かしていく。
「ーーーーあ、切れた!」
「おぉ!」
満面の笑みで感謝を伝える竹田を前にすると自分まで嬉しくなってきて、大野は笑った。
続けて切る様を横で見ていると、切り終わった肉を見た竹田は「あれ?」と不思議そうな声をあげる。
「だめだ、また繋がってるや。途中まで上手く切れてたのに……。」
「生の肉だと難しいよな……かわろうか?」
「いや、せっかくだしもう少し頑張ってみるよ。」
「そっか。じゃあ頑張れよ!」
「おう!大野もな!」
ニカッと竹田が笑って言うと、二人はそれぞれの作業へと戻ることとなった。
やがて切り終わったジャガイモをまとめてボウルに入れると、先に竹田が切っていた人参のオレンジと合わさって中身が一気に華やかになる。
目が染みるのを堪えながら大野が玉ねぎを切り終える頃には竹田の方もどうにか肉を切り終えたようで、巡回する先生に大野が指示を仰ぐと一足先に鍋に具材を入れて待機することが決まった。
「やったな、俺たちの班が一番だってさ!」
「あぁ!」
ハイタッチの軽快な音に笑顔が重なる。
「大野すごいよ……俺、今川先生のあんな顔初めて見た。」
「あぁ、俺も驚いたぜ……」
“君たちは優秀ですね”
集会での言動からして普段から厳しそうな彼が少しからかうようにニコッと笑うのは意外だった。
普段は縁がない言葉はいざ言われてみるとなんだかこそばゆい感じがする。
こちらを褒めるのをやめない竹田に「俺も母さんの手伝いをしてたからわかっただけだって」と大野は答えるも、彼の勢いはほとんど変わることはなかった。
「とにかく、俺と竹田の息があってたんだよ。それにしても出来上がるのが楽しみだな!みんなは今頃どうしてるかな。」
「飯盒の方はわかんないけど上手くやってるんじゃない?それより俺は梅林が何かやらかしてそうで怖いぜ……。」
「た、たしかにな……。」
普段から少し抜けたところがあるのは梅林の長所だが短所でもあった。
要は状況次第なのだ……底抜けに明るくて自信があるのは頼もしい一方で、何かを間違えたことにさえ気づかない恐ろしさも彼は併せ持っている。
「まあ、何があっても花浦がいるし大丈夫なんじゃないか?今までもキャンプとかでたまにカレーとか作ったりするって言ってたし!」
「そうだな……花浦、頼んだぞ!」
二人して笑っていると、不意に大野は先生の傍らで苦戦する数人が目に入った。
あれは忘れもしない……夏休みの目前「お前が船乗りになんてなれるわけがない」と一際強く否定した二人組の姿がそこにはあった。
彼らは折原と同じ班だった気がする。
いつも一緒にいる折原の姿が見えないということは、彼はどこかでカレー作り以外の仕事をしているのだろうか。
悪戦苦闘する彼らの姿を見るのは新鮮な体験だが、何かトラブルを起こした様子がないのを見るに単に包丁を使うのに慣れてはいないだけなのだろう。
大野は微かな優越感を感じつつもそれを味わう暇はほとんど無く、全ての具材を切り終えたことを確認した先生の号令で一斉に次の作業が始まろうとしていた。
「では今切ったものを鍋に入れて、具材が全て隠れるぐらいに水を入れます。水が多すぎると出来上がるまでに時間がかかるので入れすぎないようにしてください。鍋に水を入れたら順番にかまどの方へ運んでもらいますので呼ばれるまでは決してまだ動かないように、いいですね?」
念を押す声に、およそまとまった無数の「はい」が響く。
興奮でわいわいと賑わう周囲とともに大野たちも会話を弾ませていると、やがて呼ばれて立ち上がった数人とともに、案内されたそれぞれの班のかまどへと大野たちは協力して鍋を運んだ。
「大野!竹田!」
明るい声で二人の名前を読んだのは梅林だった。
「すげー!これ、お前らが全部切ったんだろ?」
「まあな!」
「聞いてくれよ!俺たち一番早く切れたんだぜ?」
“君たちは優秀ですね”
例の声真似をしてみせる竹田に梅林は目をまん丸にして驚いた声をあげる。
「嘘だろ!?まさかあの今川先生が!?」
「あぁ!そのまさかさ!」
「ねぇ、ちょっと!」
強い語気に梅林が振り返ると、かまどのそばにたつ花浦が少し苛立ったように声をあげて言った。
「話すなら先に鍋を置いてくれない?こっちはずっと待ってるんだけど!」
「あぁ、悪い、花浦……」
大野と竹田が慎重に鍋をかまどの上に置くと、金属製の格子の上で安定したことを確認して二人は火元から離れた。
「そういえば、かまど係って何をやったんだ?」
竹田の質問に大野もうんうんと頷くと、それを見た梅林は「俺たちはーー」と口を開いた。
「俺たちは薪を割って、その後は火おこしだな。俺は下手だったけど花浦はすごい上手かったぜ!火おこしの時とかーー」
「ちょっと、こっちはまだ仕事残ってるんだけど!」
「あ、ごめん。」
花浦に呼ばれた梅林は受け取ったうちわで火に向かってせっせとあおいでいる。
先生の言う“鍋に半分当たるくらいの火”にするために、それは必要な過程だった。
「梅林があんなに言うなんてすげーな、花浦!」
「梅林に比べればね。慣れてないからって 薪を横に割ろうとしたのはあいつだけだし。」
「は?」
「嘘だろ、梅林……。」
それは“俺は下手だったけど”で済まされる問題なのだろうか?
落ち込む様子が一切ない梅林の無敵のメンタルにはつくづく驚かされるばかりだ。
一時はあっけにとられていた大野と竹田だったが、やがて先生からカレーの調理の続きを促されるとカレー係としての義務を果たすべく、かまど係の二人のもとへ加わったのだった。
先生の指示のもと、二人で交代しながら鍋をかき混ぜたり煮汁をボウルに移しながらそばをうろうろする梅林と三人で他愛もない話を続けると、退屈を感じることもなくあっという間に時間が経っていった。
「よし、火も通ったみたいだしそろそろルーを入れるか!」
「俺!俺入れたい!!」
鍋の中身を確かめていた大野の声に、真っ先に手を挙げたのは梅林だった。
「まって俺も!カレー係は俺の方だぞ?」
「いいじゃん、先生も『みんなで協力してね』って言ってたし、俺も入れたっていいだろ?」
「でも薪を横に割ろうとする奴に任せるのはなー」
「はぁ?!な、なんでそれをーー!」
バッと振り返った梅林に花浦は「だって事実じゃん」と冷たく言うばかりだった。
「それより早くいれたら?」
「そ、そうだな……!」
「俺が鍋混ぜてるから2人で半分ずつ入れればいいだろ?」
「たしかに!」
「いやいや、俺たちで半分こしてどうするんだよ!大野も入れようぜ?」
「いや、俺は別にーー」
「そうだな。確かに俺たちで二等分するのは冷静におかしい気がするわ。」
既に二等分にされたルーの片方を持っていた竹田からさらに半分にした一欠片を渡されると、苦笑いを浮かべつつも大野はそれを受け取るしかなかった。
「花浦は?」
「いらない。わたし自分の仕事だけで十分だから。」
「ふーん。じゃあ大野にあげるよ。」
「えぇ……?」
結果として四等分されたルーの欠片は梅林が一つ、竹田が一つ、そしてカレーをかき混ぜていた大野が二つ分を同時に鍋の中に入れることとなった。
「すげーいい匂い!」
「出来上がるのももう少しだな!」
ルーが溶けると見た目も一気にカレーらしくなるものだ。
残された仕事はとろみがつくまで焦げないように混ぜ続けることだけだった。
「あ、松本と月岡だ。」
梅林の声に大野が目をやると、飯盒係だった二人がちょうど戻ってくるところだった。
「すごい、もうほとんどできてるんだ!」
「ね!すごくいい匂い!」
「あとはとろみがつくまで混ぜたら完成だからね。もう少しだよ。」
火元を離れずに答えた花浦の声に、あれ?と大野は思う。
カレー係の俺と竹田は時々交代して鍋を混ぜていたが、もしかすると花浦はずっとかまどの前にいるのではないだろうか?
火を大きくするところは梅林がやっていたのを覚えているのだが、その後は……。
ルーの分配の他は誰かと会話してばかりだったせいで全く気づかなかったが、ただ黙って自分の役職に徹しているのはなんだか申し訳ない気がする。
集中している後ろ姿にどう声をかけようかと大野が考えていると、戻ってきた松本たちと話している竹田のもとから静かに離れた梅林は、かまどの前でうちわを動かしている花浦の元にそっと耳打ちする。
「ーーなあ、そろそろ俺にもそれかわってくれないか?」
「嫌よ。私このためにカレー係に立候補したんだから。」
「頼む!そこをなんとか……!」
「ーー花浦」
大野の声に驚いた梅林と目が合った。
楽しそうに話していた竹田たちの視線もこちらに向けられる。
一方で、当の花浦はビクッと背中を震わせたもののかまどから目を離すことはなかった。
「梅林と代わってもいいんじゃないか?お前俺たちがカレー混ぜてる時からずっと火の前にいるだろ?そろそろ休憩してもーー」
「余計なお世話だよ。私はこのためにかまど係になったんだから梅林にまかせるわけにはいかないの。」
「それなら梅林もかまど係だろ!梅林がやったって別にいいんじゃーー」
「うるさい、竹田は黙ってて!」
ピシャリと放たれた言葉に竹田の言葉は遮られた。
「私はこの仕事がしたくてわざわざ立候補したの。係を決めた時も私と梅林以外、誰も立候補すらしなかったよね?さっきまでずっと話してたのに都合が良すぎない?」
「確かに俺たちは立候補してないけどよ……」
「せいぜいあんたたちはルーを取り合ってればいいのよ。あんたたちと無駄話している暇はないの。私は私の仕事をするだけだから。」
花浦はこれ以上話す気がないようにかまどの方へと向き直った。
花浦がこうなったらもうどうしようもない……それはこれまでの経験からみても明らかだった。
「たしかに俺たちずっと話してばかりだったよな……。」
「しまったなぁ。……梅林、お前俺たちと話す前にもっと早く聞いておくべきだったぜ。」
「聞いたぜ?でも何回聞いても『今は無理』ってなかなか代わってくれなくてよ……!」
梅林の声に二人はギョッとして花浦に目をやる。
まさか何度も交代の交渉をしていたのにそれを無視し続けていたというのか?
「おい、梅林は何度も聞いたって言ってるぞ!」
「代わってやれよ!流石にそれはないだろ! 」
「うるさい!無関係なら黙ってなさいよ!」
「無関係じゃねーよ!お前こそいい加減にしろよな!」
「そうだそうだ!」
「私の声が聞こえなかったの?集中しているんだから話しかけないでよ!」
これはいよいよまずいことになってきたぞ。
鍋を囲む大野たちとかまどに向き合う花浦……3対1で言い合ううちにその勢いは次第にエスカレートしていく。
「ねぇ深雪ちゃん、梅林に代わってあげたら……?」
どちらに味方をするべきか考えあぐねていた女子の1人が恐る恐る声をかけると「はぁ?」と花浦は不満を隠すことなく大きな声をあげた。
「なんで?じゃあこの鍋焦がしたら責任とってくれるの?」
「それは……!」
「ごめん、もういいよ!」
一際大きな梅林の声で、言い合う声はピタリと止まった。
「ありがとう2人とも……松本もありがとう。でもいいや、気持ちは嬉しいけど俺がやったらまた何か失敗しそうだし。作るのが上手い花浦がやった方が美味しくできるならその方がいいさ。」
「でも……!」
食い下がる大野に梅林はゆっくりと首を横にふった。
誰の方が上手くできるとか、これはそういう問題なのだろうか?
今日はせっかくの林間学校なのに……大野はその主張に納得できなかった。
これは正当な権利のはずだ。
誰が聞いたって明らかな正さなければいけない道理というか、むしろ取り戻すべき矜持のはずなのにどうして平気にしていられるのだろう?
「最初からそうしてればいいのよ。」
「おい!」
売り言葉に買い言葉、食ってかかろうとする竹田を梅林は無言で制止する。
「……なんでだよ。悔しくないのか?」
「俺も何も感じないわけではないけどよ……でもせっかくみんなでカレーを作ったのに喧嘩するのはもったいないと思ってさ。この後のこともあるんだし、大人しくしておこうぜ?」
「梅林……。」
確かに、このメンバーでの活動はこの後にも控えている……今夜のナイトハイキングだってその一つだ。
視界の端で何事かと奇異な視線を向けていた他の班の奴らがそれぞれの作業へと戻っていくのを見るに、これ以上争うべきではないのは確かだろう。
しかし正直なところ、意外な発言だった。
出来上がった班から夕食にするために手が空いている人に食器と福神漬けを取りに来るよう促すアナウンスが響くと、梅林は「俺行ってくる!」と歩いていってしまった。
……たしかに筋は通っている。
班ごとに近くの机に集まっていざ出来上がったカレーライスを前にすると「おぉ……!」と歓声があがり、先ほどの険悪な雰囲気は一転して本来の和やかさが戻ってきた気がした。
立ちのぼる湯気と香り、真っ白な白米にところどころ混じった薄茶色のおこげがなんとも言えない味をだしていて、写真屋さんが回ってきた時は誰もが屈託のない笑みを浮かべてピースサインをしていたほどだ。
「それで今川先生がまわってきて『君たちは優秀ですね』って言って笑ったんだぜ!なんてったって俺たちが一番最初に具材を切り終わったんだからな!」
「すごいね!私たちなんて飯盒の水の量を間違えそうになって大変だったんだよ。」
「気づけてよかったよね……先生に感謝しないと。」
「飯盒は失敗すると悲惨だからね。」
「でも失敗しなかったからいいじゃん!俺なんて危うく薪を横に割るところだったんだぞ?」
「えー嘘でしょ!?」
「梅林はいっつもこうなんだよな……。」
大仕事を終えた後に食べる達成感はそれだけで何倍にも美味しさを増大させる。
しばらくして一番最初に食べ終わった竹田は立ち上がると、鍋に残ったカレー見ておかわりするかどうかを順番に聞き始めた。
「竹田、俺にもちょうだい!」
「おっけー……はいよ!」
「ありがとな!」
大野は竹田から皿を受け取ると、残っていた白米を覆い隠すカレーに思わず笑みが溢れた。
「嬉しそうだな、大野。すごく幸せ〜って顔してるぜ」
「まあな。ーーやめろって、俺はそんな顔してないぞ!梅林も怪人ジュール2号の真似するんじゃねぇ!」
わざとらしく高い声をあげながら頬に手を当てて首を傾けたり、タコみたいにクネクネと身をよじる二人に皆が笑い声をあげる。
とはいえこれはなんとも贅沢な食べ方じゃないか……ルーをたっぷりかけたカレーは幸福の塊なのだ。
「そろそろ片付けだって。」
「話してないで早く食べちゃいなさいよ。」
「わかってる……よし、ごちそうさま!」
大野は残ったカレーをかきこんで手を合わせると立ち上がって後片付けに加わった。
火元と違ってやはり水場は寒かった。
大野たちが鍋にこびりついた汚れと戦う傍らで、上手く水につかっていなかった飯盒を洗う飯盒係の戦いは悲惨だった。
「痛っ、米が刺さったんだけど!」
「大丈夫か、木村?それにしても焦げが酷いなこれ……一度先生に聞いてみるか。」
風はいっそう冷たくなっている気がする。
一通り全部洗い終わって先生のチェックをもらった大野たちが自分たちの班に戻ってくると、先に戻っていた皆が「おかえりー」とこちらを迎えてくれた。
「寒いね……早く中に戻りたいよ。」
「みんな遅くない?一体どれだけ時間が経ってるとーー」
花浦の声を遮るようにメガホンの音が鳴って、そこからは聞き慣れた担任の先生の声が聞こえてきた。
「えー、どこかにトングが余っている班はありませんか?繰り返します。どこかにトングが余っている班はありませんか?」
アナウンスにざわざわと動揺が広がる。
「ここには無いよな?」
「あぁ、ちゃんと洗って返したはずだぜ。」
「早く見つかるといいけどな……。」
ポツリと呟いた声も虚しく、次のアナウンスで全員での捜索を依頼されると大野たちは寒い中歩き回ってトングを探すこととなった。
「あー寒い。……これ本当にあるのか?」
「でも探すしかないだろ。それにしても情報が少ないよなぁ。」
「なくした班は何してるのよ!連帯責任って本当にろくでもないーー」
「まあまあ……みんなで探したらそのうち見つかるでしょ。」
「見つかってないから言ってるのよ!」
似たような会話をしているのは 大野の班だけではなかった。
誰もが理不尽に我慢を強いられているのだから当然だろう。
その後2度に渡る捜索の末に例のトングはどこからか発見されて、大野たちはその場所を知ることこそなかったが事態はことなきを得たのだった。
「えー、お疲れ様でした。少々トラブルもありましたがこうしてね、無事に終わることができてよかったです。この後は一組から順番にーーおや、」
マイクを持った先生が驚いたように頭上を見上げる。
大野も頬にポツリと滴った水滴に気づいて顔を上げると、降り出した雨はしだいに数を増してあっという間に勢いを増していく。
「雨か……!どうりで寒いわけだぜ。」
「最悪……ねぇ、前髪変じゃない?」
「あーあ。トングさえ早く見つかってたらこんなことにならなかったのに!」
大野の周りで不満は次々と形となっていく。
せめて早く止んでくれればという願いも虚しく、退散を強いられた大野たちは宿舎までの道のりを雨の中歩いて戻ることになった。
「ラッキー、俺の上着フードつきでよかったぜ。」
「いいなー、俺もフードのある上着にすればよかったな。」
「おい、竹田もフードついてるぜ?」
「え?あぁ、本当だ!ありがとな、大野!この上着、最近買ったばかりだから忘れてたぜ」
これでうちの班は全員フードを装備したわけだが、その時、不満ばかり言っていた花浦が突如何かに気がついたように「あ」と声をあげた。
「ねぇ、この雨ならナイトハイキングも中止になるんじゃない?」
「おいやめろよ、そういうこと言うの。」
「別にあんたたちに言ってないわよ。私は松本さんと月岡さんに話しかけてるんだから。ねぇ、二人ともどう思う?」
「そうだね、もしかしたらやらなくていいかもしれないね!」
「たしかに!今日のナイトハイキングが無くなるならそれはそれでラッキーだよね〜」
終始沈黙する大野に小声で「大野」と話しかけたのは竹田だった。
「あんまり気にするなよ。」
「わかってるさ。……ありがとうな。」
「その意気だぜ!まだ中止になるって決まったわけじゃないんだし、まだまだ楽しいことなんてこれからいっぱいあるんだからな!」
ニカッと笑う彼らに心が軽くなる一方で、大野が気がかりなのはナイトハイキングが中止になるかどうかではなかった。
行く末を案じるのは大野も同じなのだが、どちらかというと中止を望む声が思いのほか多いことの方がショックだったのだ。
面倒くさい、やりたくないといった声は少なからず聞いてきたが、ここにきてその数は前よりもずっと増えているような気がする。
夜の山道を歩くなんて楽しいと思うけどな、と大野は思った。
夜なのがだめなのか、それとも山道なのがいけないのか……その気持ちはよくわからない。
各部屋に戻った大野たちだったが淡い期待も虚しくナイトハイキングは雨のため中止となり、代わりに食堂で職員や教師陣の話す怪談をいくつか聞いた大野たちは各部屋で消灯までの時間を過ごすこととなった。
「大野、竹田、今日のふりかえり書けたか?」
「うーん、もう少しだ。……なんだよ、嬉しそうな顔して」
「ふふふ……俺、トランプ持ってきたんだ。せっかくだからみんなでやろうぜ!」
じゃーん、とトランプを見せる梅林に「おぉ!」と二人が声をあげる。
「いいね!何やる?」
「ババ抜きとか7並べとか?でも三人だとちょっと味気ないよなぁ。」
書き終えたしおりを閉じた竹田がキョロキョロと周りを見わたすと、一塊で畳に向かって何かを書いている男子グループに「おーい」と近づいて言った。
「なぁ、それ終わったら俺たちと一緒にトランプやらない?」
「俺たちはいいよ。あぁ、でも遊ぶならできるだけ静かにしてほしいな。」
「え、なんで?」
不思議そうに尋ねる梅林に不機嫌そうに口を開いたのは有馬だった。
「僕たち塾の課題があるんだよ。これが終わらないと帰ってからがものすごく大変なんだ。」
「塾!?お前ら、こんなとこまで勉強しているのか?!」
「俺たちだって別に好きでやってるわけじゃないよ。」
「大変だな……疲れてるなら休ませてもらえばいいのに。」
「帰った次の日が塾なんだよ!もう邪魔しないでくれない?一日で終わるなら僕たちだって苦労してないんだからさ!」
その声は離れたところにいる大野たちの耳にも入ってこないはずがなかった。
トボトボと戻ってきた竹田を労うと、気分を新たに大野たちは三人でババ抜きをすることになった。
「よし、あがり!」
「やられたー!また竹田の勝ちか!」
「これで三連勝かよ?すげぇな!」
「まあな!今日の俺は運がいいのかもーーし、しれないな。ははは。」
有馬たちの強い視線に気づいた竹田の声がトーンダウンしていくと、大野も改めて小声で話すように言われたのを思い出した。
「……なんだかいつもと変わらないな。せっかくだからみんなで何かして遊びたかったのに。」
「しょうがないよ、こればっかりは。」
「人それぞれだから難しいよなぁ……。」
隣の部屋からは何やら大人数で騒ぐ声が聞こえてくる。
向こうの部屋は楽しそうだな……とはとても言えなかった。
大野たちのクラスのうち、二分割されたもう片方の男子部屋にはこの部屋よりも比較的賑やかなメンツが揃っている。
声からすると、何か大人数で遊んでいるのだろうか?
「そうだ、枕投げしないか?」
「さすがにそれはないだろ……。」
楽しそうなことが始まろうとした矢先、その提案は無情にも竹田に遮られた。
「この枕、一応借り物だろ?」
「それはそうかもだけど……。」
「なぁ、竹田もそんな固いこと言わなくてもよくない?」
「まあまあ、二人とも落ち着けって。」
大野は睨み合う二人を仲裁するも、心の端に一抹の寂しさがじわじわと広がっていくのがわかった。
もしかすると期待が大きすぎたのかもしれない。
“みんなで協力して火加減を調節した”
“夜は部屋のみんなでたくさん遊んだんだ”
皆の事情も天候のことだって仕方がないのはわかっている。
しかし手紙の文句がよぎるたびに、なんともいえないやるせなさを感じるのだ。
全てが思い通りになるはずがないのに、致命的な何かが欠けているような気がして、満たされない。
「もうすぐ消灯か……俺は眠いから先に寝るわ。おやすみ大野、梅林。」
「おやすみ……。」
布団にもぐって背を向ける竹田に、大野と梅林だけがその場に残されていた。
「……なぁ、梅林。あと少しで消灯だけど、俺たちだけでも徹夜しないか?」
「いいなぁそれ!」
声のボリュームは落としながらも梅林は目を輝かせて言った。
「俺そういうの夢だったんだよ!やっぱりそうこなくっちゃ!なにする?トランプならここにあるぜ!」
「トランプはちょっと難しいんじゃないか?それよりも……。」
夜通し話す、というのは簡単なようで難しかった。
何しろ怪談は食堂で聞いた上に、梅林はお化けや幽霊が大の苦手なのだ。
だから怪談は話せない……かといって恋バナでは二人してネタがないのである。
「うーん……どうしよう。梅林、なんかいい話ないか?」
消灯時間の10時になって布団に入った大野がそう話しかけるも返事は返ってこない。
「梅林?」
ハッとして隣を見ると、さっきまでの勢いが嘘のようにスヤスヤと眠っている梅林の姿が目に入るではないか。
おいおい、まだ10分も経ってないのにもう寝ちまったのか?
軽く体をゆすっても眠りはずっと深いようで彼が目を覚ます気配はない。
一人残された大野はもう笑うしかなかった。
「梅林ならもう寝てるよ。ーー大野も早く寝ろよ。」
「そ、そうだな……ごめん。」
梅林の向かいの布団にいる鈴木はこちらを一瞥するとすぐに背を向けてしまった。
暗い部屋はどこまでも静かだった。
もしかすると起きているやつもいるのかもしれないが、これは誰も話す気はないという意志の表れなのだろう。
夜通しとはいかなくても他愛のない話をしたり、ただ皆で仲良く過ごすだけでよかったのに。
……そんな風に考えていたのは俺だけだったのだろうか?
布団をかけなおした大野は目を閉じて考えてみるも、答えは一向にまとまる気配がなかった。
他の部屋では今頃楽しく過ごしているのだろうか……10時に寝るというのがそもそも早いような気がするのに、1日目の終わりが これではあまりにあっけないではないか。
枕の向きを変えているとまた一つ誰かのいびきが聞こえてくる。
目が覚めた大野は首に走る鈍い痛みに気がついて手をやると「おはよう」と誰かが声をかけてきた。
「おはよう、大野。けっこう早かったな。」
「おはよう……竹田。それ、しおりか?」
時計を見ると起床時刻まではまだ15分の猶予がある。
大野が指さすのを見ると竹田は頷いて言った。
「俺今日はお茶係だからすぐに行かないといけないだろ?だから今のうちに書いとこうと思って。」
「そうだったな……俺も食事係だし早めに書いておこうかな。」
食事係は梅林も同じなのだが、彼はまだよく眠っていた。
せっかくだしもう少し寝かせてあげてもいいだろう……「少し早いけど起こす?」と尋ねる竹田に「やめとこうぜ」と大野は呟く。
昨日のカレー作りとは別に、班の中では他にも多数の役割分担が日によって決められていた。
お茶係は班員の水筒にお茶をいれるのが仕事だ……給食当番のように配膳や食事後の後片付けが仕事の大野たちと同様に、他の係よりも早く集まることが求められる。
「今日の目標か……。うーん。」
「……おい、さっきから何なんだ?その左手。」
「ーーあぁ、それは……。」
大きなあくびに目を擦ると、怪訝そうな竹田の輪郭が一瞬だけぼやけてまた元に戻った。
少し情けない気もするが、大野の発した言葉を聞いて竹田は目を丸くする。
できたら今日は、もっと平和で楽しく過ごせるといいな……。
徐々に騒がしくなり始める室内で、大野は密かにそう願わずにはいられなかった。